先に床に就いてまどろんでいると、寝所の戸の開く音がした。ひたひたと足音が近付いて、  
室内がわずかに蒸し暑くなる。二つ夜具を延べているにも関わらず、湯上りの男はおキヨの隣に  
すり寄ってきた。横抱きに体を探られ、足が絡められる。晩酌のなまぬるい残り香が首筋にかかり、  
くらくら酔いそうになる。  
「は…あ、あん、あんた……っ……」  
 寝間着の膝前をかき分けもぐり込んだ手が股ぐらをいじくってくる。じわじわ湿ってゆくそこが  
晒されれば、火照った肌が夜気に冷まされる間もなく、男が覆い被さった。脚を開かれ、いい  
塩梅に濡れそぼったところに硬く屹立したものが入ってくる。適度に抜き差しして奥深くで  
果てた後、男はころりと寝てしまった。  
「……はあ」  
 寝息をたて始めた男を横目に、慣れた手つきで後始末をしながら、おキヨはため息をついた。  
肌蹴た寝間着を直すために起こした体は、既に熱を失っている。たいして燃え上がりもせずに  
くすぶり尽きた後の部屋はしんとしていて、規則的ないびきの音がやけに透った。憎らしいほど  
清々した男の表情が、有明行燈の頼りない灯かりに浮かび上がった。透かせば黄金色に  
反射する男の髪が、おキヨのため息を受けて揺れた。  
 まるで一日の習慣でしかないような、味気ない交合であった。  
 
***  
 
 花の吉原で太夫を務めていたおキヨが、下級武士・摂津正雪の下へ身を寄せることを決めたのは、  
後に侍の世に一石を投じるきっかけともなった御前試合の、前日のことであった。  
 久方ぶりに茶屋を訪れた正雪は、待ち焦がれて群がる遊女達とひとしきり談笑した後、おキヨを  
残して人払いをした。  
 往来を望んだ二階の指定席で、手すりにもたれて腰掛ける二人の間には、一畳分の距離が  
ある。おもむろに正雪が本題を切り出すと、おキヨのお手玉の手が止まった。受け止めそこねた  
お手玉が一つ、ぽとりと二人の間に落ちた。  
 遠まわしでぶっきらぼうな求婚だった。  
 紅のさした唇の端をわずかに持ち上げ、倣うように、おキヨは素っ気ない返事をした。あまりに  
つれなすぎて了承の意思に気づくのが遅れたのか、正雪は呆気に取られたように目をまるくした。  
 こんなときですら甘い雰囲気の少しもないのが、幼なじみの二人らしいと言えば二人らしい。  
だからといっていつものように軽口も出てこないのは、玉砕する覚悟の方が大きかったから  
なのかもしれない。  
 ややあって、「楼主様に話をつけて来ますわ」と、おキヨが身をひるがえした後、ようやく実感が  
沸き出したのか、正雪は両の拳を握りしめ、喜びの感情を剥き出しにした。  
(まったく、素直じゃないんだから)  
 背中の向こうで密かに全力で安堵している男に気づかないふりをしてあげながら、おキヨも  
また、高鳴る胸を抑えるように両手を添えた。乙女色に染まった頬が熱かった。梯子段を降りる  
足取りが、心なしか弾んだ。  
 ――素直でないのはお互い様だった。悪態をつくのは照れ隠しであり、おそらく結ばれないで  
あろう相手に想いを募らせないための己への牽制であり、外では愛想を振りまく二人が互いに  
気を許し合っているという証拠でもあった。誰にも気づかれることなく、当人同士ですら確かめ  
合うこともなく、ひっそりと育まれていた、それでいて確かな慕情であった。  
 茶屋の楼主は、おキヨの申し出をあっさり受諾した。身売り分は稼ぎ終えていたため、稼ぎ頭の  
太夫とはいえど、引き止められることはなかった。が、夜具代や調具代、正雪に費やしてきた  
飲食代や身揚がり分を返したら、貯えなどいくらも残らなかった。黒髪を飾っていたかんざしや  
笄も寸志代わりに朋輩や禿にくれてしまえば、すっかり身軽になった。  
 深々とお辞儀をして、おキヨは吉原大門を後にした。  
 それまで築いてきた地位も通り名も捨て、華やかな色街から質素な武家屋敷へ、おキヨは  
文字通りの身一つで転がり込んだ。  
 
