ミツキが家を出る日のこと。  
 
「やはりオレが付いて行った方が良いのではないか?」  
「大丈夫だって!もう……。お母さん、何とか言ってよ」  
「それだけミツキのことが心配なんだよ。お父さんも」  
 
一人そわそわしている伍助。その隣で落ち着いている志乃。  
いつもは家を引っ張る大黒柱が、いざ娘のこととなると全く取り乱してしまう。  
こんな時は父と母の立場が逆転する。  
 
今回家を出るとミツキが言い出した時も、  
反対一辺倒の父を抑えて母はしっかりミツキの主張を聞いてくれた。  
年頃の娘の気持ちが分かるのは、やはり同じ経験をした母なのだろう。  
 
「そんなに心配しないでよ、お父さん」  
「しかし…」  
父を安心させる様にミツキは話した。  
 
「一人暮しって言っても、ここから住まいまでそんなに掛からないし。  
 何時でも戻ってこれる距離だから大丈夫だよ」  
「…とはいえ何時でも戻ってきたりはしないであろう?」  
「そりゃそうだけど…。まあ、暫くは一人で頑張ってみるつもりです」  
ミツキの言葉にも、伍助は苦い顔をする。  
 
 
 
引越しの前日、娘が心配でならない伍助はせめて引越しを手伝おうと、  
その日道場を休む準備までしていた。  
直前になってそのことを母から聞かされて知り、  
ミツキは大声で父親の世話になることを固辞した。  
 
『恥ずかしいからやめてよっ!!子供じゃないんだから!!』  
門下生の前で娘に叱られる、恥ずかしい道場主の姿があった。  
 
「…そろそろ、行くね」  
「あ、ちょっと待って!」  
「?」  
「はい、コレ」  
志乃は梅干が入れてある小瓶をミツキに渡す。  
昔、祖母が紀州から梅干を買い付けてくれていた。  
そんなに好物ではないのだが、梅干を見ると祖母を思い出し懐かしい気持になる。  
今の成長した姿を見れば、祖母はなんといってくれるだろうか。  
 
「たまには帰ってきてね」  
「いつでも待ってるからな」  
「…うん。ありがと」  
 
いざ家を出るときになって、急に両親の優しさが身にしみる。  
何だかんだ言っても、いつも自分のことを考えてくれているのだと思うと、  
ミツキは嬉しいようなすまないような複雑な気持ちになった。  
 
「何なら一日出発を延ばしても…」  
「だーーかーーらーー!!」  
辺りに響き渡るミツキの声。  
 
 
「じゃ、行ってきます!」  
両親の不安を振り切るように、ミツキは元気良く屋敷を後にする。  
その姿が見えなくなるまで、宇田川夫妻は娘を見送っていた。  
 
 
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その日の夕食後。  
お茶を書斎に持っていこうとした志乃は、縁側で物思いに耽る夫を見つけた。  
 
「お父さんったら、どうしたの?」  
「む、いや…」  
声を掛ければ、いつになく張りのない返事が返ってきた。  
見ると伍助の手には、一回り小さな竹刀が納まっている。  
 
「それって、ミツキの竹刀…」  
「うむ」  
五歳頃から自ずと剣術をやりたいと言い出したミツキに、伍助がこしらえてあげた竹刀だった。  
 
「ミツキが居なくなるだけで、随分と寂しくなるものだな」  
「そうだね…」  
徐々に普通の竹刀を扱えるようになり、そのまま使わなくなってしまったが、  
これももう倉庫にしまってから随分久しい。  
「これを使ってたのも、ついこないだのことだとばかり思っていたのだが…」  
つくづく時間の早さを思い知らされる、と伍助は漏らす。  
 
志乃は運んできた茶を伍助に渡した。  
二人とも無言で茶を啜る。共に想うのは娘のことだ。  
 
「でもお父さんったら心配しすぎ。ミツキも困ってたよ」  
しんみりとしてしまっている伍助に、志乃は話しかける。  
 
「だって、まだ十五だぞ?」  
「もう十五だよ」  
志乃は伍助を諭すように、優しく語りかけた。  
 
「わたし達が一緒に暮らし始めたのだって、十五の時だもの」  
「…それは、そうだが……」  
 
志乃と暮らし始めたのが十五の頃だった。それから人生の半分以上を、共に過ごしてきたことになる。  
同時にミツキが生まれてからもうそれだけ経つのかと、伍助は改めて感慨にふける。  
 
