「前から思ってたんだが、伍助ちゃんてよォ」  
「なんだ? 摂津殿」  
 道場での稽古中、しばし休憩を設けていると、唐突に義兄の摂津正雪が切り出した。  
「ヘタクソなんじゃねェか?」  
「な…なんのことだ」  
「決まってンだろ? あっちの方だよ」  
 伍助は赤面した。あっちの方と言ってどっちの方を指すかぐらい、いくら鈍い伍助でも  
わかる。仮にも元服済みの所帯持ちであるし、普段から下衆な同僚と接していれば自然と  
耳で覚えてしまうものである。  
「な…なにを根拠にそんなことを言うのだ」  
 伍助はうろたえた。ヘタクソもなにも、妻である志乃とは未だ夫婦の契りを交わしていない  
のである。だからといって、そんなことまで義兄にあけすけに話したくもない。  
「いや、なんとなくだけどよ。結婚してずい分経つだろうにまだ子供もできねェようだし、なんか  
うまくいってねェんじゃねェかと思ってよ。お義兄さん心配なんだぜ」  
「そ…それは、」  
「一度、玄人に手解きしてもらったらいんじゃねェか?」  
 どうにかうまくはぐらかすことができないかと思案する伍助に、摂津が食い気味に提案した。  
伍助の返答など最初から聞くつもりもなかったようである。  
「どうだい? 実際、嫁ばっかだと飽きるだろ。茶屋の女の子にはオレが話つけてやるからよ」  
 嬉々として語る摂津の様子を見るに、もとよりこれが本題だったらしい。  
 伍助は汗を噴き出した。  
「な…なにを言うか摂津殿! オ、オレは不義密通など致す気はござらん!!」  
「バカだな伍助ちゃん、商売女と寝んのは不貞のうちに入んねェんだぜ。それに、伍助ちゃんが  
女の悦ばし方覚えたら、志乃にも見直されて夫婦円満よ」  
「し…志乃が……」  
 志乃のことを持ち出され、伍助の心は揺らいだ。  
 志乃とは未だ清い仲であるが、折を見ていつか心身ともに夫婦となるつもりではある。  
 だが、もしも、そのとき失敗してしまったら。恥ずかしさのあまり、切腹してしまうかもしれない。  
もし上手くいかなくても、志乃ならば「ごっちん、がんばったね!」と笑顔で励ましてくれるで  
あろう。だが、志乃にそんな気を遣わせることが、伍助はたまらないのだ。  
 ――不安を抱えたまま初夜に挑むより、それなりに予習しておいた方が安心かもしれない。  
そうでなくとも、志乃にはこれまでに幾度も醜態を晒してしまっているのだ。いつまでも妻の  
優しさに甘えて支えられてばかりの夫でいたくはない。せめて布団の上でぐらい余裕を  
持って、妻に身を任せてもらいたい。それは男としての尊厳でもあった。  
「志乃も、ああ見えて思慮深いところがあっからな。内心、あんまり良くねェって思ってても、  
伍助ちゃんに遠慮して言い出せねェんだろうよ。察して満たしてやンのも夫の務めだぜ?」  
 伍助が思い悩んでいるうちに、摂津は勝手に話を進めていた。  
「どうせご教授願うならなら極上の女がいいな。そうだ、いっそのこと太夫にしよう! 決まりだ」  
 摂津は名案とばかりに手を打った。  
「せ…摂津殿!」  
「金のことなら心配すンな。太夫とは顔が効くからよ。オレに任せとけって」  
 ひらり、手を振りながら遠ざかってゆく義兄の後ろ姿を呆気にとられたように眺めながら、  
伍助はただただ立ち尽くしていた。  
 
***  
 
「薄雲と申しますの。可愛がってくださいまし」  
「う…うむ……」  
 摂津の突拍子もない提案から数日後、伍助は茶屋の一室にいた。吉原遊郭には、  
稽古をさぼる摂津を探しに何度か来たことがあったが、女と過ごす部屋まで通されるのは  
初めてである。  
 伍助は気後れしながら、きょろきょろとあたりを見回した。箪笥に火鉢、掛け軸に香炉、  
壁には琴が立て掛けてあり、衣桁には金糸や銀糸をあしらった内掛けが引っかけてある。  
ふすまの向こうからは賑やかに幇間のうたう声が聴こえ、慣れぬ状況に伍助はそわそわと  
落ち着かない。まして、初対面の女性と伽を前提に二人っきりなのである。とりあえず、  
運ばれた食膳に箸を付けたものの、なにをどうしたらいいやら、伍助は敵娼の顔もまともに  
見られずにいた。  
「緊張してらっしゃるの? 宇田川様」  
「は…はあ。何分、女郎買いなど初めてで」  
「アラアラ、真面目なお侍様ですのね。摂津様とは大違い」  
 道場の用事で今晩は義兄の家に泊まる、などと志乃に嘘をついて家を出てきた。まったく  
疑う様子もなく「わかった!」と了承した志乃の、屈託のない笑顔に胸が痛まなかったと  
言えば嘘になる。今頃一人で夕餉を食べているのだろうかと想像すれば、複雑な思いの  
沸かないわけもない。この期に及んで腹を決めかねぬとは、なんと往生際の悪いことか。  
志乃の飯に比べて量は少ないが値は張るらしい膳を前に、伍助はため息をついた。  
 食の進まぬ伍助に、薄雲は酌をしようと徳利に手を掛けた。  
「す…すまぬ、オレは酒は呑めぬのだ」  
「アラアラ、そう言わずにいかがです? 一杯ぐらい」  
「いや、構わぬ、」  
 制したつもりの左手が触れて、伍助はどきりとした。咄嗟に手を離し、顔を伏せる。間を  
繋ぐように碗を手に取り蛤の吸い物を一気に啜った後、恐る恐る薄雲の方をうかがった。  
 あまりにうぶな反応に、着物の袖を口元に寄せくすくす微笑んでいた薄雲は、伍助の  
視線に気づくと、ゆったりと唇の端を上げて見つめ返した。  
 頬が赤くなる。女子の良し悪しに疎い伍助ではあったが、なんとなく、目の前にいる女性が  
相当な美貌の持ち主であるということはわかった。腰まである長い髪は黒々と艶めいて、  
女らしい。色鮮やかな着物からのぞく肌はほっそりとして陶磁器のように白く、優雅な仕草の  
指先を爪紅が彩っている。整った顔立ちに泣き黒子が愛嬌を添え、黒目がちの瞳は夜空を  
映したように瞬く。  
 目が合う度に、微笑まれる度に、ぞくりと伍助の背筋をなにかが駆け抜けた。普段志乃と  
目が合っても、うれしいようなむず痒いような心地こそすれ、このような身の内の困惑など  
沸き起こらない。俗に、薄雲の放つこれを色香と言うのだろう。初めての感覚に伍助は、  
激しい動悸を覚えた。  
「や…やはり、一杯頂こう」  
「はい、どうぞ」  
 調子が狂う。いっそ少し酔って紛らわさねば、自分を保てないような気がして、伍助は  
猪口に注がれた酒を煽った。  
 