「――不束者でございますが、よろしくお願いしますわ」  
「どうしたよ、あらたまって。照れくせェな、おい」  
 初日の晩。盃を汲み交わし、祝言の真似事をした。  
 おキヨは夜具の上に腰を落とし、かしこまって三つ指をついた。隣に並んで座り込んだ正雪は、  
おキヨが身を起こすのを待って、肩に手をかけた。引き寄せられるままもたれかり、見上げた  
視界を、影が覆った。ゆっくり、唇が重ねられた。わずかに、麹の味が広がった。  
 顔を離せば正雪の唇に紅が付着してい、おキヨが笑いながら指先でぬぐった。かつて、剣術の  
稽古で負傷し、出血した唇をこんなふうにぬぐったことがなかったか。才能のない彼はいつも  
傷だらけだった。それをからかうのが日課だった。あの頃は、こんな日が訪れることなど、想像も  
していなかった二人であった。  
「……おキヨ、おキヨ。摂津キヨ」  
「なんですの?」  
「口になじませてんだよ、名前」  
 久しぶりに呼ぶ名を、抑揚を変えて復唱する正雪に、おキヨは呆れて言った。  
「今更そんなことしなくても、おキヨって呼んでた時期の方が長いでしょ」  
「そうだっけか? 離れてからのが長かった気がするぜ。……お前もいろいろ変わったからよ」  
 そう言って、正雪は自由な方の手でおキヨの胸元を触り、そのままするりと衿の中に忍び込ませた。  
「ばか、あ……んっ……」  
 首筋に唇が滑り、肩を抱いていた手が襦袢の裾から中へ侵入する。  
「やっ、……ちょ、なぁに? ああんっ、もうっ……」  
 形ばかりの抵抗をしながら、おキヨは男のするがままにさせた。後ろ手に乳房が揉みしだかれ、  
陰部からは淫靡な水音が立ち始める。淫蕩に慣れた手は、おキヨの体を難なく悦びに導いた。  
「あんただって、……んっ、変わっ、たわ……」  
「そりゃあ、変わるさ。変わらねェと追いつけねェと思ってよ……」  
 耳元で呟く声に熱い吐息が混じってい、おキヨはぞくりと肩をすくめた。いつになく低い声は、  
本気とも冗談ともつかないほど甘い。  
「嘘おっしゃい。ただの助平じゃ、な、……っ」  
 おキヨの内部で男の指が蠢く度に、手の平が、花芽を思わせる突起に擦れた。  
「ひゃ……いや、あん、ん、堪忍して……ああっ!」  
 もはや憎まれ口も出てこない。与えられる快感に身を委ね、背を弓なりにしなだれかかる。  
肌蹴た肩に荒々しい息がかかり、布越しの背中に男の体温が伝わる。帯の下で、男の体に  
変化が起こっていることも感じとれた。更なる刺激を欲して、体の奥が疼く。  
 おキヨは振り向いてしがみついた。  
 熱い胸が密着して、直に響く鼓動に、気がふれてしまいそうだった。  
 
 男の腕の中で、おキヨは初めてのように振る舞った。まるでなにが起こっているのかわからず、  
ふるえながら夜具の端を握りしめた。色ごとの味を知らぬ体ではないのに、もたらされる感触の  
一つ一つが新しくて、怖くて、不安で、恥ずかしくて、――快かった。  
 事実、おキヨにとって、廓の外での、金子の介さない交合は初めてであった。  
 包む景色が違っただけで、こうも感じ方まで変わるものだろうか。ひび割れた壁、赤茶けた畳、  
煎餅布団、慎ましやかに息づく暮らしの匂い。  
 ぼんやりと懐かしい情景が思い浮かび――、即座にかき消された。腰をつかまれ、いよいよ  
歓楽も高みに昇りつめようとしていた。  
「おキヨ、……っ」  
「あっ! はあっ! ア、アタシ……あ、ああっ……!!」  
 未知の感覚に揺さぶられながら、おキヨは幾度も声をあげた。  
 