二人の間に子供が出来てからは、本当に駆け足の如く時が過ぎていった。  
そして十五年もの歳月は、周囲の様々な事柄を変化させていった。  
 
千代吉やマロに兄の摂津、穂波と反蔵といったかつての門弟達は、それぞれの仕事についている。  
誰より孫の誕生を喜び、幼いミツキを世話してくれた伍助の母も、今はもういない。  
伍助と志乃もいつからか、娘に合わせて互いの名前を呼ばなくなっていた。  
 
中でも一番の変化は、母親になった志乃自身だろう。  
ミツキが生まれてから志乃のふるまいは、今までの天真爛漫なものから温良恭倹なものへと変化していった。  
振る舞いや言葉遣いもしとやかなものとなり、少女の可愛らしさと引き換えに女性の美しさが備わっていった。  
母親になるということはここまで人を変えるものなのかと、伍助は驚かされた。  
 
やはり、こと娘のことになると、父よりも母の方がしっかりしているものなのかも知れない。  
今日の見送りでも、心配する伍助をよそに、志乃は慌てる様子もなくミツキを送り出していた。  
 
「お母さんは不安じゃないのか?」  
落ち着き払っている様子の妻を見て、伍助は尋ねる。  
 
「そんなことないけど。でも、ミツキなら大丈夫だよ」  
「…どうしてそんなに平気で居られるのだ?」  
志乃の確信に満ちたような態度が、伍助にはやや腑に落ちない様子だった。  
「…一生懸命頑張るあの子だったら、きっと大丈夫」  
そう答える志乃の声は、穏やかながらも芯の通った力強さを帯びていた。  
 
「それに、わたしたちの子だもの」  
そしてまた、志乃は付け足す。  
「わたしと…ごっちんの。…ね?」  
 
ふと自分の名前を呼ばれて、伍助は目を丸くした。  
最後にその呼ばれ方をされたのはどの位前だったろうか。  
驚いた様子の伍助が可笑しかったのか、悪戯っぽい微笑みを返される。  
 
志乃は夜空へと視線を向ける。  
その先には、雲一つ掛からない満月が輝いていた。  
 
「あの子も月に向かって、頑張ってるんだよ」  
温かく娘を見守る母親の姿。  
自身が目指す月に近づこうと頑張って居た時の少女の姿。  
その二つが重なって見えたのは、薄暗い月の光で相手がよく見えないせいだろうか。  
 
「そうか……そうであったな」  
伍助は己の心配が杞憂だったことを自覚した。  
「あの子はオレ達の子だ」  
 
伍助は志乃の肩に手をかけた。  
そのまま志乃を自分の身体へと引き寄せる。  
「オレと…志乃の子だ」  
久方ぶりに妻の名を呼んだ。  
 
 
この先ミツキの周りにも、思いがけない事や、やりきれない事など、  
世間の色んな不条理が立ちふさがることだろう。  
それでもこの15年間、  
自分でも親馬鹿かもしれない、と思う程度には娘のことを考えてきたつもりだ。  
 
人生を楽しく過ごすことができるように。  
自分の目指すべき月を見つけられるように。  
月に向かって跳ねる、うさぎになれるように。  
 
そう育って欲しいと願いつつ、日々ミツキに接してきた。  
 
それに自分だけではない。  
志乃もまた常に、ミツキへ優しい眼差しを向けていた。  
祖母もよほどミツキのことが可愛かったのだろう、最後まで孫のことを案じていた。  
初期の門弟達と年に数度盃を交わす時にも、酒席にミツキをつれてゆけば、  
皆我が子のように可愛がってくれた。  
 
