「くっついていい?」  
 
 初めて求めた触れ合いに頷いてくれた顔が優しくて、飛び込んだからだを包んでくれた腕が温かくて、  
――このひとのお嫁さんになれてよかった、志乃は心の底から満ち足りて破顔した。  
 心中を覆っていた暗雲の晴れ上がった清々しさに、夫の胸へ全身を預けたまま深く息を吸い込めば、  
最近になって一段と濃くなってきた男の体臭に交じり、しょうゆの甘じょっぱい匂いが鼻腔をかすめた。  
 目蓋を開けば、今日は自分が立てなかったかまどから、白い湯気のほわほわ立ち上がっているのが  
見える。嗅覚と視覚との刺激に、生理的欲求を思い出した志乃のからだは素直に反応した。  
――ぐううぅ…。  
「えへへ。お腹すいたね」  
 
「美味しい!!」  
「そうか、それは良かった」  
 二人でお膳を並べて、少し遅い朝餉を摂った。伍助の母と同居して以来、二人向かい合っての  
食事は久方ぶりであった。志乃はどこか吹っ切れたような笑顔で出来たての八杯豆腐を頬張っている。  
 伍助の料理の味付けは、知らず、妻である志乃より長年馴染んだ彼の母親のそれを踏襲していた。  
が、既に志乃は別段気にするでもなかった。空腹より先に心が満たされ、志乃のわだかまりは融けきっていた。  
「そーいえば、おかーさんは?」  
「母上は医者に出掛けた。朝餉は夕べの残り飯を雑炊にして一人で済ませたようだ」  
 起きがけに顔を合わせた、と付け加えながら、伍助はわずかに赤みの差した顔を隠すように白飯を  
かき込んだ。珍しく志乃が寝過ごしたことについて、下世話な憶測を働かせた母に「孫の顔が楽しみ  
だわ」とからかわれたことが頭を過ぎった。  
 尤も、以前の伍助ならばその手の冗談は真っ赤になってはぐらかすしか反しようがなかったが、  
今朝は「うむ」と軽く受け流せた。夫婦という事実をあらためて受け止められるようになった今、この先  
二人が子を生すということは、ごく自然な成りゆきのように思えた。たとえば自分に父と母の在ることに  
ついて、疑問を抱いたり下衆な連想をしたりしないように。  
 
「ごちそーさま! ごはんが美味しいと幸せだね!!」   
 二人分のお膳を片付ける志乃の後ろ姿に、昨日までの痛々しさはない。再び抱きしめたい衝動に  
駆られながら、ならば慣れない自分より志乃の作るごはんの食べられる晩の方が更に幸せに違いない  
と、伍助は早くも夕餉に思いを馳せた。  
 
 道場での稽古はしばらく個々に任せてい、城勤めも今日は非番であったから、伍助は日がな一日  
屋敷で過ごすことにした。差し当たり妻の内職を手伝おうと、連れ立って寝所を兼ねた志乃の部屋へ赴いた。  
 起き抜けに慌てて飛び出したままであったから、部屋には未だ志乃の夜具が延べられてあった。  
見れば志乃も未だ寝間着のままである。志乃の、ここ最近の疲労と気苦労とを思い、伍助は一つ提案をした。  
「今日はオレが面を作ろう。お主はそのままゆっくり休むがよい」  
 伍助は志乃の手を引き、肩を押してやや強引に夜具へ促した。  
「ダ、ダメだよ、ごっちんこそ……まだケガ治ってないでしょ? 寝てなきゃ!」  
 座り込んだ志乃が、伍助の袷の袂を引く。  
「いや、ケガは大分良くなった。動かぬと体もなまるしな」  
 伍助はかぶりを振り、志乃の肩から背に手を滑らせた。  
「でも、お面作っててケガしたら大変だよ」  
 志乃の手もまた伍助の腕に伸び、引き寄せられるように伍助は夜具の上に膝をついた。  
「そんなヘマはせぬ」  
「ほんと?」  
「心配症なのだな、志乃は」  
 伍助は志乃の髪を手櫛で梳くように頭を撫でた。それが心地良くて、もっと、とせがむように見上げた  
志乃の視線の先に、ふわりと微笑んだ伍助の顔があった。今日、何度も見せた表情。普段は険のある  
眉間のゆるんだ、すごく、安心する顔。  
 