 灯かりの薄くなった部屋に、くゆりと細い煙が棚引いている。行燈の油を注ぎ足すのも億劫な、  
気だるい空気に包まれて、一息ついた正雪が一服していた。  
「……しけた家ですこと」  
 息の上がった体を抱き合うように預けながら、侮蔑でなく、愛着の思いでおキヨはくすりと  
微笑んだ。同じような下級武士の身分であったからか、つくりや有様は、幼い頃を過ごした家の  
それと似ていた。  
 ――吉原で身売り分は稼ぎ終えても、おキヨは行く当てがなかった。家にとり、女などいずれ  
嫁に出すもの、どうせ外へ出てゆくもの。まだ若く器量良しとはいえ、婚期の過ぎた女が生家に  
戻っても、厄介者になるだけであった。  
 一見くさした物言いを真に受けることもなく、正雪は冗談めかしておキヨの肩を軽く二度叩いた。  
「あきらめろ。嫌んなっても、もうここはお前の家なんだぜ」  
「――ああ」と嗚咽を洩らし、おキヨは絡めた腕に力を込める。そうして、込み上げる感情のまま、  
唇を押し付けた。  
 子供の頃から、そうだった。  
(一人、外で遊ぶしかなかったアタシを、ヒグマ道場で遊べるようにしてくれたときも)  
 しれっと、恩を感じさせないように仕向けて、この男は。  
(――いつもアタシに居場所を与えてくれる)  
 男の手から煙管が落ち、畳の上をころころと転がった。じゅ、とわずかに井草の焦げる匂いがする。  
「ん、ふ……」  
 合わせた唇のすき間から熱い舌が入り込んでくる。口内がくすぐられる。意識がかき乱される。  
一度静まった劣情に、火が灯されてゆく。  
 もつれながら後ろざまに倒れ込み、再び突き上げられながらおキヨは、体だけでなく、心ごと  
抱かれているような気がした――。  
 
***  
 
 正雪は三日と置かずにおキヨを求めた。色好みな性分なのは承知の上だし、惚れ合って  
一緒になった夫婦なのだから、そんなものだろう。当然、おキヨも応えた。  
 けれども、この頃は最中もどこかなおざりで、身が入ってないように思われた。始まった、と  
思ったら終わっているような具合である。  
 所帯を持ってそれなりに時が経ち、身も心もなじめばこそ、新枕の初々しい官能が薄れてゆく  
のは仕方ない。夫婦関係が冷えているわけでないし、あえて問い詰めるほどのことでもない。と、  
たかをくくりつつ、物売りに精がつくというまむし酒を勧められれば、ついつい財布の紐をゆるめて  
しまうおキヨであった。  
 
 
 夕闇があたりを包み、おキヨは行燈に火をいれた。日の暮れるのが早くなるのと比例する  
ように、肌に触れる空気の冷たさを感じる季節になった。仕事から帰ってくる男のために熱燗でも  
用意しようかと腰を上げたところ、玄関の戸が開いた。  
「お帰りなさい、遅かったじゃないの」  
「おお、ちょっと茶屋にな」  
「アラアラ、それならずい分お早いお帰りですこと」  
 しゃあしゃあと抜かす正雪に、おキヨは遊女時代を彷彿させるような婀娜っぽい笑みで返した。   
 愛情が薄れてきたなどとは、ちっとも疑わなかった。日中の正雪に、特に変わったところは  
見当たらない。いたって普段通り、いい加減でお調子者でろくでなしで。酒も手慰みも茶屋通いも  
相変わらずであったが、それだって女房を泣かすほどではない。  
「お家でお姐さまが待ってますわよぉ〜、だってよ。ちくしょう、所帯持ちになってから、さっぱり  
モテやしねェ」  
「アラアラ。アタシに遠慮なんてしなくてもこんなヤツいくらでもくれてやりますわ、って伝えて  
おやりなさい」  
「お前よう……」  
 遊女の口真似をして愚痴を零す正雪に、おキヨは余裕の表情を見せつけた。  
 正雪が未だに茶屋に通うのは、浮気が目的ではないことはわかっていた。要因だった女と  
本懐を遂げたからといって、これまで懇意にしてもらっていたところからぷつりと足が遠のくほど  
薄情な男ではないし、幼なじみが廓入りしたという経験があるだけに遊女達の境遇に親身に  
なってしまうのだろう。  
 おキヨもまた、そんなことに目くじらを立てていちいち嫉妬するような器の小さい女でもなかった。  
そうしたおキヨの性質をわかっていて、わざと叱られるのを楽しむようなところが、正雪にもあった。  
 そのままじゃれついて閨に持ち込まれるのも、よくあることだった。  
 