これまで沢山のうさぎに囲まれ愛されながら、ミツキは元気良く育ってきた。  
 
そんな彼女であれば、きっと大丈夫だろう。  
隣にいる妻の言葉に、伍助はそう思った。  
 
月が照らす屋敷の縁側で、夫婦はしばらく座り込んでいた。  
夜風の寒さが、より隣の人の体温を感じさせる。  
 
「こうして二人になるのも、久しぶりだね」  
「…うむ」  
何気なく呟く志乃に、伍助がうなずく。  
えへへ、と唇から欠けた歯を覗かせて、志乃が笑う。  
 
夫婦の誓いをしたあの頃に戻ったような、屈託のない笑み。  
良い笑顔だな、と伍助は思った。  
 
 
仄かに香る椿油の香りが、その存在を確かめさせてくれる。  
こんなに近い距離で志乃の顔を見ることもいつぶりだろうか。  
久しぶりに間近でみる妻の顔は、あどけなく、それでいて美しかった。  
 
「志乃」  
「なあに?」  
 
改めて、腕の中にいる妻の名を呼ぶ。  
長らく呼ぶことの無かった、大切な人の名前を。  
その響きを口にするたび、目の前にいる女性をたまらなくいとおしく感じる。  
 
志乃が振り返ると、普段と様子が違う伍助の表情があった。  
いつしか笑顔もなくなり、目の前にいる人の顔をただ見つめる。  
心なしかその表情も熱っぽい。  
 
月明かりの下で見つめあう夫婦の姿。  
自然と二人の距離が縮まっていく。  
「…あ……」  
 
気が付けば、無意識に唇を重ねていた。  
口付をほどき志乃を見れば、その眼差しはどこかぼんやりとしている。  
そのまま志乃の背中に腕を回す。  
 
自分の胸の中にじわりと生まれつつある相手への思慕。  
この想いを身体越しに伝えられれば。  
志乃を抱く腕に自然と力が入る。  
 
優しい感触に包まれ、志乃は胸の奥から溢れ出るものを感じていた。  
やがて志乃も、伍助の背中に腕を回す。  
 
「今日…いつもと違うね」  
「すまぬ。驚かせてしまったか」  
「ううん…そういうわけじゃないんだけど…」  
 
「何だか急に、抱きしめたくなってしまった」  
「……」  
「ミツキにばれたら、娘が家を出る日に何をしてるんだと、きっと怒られてしまうな」  
伍助は自嘲気味に語った。  
 
「…部屋に行こうか?」  
伍助の衝動を拒むでもなく、志乃は言う。  
予想していなかった相手からの提案に、伍助は息を呑んだ。  
 
「きっとあの子も今日ぐらいは、許してくれるよ」  
いつになく甘く聞こえる志乃の声。  
伍助の頭は段々と、理性が働かなくなっていた。  
 
「きゃっ!」  
 
伍助は、座っている志乃を身体ごと前に抱きかかえて立ち上がった。  
そのまま一直線に寝室へと向かう。  
志乃は振り落とされないよう首にしがみ付く。  
より互いが密着するような体勢になり、それが伍助の気持を一層逸らせた。  
 
寝室に到着してすぐ布団の上に座り込み、二人は向かい合う。  
 
己の鼓動が聴こえてしまうのではないかと思う程、伍助は興奮していた。  
志乃の表情もまるで伍助にあてられたように上気づいている。  
再び口付を交わす。  
 
「……む、はっ……んぁ…」  
 
唇の隙間から漏れる声が、互いの炉に薪をくべる。  
水音と息遣いが、二人だけの濃密な時間を作り出す。  
 
「ぷはぁっ……っ…はぁ…」  
 
勢いが収まってくるのも束の間。  
志乃の胸に伍助の手が重ねられる。  
 
「…あ……」  
 
衣服の上からやがて中へと、伍助の手が進入してくる。  
志乃はなすがままにそれを受け入れる。  
寝巻の前だけをはだけさせ、志乃は布団の上に横たえられた。  
 
「…どうしたの?」  
志乃に覆い被さった体勢のまま、伍助はただ志乃を一心に眺めていた。  
行灯の明りに映える白い肌。控えめだが形の整った乳房。すらりと伸びた身体。  
いつの間にか、女子から一人の女性へと変化を遂げていたことに気付く。  
 
「そんなに……見ないで……。恥ずかしい…」  
夫のいつになく熱い視線に堪えられず、つい言葉を漏らしてしまう。  
「…オレに見られるのは嫌か?」  
「そうじゃ、なくって…。なんだか、ムズムズする……」  
 