「ごっちん」  
「む?」  
「あ、あのねぇ……えーと、……」  
 言いかけて、志乃はなにを言わんとしていたのかわからなくなった。思えば、さっきから会話が上滑り  
している。言葉より、求めているものと与えたいものとが、まるで他にあるように。  
 
 伍助もまた、なにかを言いかけようと口を開いては言葉を失い、間を繋ぐように志乃の頭を撫でた。  
指先に絡んだ髪に首筋をくすぐられ、志乃は肩をすくめた。  
 ふと志乃の中に悪戯心が芽生え、お返しをしようと伍助の頭に両手を伸ばしかけた。が、目的地に  
届く前に、この男が髪に触れられるのをひどく嫌がることに思い当たった。宙に浮いた手の行き着く先に  
しばし迷った末、そのまま伍助の首にまわした。  
 
 目測を誤ったのは、いつのまにか身長差が開いていたからだった。  
――あれ? ごっちんってこんなに遠かったっけ?  
 想定していたよりも背伸びした反動で、志乃は重心の釣り合いを崩した、……伍助を巻き添えに。  
「志、乃っ?……」  
「わっ!!」  
 触れ合ったまま二人、夜具の上に倒れ込んだ。  
 
 天井の木目が、顔に見える。少し上に二つ面長の染みがあって、まるでうさぎみたい。なんで  
今まで気づかなかったんだろ? あー、夜寝てるときも朝起きるときも暗くてちゃんと見えないからだ。  
そーいえばごっちんと結婚してから病気もしてないし、お日さまの出てるときにこの部屋で寝っころがった  
ことってなかったなぁ。  
 耳元で荒い息遣いを感じながら、志乃はぼんやりしていた。  
 全身に覆い被さった重みと、首筋に吸い付く感触。茶みがかった黒髪が視界の隅で揺れている。  
薄手の寝間着越しに、なだらかな隆起の上を無骨な指が行ったり来たりしている。裾から剥き出しに  
なった両ふくらはぎの間で毛脛がざらつく。素肌に熱い吐息のかかる度、からだの奥がせつなく疼く。  
 志乃は初めて呼び覚まされる感覚に身を委ねながら、ただ、ぽかんと仰向けに寝そべっていた。  
長い間そこに有りながら今になってようやく天井の模様に気づいたように、ずっと寝食を共にしてきた  
夫にこんな一面のあることも初めて知った。その新鮮な驚きは、好いた相手をもっと知りたいという、  
ごく純真な好奇心へと繋がった。  
 
 伍助は依然どこか浮かされたようになっていた。  
 肌蹴た衿元から差し込まれた手が、薄いふくらみを捉え、真ん中で主張しはじめた蕾に擦れる。瞬間、  
志乃の全身を甘い痺れが走り抜けた。  
「ひゃあんっ……!!」  
 上ずった声をあげ、志乃の体がびくんと跳ねた。  
 
 志乃の、これまで聞いたことのない声色に、伍助ははたと我に返った。あらためて状況を認識し、  
遅れて顔が赤くなる。  
 やがて、伍助は無言で半身を起こした。  
「……」  
「……ごっちん?」  
 志乃のきょとんとした目が、離れてゆく夫のからだを追う。  
「す、すまぬ。ちょ…調子に乗り過ぎた」  
 伍助は、志乃の寝間着の衿をかき合わせながら詫びた。  
 志乃が自分を拒まないことはわかっている。そもそも志乃は人を気遣うあまりに意に介さぬことまで  
受け入れ耐えてしまう性質なのだ。そのことは寝床の件でつくづく思い知ったばかりであるというのに。  
第一、このような明るいうちから不埒な気を起こすなど、オレはうつけ者かと、伍助は省みて眉間に  
皺を寄せる。不可抗力で訪れた好機とはいえ、どうにも一方的であった。  
「さ、さて、面を作るとするか」  
「……すまなくないよ」  
 腰を下ろしたまま身支度を整え、くるりと翻った伍助の背に、志乃の声がかかる。  
 志乃は上体を起こし、伍助の袷の後身頃をそっと掴んで引き止めた。  
「あたし、ごっちんと……もっと仲良しになれたら、うれしい」  
「志乃……」  
「えへへへ」  
 振り向いて言葉につまる伍助を、志乃の少しはにかんだ笑顔が迎え入れた。欠けた歯ののぞく口元が、  
上弦の弧を描いて艶めいていた。  
 