***  
 
「こんにちはー!!」  
「アラアラ、志乃ちゃんじゃないの。お久しぶり」  
 買い物の帰り、武家屋敷の並ぶ往来で、おキヨは義妹の志乃と出くわした。昔は妹のように  
思っていた女の子が、今では義理とはいえ本当に妹なのだから縁とは異なものである。  
 志乃はおなじみのうさぎ柄の着物に肩掛けを羽織り、どこかよそ行きといった風情であった。  
「これからどこかへ出掛けるの?」  
「ううん、もう帰るところだよ」  
「じゃあ、せっかくだからちょっとウチへ寄って行かない? お菓子もあるわよ」  
「わーい! そうするー」  
 着物の袖がずり落ちるのも厭わず、うさぎ柄の巾着袋を持った手を万歳させる志乃は、  
ともすれば童女のようにも見えた。だが、ふとした仕草や表情に、童女だった頃には無かった  
艶のようなものが感じられた。良い夫にめぐり会い、愛し愛されているという幸福が、体中から  
満ち溢れているのだろう。  
 それとはまた別な違和感を、おキヨは感じ取った。そういった女達を間近で見てきた経験と、  
女の勘で、おキヨは志乃の微妙な変化を、敏感に察した。  
「もしかして、志乃ちゃん、お腹に赤ちゃんが?」  
「えへへ! 今お医者さん行ってきた! よくわかったねぇ。まだ誰にも言ってないんだよ!」  
 気持ちふっくらした帯のあたりをいとおしげに撫でる志乃の笑顔に、早くも母親らしい  
やわらかさが見えた。  
 
 
「ありゃあ、女だな」  
 志乃が産むであろう子を指しながら、正雪は断言した。  
 祝いという口実で深酒を煽り、早々に床に就いたものの、上機嫌のあまり寝付けないようである。  
「どうしてよ?」  
「だって伍助ちゃんだぜ? 言うだろ、アレが浅いと女ができるんだってよ」  
 泥酔した男はいつにもましていい加減なことを言う。  
「……あんたねぇ」  
「その点ウチは男だと決まったようなもんだな」  
「……」  
「お、おい、なんもないのか? オレがすべったみてェじゃねェか!」  
 なにかしら突っ込みの入ることを期待していた正雪は、おキヨが無言なのに拍子抜けしたが、  
とりたてて深く考えることもなく、いつものようにのしかかってきた。  
「ん……ああん……」  
 おキヨは反射的に喘ぎながらも終始上の空で、志乃を家に招いてからのことを思い出していた。  
 
「でかした! よくやったな志乃!!」  
 妹の懐妊に、非番で家に居た正雪は諸手を上げて喜んだ。体に障る、とくわえていた煙管も  
放り出し、抱きしめて頬ずりし、頭をくしゃくしゃに撫でた。それは、実の夫以上ではないかと  
思うほどのはしゃぎっぷりであった。  
「おにいちゃん、やめてよ、くるしーよー」  
 言うほど志乃も嫌がってはおらず、祝福されたことが心から嬉しいようであった。  
「ごっちんも喜んでくれるといいな! えへへへ!」  
「おお、早く帰って知らせてやれ」  
 さんざん引き止めておいて、帰り際には「栄養つけねェと」と、おキヨが今しがた奮発して  
買って来たばかりの生卵を持たせ、「危ねェから」と駕籠まで呼んでしまう始末であった。  
 
 兄妹の仲睦まじい様子は見ていて微笑ましかった。  
 一方でおキヨの胸には複雑なものが過ぎった。身重の妹に向けられた、このうえない慈愛に  
満ちた眼差し。知らない顔を見た気分だった。胸が締め付けられるような思いがした。  
 その意味は、戯れ言に過ぎないはずの正雪の言葉で、確信を得たような気がした。咄嗟に  
返す言葉が浮かばなかったのは、なにも気が白けたからではなかった。  
 おそらく、本人に他意はない。なにしろ酔ったうえでの戯れである。  
(気にすることでもなんでもないんだわ)  
 おキヨは自分に言い聞かせた。  
「あっ……!!」  
 ふいに、乳房の天辺に吸い付かれ、おキヨの体が跳ねた。  
 男の頭を胸に抱え込みながら、乱れてゆく意識の狭間で、おキヨはふと赤子を抱いている  
ような錯覚に襲われた。  
 