既に二人の間には子供が居るにも関わらず、  
初めて素肌をさらけ出すような気恥ずかしさを覚えてしまう。  
先ほど名前を呼びあってから、二人ははかつて結婚したばかりの頃、  
お互いの事ばかり考えていた頃の気持ちを想い出していた。  
 
伍助は志乃の乳房に舌を這わせる。そして己の武骨な手で、すべらかな妻の肌に触れた。  
志乃は夫の所作から感じる声を必死に抑えようとしている。  
 
「……あっ、やあっ、…んっ!」  
「……もっと、…声を聞かせてくれっ……」  
 
「だ、って……部屋の外、に、漏れちゃ……」  
 
「今は…オレと、志乃しか、おらぬ」  
「は、あっ!!や、ひぁんっ!!」  
 
理性の壁を突き崩され、志乃の嬌声が部屋に響いた。  
夫に触れられる度、身体が理性と共に蕩けて行く。  
よもや周りなど見えず、自然と大きな声を上げてしまう。  
 
「…ごっちん……はやく……」  
「もう、いいのか?」  
「うん……ちょうだい………」  
 
ねだる志乃の声。自分を抑えることが出来ないほどに、志乃は昂っていた。  
伍助は己を濡れた秘所に当て、そのまま押し分けるように志乃の中へと入っていく。  
 
「ひゃ、あ、ああっ!」  
強張りが埋め込まれた途端、志乃の身体が跳ねる。  
 
 
普段の落ち着きはなく、ただ貪欲に相手を求め、抽送し続ける。  
互いに何を言葉にしているのか分かっていない。  
意識の向こう側で、声と体温と匂いが混じり合い、相手の存在を認識する。  
 
 
 
「…ごっ…ち…、ん…!ごっちん……!」  
「し……の……っ……」  
朦朧とする中、息も絶え絶えに互いの名を口にする。  
 
程なくして、二人は達した。  
伍助が志乃の中へ熱い滾りを放ち、志乃はそれを奥底で受け止めてゆく。  
 
「は………ぁ、…あ………」  
相手の脈動を感じながら、二人は暫くそのままの体勢で動かなかった。  
 
 
事を終えた二人が、一つの布団に入っている。  
契りの後の充足感と気だるさに包まれ眠りに落ちようとした時、  
そっと聞こえてきた妻の声に伍助は呼び起こされた。  
「ごっちん」  
「…どうしたのだ?」  
大切な人が、親しみを込めて呼んでくれる呼び名。  
この言葉の響きだけで、何故こんなにも満ち足りた気持ちになるのだろう。  
 
「…何でもない」  
そう言いながらもどこか嬉しそうに、志乃は身体を寄せてくる。  
その様子を見て、伍助は妻への愛しさを募らせる。  
 
「…ミツキも、いい旦那さんに巡り会えるといいね…」  
小さな声で零される志乃の言葉。伍助はどきりとした。  
 
――オレは志乃のよき夫に成れていると、自惚れてもいいのだろうか?――  
 
「志乃…」  
返事はない。代わりにすうすうと寝息が聞こえてくる。  
そのとても安らかな音と寝顔を起こさぬよう、そっと見つめる。  
 
志乃と一つになり、伍助はふと思った。  
思えばこれまでずっと、志乃に支えられてきたのだと。  
 
志乃が笑顔を見せることのない日は一日とて無かった。  
不器用だった自分は、どれだけ彼女の笑顔に助けられてきたか。  
あの時摂津殿から縁談を持ち掛けられることが無ければ。  
今となっては想像することすら出来ない。  
 
「……オレは幸せ者だ」  
妻の長い髪を梳きながら、伍助は独りごちる。  
 
「あたしもだよ……」  
寝ている筈の妻から声が聞こえ、伍助は慌てて腕の中を見る。  
そこには目を閉じたままではあったが、優しく笑っている志乃の顔があった。  
 
 
 
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――後日、  
のちの旦那さん候補を家に連れてきたミツキと伍助との間で  
一悶着が起こることになるのだが、それはまた別のお話。  
 

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