――しゅるり。  
 志乃の髪を結わえていた布紐の端が引かれ、解けた髪がはらりと舞い降りた。うなじに感じる  
こそばゆさに志乃は思わずぎゅっと目を閉じる。再び目を開くと、伍助の顔が驚くほど近くにあった。  
伍助は志乃の前髪をかき上げ、額に唇を押し当てた。それから、月見の晩のときのように両手で志乃の  
手を取り、目配せをして、やがて、口を吸った。  
 
 安閑とした午であった。閉ざした障子の向こう、陽だまりの庭ではいつものように猫が集まっているのか、  
にゃあにゃあと鳴き声が漏れ聴こえた。  
――終わったらごはんあげなきゃ。と、思いつけば、これから起こらんとしていることになまなまとした  
現実感が湧いてき、志乃は急に恥ずかしくなった。  
 
 再び横たえられたとき、先刻にはなかった覚悟のようなものが、無意識に志乃のからだをこわばらせた。  
「案ずるな」  
 察してそう諭す伍助の声も、志乃の頬に触れる手もふるえていた。それが妙におかしくて愛おしくて、  
志乃は胸がきゅうんとつまるようだった。  
「うん」  
「いやだったら言うのだぞ」  
「ん…」  
 不器用に、それでいていたわりのこもった手つきで、伍助は志乃の肌をなぞってゆく。細い肩を撫で、  
控えめなふくらみを包み込み、なめらかな腹に滑り出る。志乃が恥じらいながらも甘い声を漏らし始めた  
頃、安堵したように、ぎこちなかった所作にも情欲の色が滲んできた。  
 いつしか志乃の膝小僧が自ずから持ち上がってい、寝間着の裾が割れていた。太股に纏わりつく  
二布をわずかに捲り上げ、伍助は開かれた脚の間にからだを割り込ませた。そうして、くつろげた志乃の  
胸元に顔を埋めた。  
「あ……」  
 志乃の脳裏に、今朝方の食卓が思い浮かんでいだ。はふはふと湯気の纏った八丁豆腐。息を呑む  
ように静かに口先で啜り入れ、舌を絡め、ゆっくりと味わった、壊さないように、崩れないように。唇に舌に  
ありったけの、優しい力で。  
 唾液に濡れた胸がほんのり色づき、ため息まで染まりそうなほど上気していた。  
 
 まもなく伍助の手は下肢に伸びた。赤い二布の中に忍び込んだ手が、膝に添い、内腿を攻め、若草の  
繁りに到達する。自分でもそう触れたことのない場所を弄られ、ひくひくと志乃の腰が浮いた。  
 するうち二布の紐が解かれ、湿り気を帯びた箇所が外気にさらされた。まじまじとそこを見つめる夫の  
視線がたまらず、志乃は羞恥に染まった頬を枕に擦りつけながら思わず声をあげた。  
「や……」  
「――すまぬ」  
 伍助はどこがどうなっているかを把握するように懇ろに這わせていた手を、即座に止めた。伍助は  
経験がないからこそ慎重で、乏しい知識なりに、志乃がつらくならないようしきりに配慮しているつもりで  
あった。が、返ってそれが志乃を焦らすことになっているとは気づいていない。  
「あ、ううん……い、いやじゃ、ない、よ……」  
「そ、そうか」  
 消え入りそうな声で志乃が続きを乞う。躊躇いがちに行為が再開され、ひとしきり懐柔された後、  
あふれ出たもので濡れそぼった伍助の指が、志乃の内部に沈められていった。  
 
「あ、あ、あ、い、いい…っやあん…ん、ああ…っ…」  
 ゆるゆると蠢く指に頭の中までかき乱され、志乃は右へ左へと頭を振った。いつとなく寝間着は、腕を  
通した袖口と緩んだ帯とで、かろうじて着衣しているといったほどに着崩れていた。  
 はあはあと息を乱しながら志乃がなにげなく辺りを見遣ると、虚ろな視界に、伍助の愛刀の立てかけて  
あるのが映った。近々戦いに挑まんとする男の魂ともいうべき一振りと、その猛々しさを内包しつつ  
外身には繊細な蒔絵の施された鞘。何故だか強烈に目を奪われ、ふたがれている場所が疼いた。  
正体のわからぬ情動に喘ぎながら気が遠くなりかけたとき、志乃の中からとぷりと指が引き抜かれた。  
「志乃よ」  
 伍助は真剣な、それでいて幼子をあやすときのような声調で、妻の名前を呼んだ。  
 志乃は憂慮に眉を歪めながら、それでも口元に微笑みを湛えて、返事の代わりにうなずいた。  
 衣擦れの音がして、畳の上に、六尺の晒し布が抛られた。  
「あ、――――」  
 貫かれる衝撃に、息が止まる。しがみついた腕に力を込め、志乃は知らず伍助の肌に爪を立てた。  
 