***  
 
「これって……?」  
 ――行き先も告げずに、正雪はふらりと出掛けて帰って来た。「ただいま」も言わず、いそ  
いそと自室で袴を脱ごうとしていると、懐から二寸ほどの平たいものが二つこぼれ落ちた。  
物音に、おキヨは、前掛けで手を拭きながら「アラアラ、帰ってたの、あんた」と駆け寄り、  
なにげなくそれを拾い上げた。まじまじと見つめ、それがなにかを理解してから、顔を上げた。  
おキヨの視線の先には、「しまった」という顔を手で覆う正雪の姿があったのだった。  
「……二つは、いらないんじゃないの?」  
「ふ、双子かもしれねェじゃねェか」  
「そんなの産まれてからわかることでしょ。万が一双子だったとしても産む人は一人なんだから、  
御守りだって一つでいいじゃないの」  
 正雪がおキヨの目を忍んで求めに行ったものは、水天宮の奉書包――安産の御守りだった。  
 一つは志乃の分で説明がつく。隠すようなことでもない。ならば、もう一つは。  
「あんたに妾腹があったって、別に驚かないけど」  
 おキヨはいたずらっぽく言い、二つの御守りを正雪の胸元に押し当てた。  
 内心、おキヨは、そんなことはないだろうと思っていた。正雪が外に女を囲っているとしたら  
不明な金銭の出入りがあるはずだし、毎日のように女房を抱いておいていて妾など必要ある  
まい。女好きな彼のこと、一度や二度の不貞があってもおかしくはないが、それも「男の性  
なのだからしょうがない」と許せる気概も、吉原仕込みのおキヨは持ち合わせている。  
 だのに、話をあさっての方向に投げようとするのは、正雪の思惑に気づきたくないからかも  
しれなかった。  
「違ェよ。予備だ、予備!」  
 正雪は御守りを大げさに懐にしまい込み、白々しい言いわけを重ねた。  
「ま、いいわ。ご飯にしましょうか」  
 おキヨは強引に話を終わらせ、台所に向かおうと踵を返した。そろそろ、ふろふき大根の  
煮える頃合いだった。  
 思いのほかもの分かりのいいおキヨをいぶかしんでか、正雪が焦った面持ちで呼び止めた。  
 
「――お前の分だよ」  
 
 おキヨは襖にかけた手を止めた。力の抜けたようにその場から動けないでいると、後ろ  
から声が聴こえた。  
「……このまま、お前に誤解されたまんまなのは、たまんねェからよ」  
 ばつの悪そうに、それでいて照れくさそうに、正雪は口を尖らせながら首筋を掻いた。  
「……」  
「必要になる日もそのうち来るだろ? 悪かったよ。面倒くせェからって、ついでにもらって  
来ちまってよ。でも、そンときでねェと御利益ねェってわけじゃねェだろうし、要は気持ちだろ、  
気持ち! 必要になったとき取り出して願掛けすりゃあ同じじゃねェか、な? な!?」  
 黙って背中を向けたままのおキヨを、怒っていると受け取ったのか、正雪は必死でまくし  
立てた。本当に浮気を疑われていたり、大事だが今はまだ要らないものを、人の分のついでに  
もらって来るような、無神経さを咎められていると思っているようであった。  
「おい……」  
 正雪は、おキヨの肩に手をかけ、顔をのぞき込むようにした。  
 おキヨは振り返らなかった。正雪の視線から逃げるように天井を仰ぎ、ぎゅっと前掛けを握り  
しめ、ちょっとの間をおいて、ゆっくりと放した。  
 
(やっぱり――)  
 予感が的中し、おキヨは観念して眉を寄せ、目を閉じた。  
(このひとは子を欲していたんだわ)  
 思い当たるふしはいくつもあった。夜の方が淡白になっていったのも、いつしか愛情の交歓  
より、種付けへの意識が先立ってしまっていたからなのであろう。快楽を貪ることすら二の次に  
なっているような、形式的なそれであるにもかかわらず、頻度は上がる一方であったのにも  
納得がいった。  
 正雪が意外と子供好きなのは見て取れた。うさぎ道場の少年達にも懐かれていた。たまに  
手伝いに行く筆学所の、教え子達のこともかわいがっている。妹の懐妊でもあの喜びようなの  
だから、我が子となれば尚更であろう。面倒見のいい彼なら、きっと良い父親になる、と  
おキヨは思った。正雪のほころぶ顔も見てみたいし、志乃のように祝福される自分を想像する  
のも悪くない気分だった。夫婦が仲良くしていれば、そんな日はごく自然に訪れるはずだった。  
少なくとも、正雪はそう思っているようなのであった。  
(でも……)  
 おキヨは顔を伏せ、ちらりと目線だけを移して、強張った微笑を浮かべた。  
 
「アタシに、あんたの子は授からないわ」  
   
 建てつけの古い障子戸が、かたかた鳴った。不精で修繕していなかった障子紙の破れ目から  
すきま間風が差し込み、おキヨのうなじの後れ毛を揺らした。  
 正雪は、おキヨの肩に手をかけたまま、しばらく押し黙っていた。言葉を探しながら眉をしかめ、  
あてどない視線を畳のへりの緑色あたりにさ迷わせた。そして、ゆっくりと、深呼吸をした。  
 やがて静かに、一言だけ、「そうか」と言った。  
 
***  
 
 言葉少なに夕餉を済ませ、床に就く。  
 頬に当たる夜具が冷えている。外は雪がちらついているらしい。深々という音すら聴こえて  
きそうな静寂である。  
 おキヨは正雪に背を向けて横になった。  
 正雪はおキヨの傍らに寄り添い、胸元に手を差し入れた。「子づくりだけが目的だったわけじゃ  
ないんだぜ」という彼なりの意思表示なのかもしれなかった。  
 かといってそれ以上は求めてくる気配もなく、欲情からの行為というより、痛いところをさする  
ような、それこそ子供をあやすような、いたわりの感じられる手であった。  
 男の心遣いがせつなくて、おキヨは意を決して口を開いた。  
「――子供ができたら、流すと決めてたの」  
「はあっ!?」  
 正雪は思わず、肩肘を立てて飛び起きた。  
「昔の話よ、吉原にいた頃」  
 とりあえず、ほっと胸を撫で下ろし、正雪は片手を肘枕にして横になった。そして、口を結んで  
話の続きを待った。  
 おキヨは体ごと障子の方を向いたまま、ぽつぽつと語り始めた。  
 
 ――吉原で薄雲と呼ばれていた頃のこと。大概の遊女は客の子を孕んだら始末することに  
なっていた。繰り返すうちに子のできない体になれば、仕事柄、返って好都合でもあった。  
産んで里子に出したり、禿や妓夫として見世に引き取ってもらうこともできるとはいえ、ふくれた  
腹では客が取れない。身売りの借金を抱えた身の上では、数月休んでいる暇も惜しかった。  
 朋輩が幾度となく子堕ろしの中条流へ駆け込む中、薄雲は一度もそうした世話にならずに  
済んだ。出産や堕胎の痕跡のない女体は、太夫という華々しい出世への後押しにも繋がった。  
 夜毎に客の相手をしながら、薄雲は吉原を去る最後まで孕むことはなかった。それは、  
まじないでしかない朔日丸や臍下にすえたお灸のおかげではなかった。  
 
「――長いあいだ、好きでもない男の子種をこの身に受け続けて実を結んだことがないのに、  
好いた男一人と添い遂げた途端に子宝に恵まれる、なんて、都合のいいこと、起こるわけない  
でしょ? むしが良すぎるもの、そんなの」  
 正雪は黙っておキヨの話を聴いていた。いつになく真剣な眼差しでいて、乳房をさわる手が  
止まらないのは、そうすることで無意識に、己の張りつめた心との釣り合いを取ろうとしているの  
かもしれない。  
「アタシは、もとからそういう体なんだって考える方が、よっぽど自然でしょ……」  
 嫁して三年で子が宿らなければ石女(うまずめ)であろうというのが通説とされている中、  
おキヨは水揚げから数えて、既に十年もの月日が過ぎていた。その間、男女のそれが途切れた  
ことはなく、根拠としては充分であった。  
「……だから、子が欲しかったら余所でこさえてきて頂戴」  
 おキヨは言い切った。こればっかりは仕方ない。おキヨ自身は玄人上がりなこともあって、  
色ごとに関してある程度は割り切れる方ではあった。詮ずるところ、心苦しいのは、正雪が  
自分に寄せていた期待に応えられないということだった。  
 おキヨの懐で円を描いて乳房をこねていた手が、しだいに撫でるだけになり、やがて止まった。  
 おキヨは正雪の方をちらりと見遣った。  
 正雪は、おキヨの胸元から手を離し、その手でぽんぽんとおキヨの頭を撫でた。  
「済まなかったな。オレの独りよがりで、ずっと。お前の体にも、ずい分負担掛けちまったな」  
 おキヨは首を振った。  
「黙ってて悪かったわ」  
「まァ、ずっとできねェしな、薄々そんな気はしてたさ。お前が謝ることでもねェよ。たいした  
問題じゃねェし。養子もらえば済む話だしな」  
 正雪は天井を向くように寝返りを打ち、組んだ両手を頭の下に置いた。  
「あんたがそれでいいならいいけど……やっぱり、自分の子の方がかわいいものでしょ?   
いいのよ、アタシは平気よ。というか、あんたなら既に一人や二人いたって不思議はないし」  
「ばっか! そんな甲斐性ねェよ」  
 胸の内を吐露してすっきりし、おキヨは正雪に突っかかる元気を取り戻していた。  
 正雪はそんなおキヨを見て安心した後、だるそうな口振りで呟くように言った。  
「欲しいっつーか、……まァ、欲しいんだけどよ――…」   
 正雪は立てた小指で自分の耳を掻き、ふうっと息を吹きかけた。  
 