 その後は、なにがどうなったのか、無我夢中に過ぎた。  
 身を引き裂かされるような痛みと、あまやかな陶酔とが交互に押し寄せ、志乃は泣き浸りながら  
身悶えた。眩暈の中で淡い虹彩の粒々の揺らめくのが見え、触れようと夢うつつのうちに片手を伸ばす。  
幻に向かって宙を掻いた左手は、思いがけず夫に握られた。忘我の彼方から呼び戻され、濡れた瞳を  
うっすら開けば、天井のうさぎが伍助越しに見え隠れした。  
 
「っ、志乃っ……!!」  
 夫の切迫した声が聴こえ、胎内にほとばしりを受けた。  
 尋常でない痛覚と疲労と、下腹部の違和感とに朦朧としながら、志乃はことの終わりを悟った。  
 ぽたり、と志乃の頬に雫が落ちて、夫のからだが離れた。伍助はとなりに横たわっていた、志乃とは  
反対の方向に顔を向けて。唐突に心細くなり、唯一繋がったままの手に力を込める。すると、そうする  
のが当然であるかのようにぎゅっと握り返されて、志乃は心がひどく安らいでゆくのを感じた。  
 
 九ツの鐘が鳴った。  
 交情の余韻も落ち着いた頃、伍助は寝返りを打って志乃に背を向けた。気づかれてはいるのだろうが、  
泣き顔を妻に見られたくなかった。気取られないように眼を拭う。こういうときに男が泣いてしまうなど、と  
面目ない気持ちでいると、背後から志乃が気遣った。  
「ごっちんも痛かった? ごめんね……」  
 志乃は、伍助の肩口に自分のつけた爪痕を見つけ、撫でさすった。  
「あ、いや、そうではなくてな……」  
「ごめんね。血が出てる……すぐに手当てするね!」  
「それには及ばぬ、第一、オレよりもお主の方が、その……」  
 伍助は振り返ってちらりと敷布の赤い染みに眼を遣り、口ごもった。上体を起こして、あたりから探った  
懐紙を志乃に差し出す。  
「……えへへ。なんだか恥ずかしい」  
 
 志乃が受け取った懐紙で後始末をしている間、伍助は人心地のついた思いに浸っていた。  
「……本当の夫婦になったのだな」  
 それでつい感慨深くなってしまったのだ、と続けようとした台詞は、声となる前に志乃にさえぎられた。  
「ごっちんは最初からあたしの本当のだんなさんだよ」  
 志乃の無邪気な返答に心浮き立ちながら、志乃が妻となった相手が自分だけではないことに気づいて  
はっとした。本当の、という言葉の見解の相違と意外な重さに、伍助は軽はずみな呟きを悔いた。確かに  
決してこれまでも、自分達は名ばかりの夫婦というわけではなかった。  
「すまぬ、志乃。オレは深く考えもせずに世迷いごとを……。つまるところ真の夫婦の定義とは」  
「急にどしたの? それより、なんかのど渇いたね。お茶淹れてくるね!」  
 当の志乃は含みを持たせたつもりもなかったので、辛気くさい顔で弁じかけた伍助をあっさり撥ねつけ、  
立ち上がろうとして腰を上げた。途端、からだの一ヶ所に力が入らないといったふうに、くたりとなった。  
「だ、大丈夫か?」  
 なにか自分の首尾に至らぬところがあったのでは、と伍助は気が気でない。  
「えへへ…。平気だよー。ちょっと痛かったけど……いつか赤ちゃん産むときに比べたら、たぶん全然」  
「な」  
 突然な話の飛躍に、伍助はどきりとした。先程のが子を宿すための行為であることはわかりきっていた  
ことだが、精神の充足感と肉体の快感とが先立ち、ついぞ今は吹き飛んでいた。  
「でも、あたし安産型だからお産が軽いんだって。おかーさんが言ってた!」  
「は、母上がそんなことを」  
 伍助は茫然とした。よもや母と妻とが自分の知らないところでそのような話をしていたとは思いも  
よらなかった。武家の嫁ならば跡継ぎをせがまれるのは当然とはいえ、心に負荷となっていなければ  
良いのだが。そう案じたものの、志乃の様子からするに、どうやら要らぬ心配であったようだ。男には  
わからぬ女同士の世界があるのかもしれない。  
「あたし、ずっとおにいちゃんと二人だったから、家族がいっぱいになったらいいなぁ」  
「う、うむ…そうだな……が、がんばる……」  
 なにをだ、と心の中で突っ込みながら、伍助は志乃の代わりに茶を淹れに発った。  
 