「オレも侍だからな。のりちょんまげで切腹させられる身分なんだぜ? いつどうなるか  
わからねェ。跡継ぎもいねェまんまでオレになんかあったら、お前を路頭に迷わせちまう」  
 己の身の上について語る正雪は、天井より遠くを見ているようだった。  
 十五俵二人扶持の低禄では子を養うのも楽ではない。だが、当主を失ったとき、家督を  
次ぐ者がおらず家が取り潰しになってしまっては、その少ない俸禄すら支給されなくなる。  
もしそうなったとき、女が一人残されてどうなろう。武家の女子は易々と商家へ奉公も  
できず、たった一人で生きてゆくには、あまりに厳しい世の中であった。  
 正雪自身、早くに親を亡くし、自分という嫡子がいたからかろうじて摂津家が存続された  
という経緯があった。それだけに、お家断絶は意識せずにはいられず、身に沁みて気がかりな  
ことであった。  
「そんなところだから、別に血ィ繋がってなくてもいんだよ、摂津さえ継いでくれりゃあ。  
養子口探してる次男三男なんざ有り余るほどいるんだし、お前が気ィ合いそうなヤツを選べば  
いいさ。お前の兄貴の子でもいいしよ」  
 今夜、床に就いてから、ようやく二人の顔が差し向かいになった。正雪はわずかに視線を  
逸らしてい、おキヨはきょとんとしていた。  
 正雪の真意が意外なところにあったと知り、おキヨは戸惑った。戸惑いながら、あまやかに  
心が満たされてゆくのを感じた。  
「あんた、アタシの……」  
「オレの自己満足だよ」  
 正雪はさえぎって言い放った。  
「娶ったからには最後まで面倒見てェんだよ。頼んで一緒になってもらった女に、嫁がなきゃ  
良かった、なんて死んだ後だとしても思われたくねェ。そンだけだ。悪かったな、手前勝手で」  
「……」  
 先々までおキヨの居場所を確保しようとする優しい男は、この期に及んで、誰のせいでも  
誰のためでもなく、全てが自分の我がままなのだと言い張った。  
(まったく、コイツは、どうしてもう本当に……)  
 おキヨは、正雪の胸に顔を埋め、潤んだ目を擦りつけるようにした。彼の情意にどうにかして  
お礼がしたかった。とはいえ、素直に「ありがとう」などと感謝をしてしまったら、彼の意向を  
台無しにしてしまう。ひた隠しにしようとしている本心に気づかないふりをして、仕向けようとして  
いる筋書きに通りに、あくまで尻に敷いてあげるのが、正雪に対する誠意なのだと、おキヨは思った。  
「あ、あんた、そんな小難しいことばっか考えてたの、ずっと? ばかね。もし一人になったって、  
アタシは芸ごとの師匠でもやって暮らしてゆけるわ。甘く見ないで頂戴」  
 おキヨは顔を上げ、媚態を取り繕いながら正雪を叱りつける。  
「……叶わねェな、お前にゃ」  
 おキヨの高飛車な言い様に、正雪は心底満足げな顔をした。  
 そんな正雪を見ておキヨもまた、にっと口角を上げた。  
「そうね、どうせもらうなら、真面目で素直な子がいいわ、あんたとは似つかないような」  
「ははっ。確かにその方が安泰だな」  
「うふふふ……」  
 嗚咽の混じるのを気取られないように、おキヨはことさら笑い声を高くした。  
 