 寝所から台所へ、今朝来た道順を返しながら、行きと帰りで意識とからだの感覚とが変化している  
ことに、伍助は妙な面映さを感じた。どこか浮き足立つ足取りに、ここでもし母上に遭遇でもしたら、  
なにか感づかれてしまうのではないか、と思ったが、感づかれたところで不都合などありもしなかった。  
 母のことが浮かび、伍助は志乃を思った。母となった志乃の姿など、伍助はまだ想像もつかないが、  
志乃はそうでもないようであった。或いは、契りを結んで実感が湧き出したのだろうか。どちらにしろ、  
初めてのことが終わって早々に子へと意識の向かうあたり、女というものの本質を見た気がした。  
もしかしたら、まさに今、志乃の中でなにかが起こっているのかもしれない。  
 伍助は茶を注ぐ音や湯気の匂いにすら幸福を感じ、揃いの夫婦湯呑みを二つ盆に並べると、急ぎ  
足で妻の待つ部屋に戻った。  
 
 障子を開けると、志乃はすーすーと眠りこけていた。やはり疲れていたのだな、と伍助は妻の寝顔を  
眺めながら傍らに座り込み、湯呑みに口をつける。汗ばんだ額に貼りついた前髪をはらいのけ、夜着を  
掛け直してやると、志乃はくるりと寝返りを打ち「んん」と寝言を言った。さっきまで嬌態を演じていたとは  
思えない、いつも通りの子供のようなあどけない寝姿に、思わず口元が緩んだ。茶を半分ほど啜った  
ところで、障子の向こうから「にゃー」という声が聴こえ、伍助は湯呑みを盆に置いて縁側に出た。  
 
「よしよし、仲良く分けるのだぞ」  
 庭に降り、常駐している猫に餌をやる。五十匹ほど拾ったうちのほとんどは結婚を機に義兄に引き  
取られたが、今でも数匹は屋敷にいて目を和ませている。  
「遅くなってすまんな」  
 待ち焦がれていたようにごはんを貪る猫達の中で、とりわけ必死に食らいつく雌猫の腹が重たげに  
ふくらんでいる。あっというまに皿が空になり猫が散ると、こびりついた飯粒に雀が集まってきた。あと  
数刻したら、図々しく昼餉を頂きに義兄がやって来るだろう。そしたら志乃が、口では冷たくあしらい  
ながらも揚々と給仕するのだ。  
 普段となんら変わりない、いつも通りの光景。  
 内職をする予定ではあったが、志乃と同じ部屋に居て起こしてしまうのは忍びない。療養中に、と  
貸本屋に借りた馬琴の新作を読破した後、文机に向かって墨を磨ろうか。  
 母と暮らし初めてから手紙をしたためる必要はなくなったが、その日にあったことを書くという習慣は  
残り、伍助は日記のようなものをつけていた。御前試合以降はとりたてて大きな出来事もなく、わざわざ  
書き記すまでもないような普遍的な内容ばかりになっている。  
 じきに夫婦のまぐわいも、特筆すべきことでもなんでもない当たり前の日常になってゆくのだろう。それは  
感傷のようでもあり、幸福のようでもあった。それならば、新しい日常の始まりという限られた時だけの、  
今この瞬間この胸を満たしている、あふれんばかりの仕合わせの存在を覚えておきたいとも思った。  
 
 さて、と立ち上がり、振り仰いだ青空に、真昼の月が浮かんでいた。夜のように煌々と光を放つことも  
なく、静かな白さで下界を望むそれは、晴天の真ん中に優しい指標のように佇んでいた。  
 そういえば、うさぎは昼の月に向かっても跳ねるのか、聞いたことがなかった。志乃が起きたら尋ねて 
みよう、と伍助は、今日の日程を一つ付け加える。きっと思いがけない答えを導いてくれるだろう志乃の、  
得意げな笑顔を想像しながら、伍助は陽に暖まった縁側で欠伸をした。  
 
 
 
(終)  
 

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