「おキヨ」   
 正雪は腹這いになって行燈を引き寄せ、灯かりを暗くした。そうして、おキヨの肩をつかんだ。  
 抱き寄せられるのだろうと察し、おキヨは身構えた。毎夜のことだというのに、夫婦になりたての  
頃のように焦がれる身を感じていた。しばらく存分な陶酔を味わってないのは、自分だけでは  
ないのだった。ならば全身で尽くしたいと思うのも、彼の厚情へのお返しとして与えられるものが  
他にないからであった。  
 が、おキヨの体は正雪と逆の方向に引き離された。  
「あんた?」  
「まァ、なんだ、その、……ゆっくり休め」  
 正雪は掛け夜具を直し、おキヨに背を向けて寝転んだ。長らく男の本能に応え続けてきた  
体をはばかり、触れずにそのまま寝付くつもりであった。  
「休め、って言ったって……」  
 おキヨは正雪の胸に手をまわし、背中に頬を寄せた。着崩された寝間着の衿元から素肌に  
触れた手が、するすると悩ましげに下りてゆく。するうち、掛け夜具が妖しく蠢いた。  
 女の手の冷たさと、巧みな技とに正雪は思わず「うっ」と呻いた。  
「寒くて眠れないわ。あっためてくださる?」  
「おうよ」  
 即答だった。  
 
 
 優しく撫でられた素肌が熱を帯びてゆく。  
 荒い息が白く濁り、「湯気みてェだな」と笑う声が下方から聞こえた。おキヨは上気した顔を  
反らせ、快感に身をくねらせた。舌で触れられた場所からとろりと淫らな涙が零れる。慰める  
ように舐め取られ、おキヨの唇から啜り泣きに似た声が漏れた。   
 やがて、二人の影が一つになった。  
 おキヨは眉をしかめたりゆるめたりしながら、目を閉じて、双の乳房を揺らした。呼吸に調整を  
加え、床技の限りを施せば、「絶景かな」と見上げて茶化していた声も、しだいに切迫した  
息遣いに変わってゆく。今日という日、おキヨは献身に徹する心持ちであった。  
「おキヨ、おキヨっ……」  
「あ、あ、あっ……えっ? はあんっ! ま、待っ……」  
 三人目のことなど意識しない、二人のためだけの交わりは、正雪の心持ちをも左右していた  
ようであった。  
 思わぬ下からの突き上げに拍子を崩され、制御できなくなった収縮と弛緩とが交互におキヨを  
襲った。意思を離れた悦びが大波となっておキヨを溺れさせる。必死でしがみつく岸を探して  
もがく一方で、このまま流されてしまいたいという欲望が渦となり、叫んでさえいたようである。  
「ああ……っ!!」  
 まもなく男に終息が訪れ、子種が放たれた。と、同時に、下腹に鋭く心地良い痙攣が起こり、  
おキヨは一時我を失った。  
「あ……」  
「だ、大丈夫か?」  
 正気に戻り、くたりとなった体を抱きとめられて、おキヨはうなずいた。熱い腕に包まれ安息の  
ため息をつき、そのまま意識が遠くなった頃、降り続けていた雪がやんだ。  
 
***  
 
 夜半過ぎて、おキヨは浅い眠りから目を覚ました。うっとりとした快い疲れが、まだ体に残って  
いるようだった。汗に貼りついた前髪を払いながら、すぐ傍を見ると、正雪のだらしない寝顔が  
あった。夜明けにはまだ早いのに、うっすら開いた唇のすき間からのぞく舌まで見える。  
 部屋が妙に明るいような気がして、月明かりが障子戸から漏れているのに気づいた。雨戸が  
一枚開いているのだった。  
(どうりで寒いはずだわ)  
 おキヨは寝間着を羽織り、四つんばいにすり歩いた。雪が降っていたことを思い出し、そっと  
外の様子を探り見る。  
 す、とわずかに戸を開けて、おキヨは感嘆の息をついた。  
「あ……」  
 冬枯れの庭に、薄雪が彩を添えていた。夜の静けさの中、月明かりに浮かぶ白さは、寂寞な  
光景を覆い隠して、新たな感覚を呼び起こしているようだった。  
 清らかなるも、もののあわれな風情が、どこか自分達の有様を映しているように思えて、  
おキヨはしばらく見惚れていた。  
 束の間そうしているうちに、せっかく暖まった体が冷たい空気に触れ、おキヨは肩を抱いて  
身震いした。呼応するように、後方からくしゃみの音が聴こえた。おキヨは障子戸を閉めて  
振り返った。  
   
 
***  
 
 
 身分が無くなり、武士社会から解放された二人が、飲み屋を開くのは、もう少し先のこと。  
   
 
 
 
終  
 
 
 
 

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