「お食事、お口に合いませんでした?」  
「い…いや、う、美味い」  
 ふいに、ぼうっとしていた顔を、間近で薄雲にのぞきこまれ、伍助はあわてて厚揚げの  
煮物と白米をかき込んだ。  
「……げほっげほっ」  
「アラアラ、そんなに急がなくても、夜は逃げやしませんわ」  
 むせあがった伍助に、薄雲が茶を差し出した。かたじけない、と飲み干し、ふぅと息をつく。  
(太夫か……)  
 こんなふうに同席するだけでも、正規の手順を踏めば花代も手間も存外にかかるのだろう。  
空になった膳を手際よく下げる薄雲の後ろ姿を眺めながら、それだけの対価を払っても彼女を  
手に入れたい男が大勢いるのだということを、伍助はあらためて意識し、納得した。  
 戸惑いながらも、伍助は薄雲を好ましく思った。筆下ろしの敵娼としては申し分ない。申し分  
ないどころか、不相応にすら思えて、どうにも実感が沸いてこない。やはり、仕組まれ、「さあ  
やれ」と言われてその気になれるほど、人の心は単純ではないのである。  
 そんな伍助の心中を察したように、薄雲がぼやきはじめた。  
「まったく、摂津様にも困ったものですわね。あたくしをなんだと思ってらっしゃるのかしら」  
「す…すまぬ」  
「アラアラ、宇田川様もアイツに振り回されたクチでしょう? 謝ることはございませんわ」  
「し、しかし、摂津殿がオレを心配して奔走してくれた結果、薄雲殿を巻き込んでしまったのだ」  
「そんなのきっと方便ですわよ。宇田川様をおちょくって面白がってるだけですわ」  
「そ…そうだったのか……?」  
 薄雲は懐からお手玉を取り出すと、宙に放り投げた。  
「あの金髪クズ野郎のことですもの、決まってますわ」  
「た…確かに摂津殿は多少ふざけたところがあるが、根は善い奴なのだ、……たぶん」  
 義兄のあんまりな言われように、さすがに少しは擁護しなければ不憫だと伍助は思った。  
「そんなこと、あたくしが一番わかっておりますわ。だからこそ余計に腹が立つんですっ」  
 薄雲拗ねた顔でお手玉を玩んだ。心なしか、手振りに力が込められて見え、遊んでいると  
いうより、八つ当たりをしているかのようであった。それでいて、投げたものをきちんと受け  
止めるあたり、技術だけではない執着を感じさせた。  
「……アイツったら、昔からいい加減なんだから」  
 薄雲のずい分な言い草から、彼女と摂津とは、単なる遊女と客という間柄ではないことを  
伍助は察した。どうやら旧知の仲のようであるし、他の遊女なら、いくらこの場にいないとは  
いえ、少なくとも客である摂津に対してここまでぞんざいな物言いはしない。  
 しかし、男女の機微のわからぬ伍助は、的外れな推測をした。  
「ま…まさか薄雲殿も摂津殿にのせられて吉原に売り飛……連れて来られたのか?」  
「アラアラ、摂津様からなにも聞いてらっしゃらないの?」  
「む、それが薄雲殿のことは、江戸一番の器量良しで、か……体の方も一度味わったら  
忘れられぬほどの上玉、なにより意気張りのあるイイ女だ、としか聞いておらぬのだ」  
「摂津様がそんなことを?」  
 薄雲はお手玉を放り出して身を乗り出し、瞬時に顔をほころばせた。それは男を  
手玉に取る最高位の遊女というより、さながら無垢な乙女の如き可憐な表情であった。  
「う…うむ」  
 薄雲が垣間見せた意外な可愛らしさに、強張っていた伍助の眉間もゆるんだ。  
 しかし、すぐに薄雲は媚態を取り戻して言った。  
「宇田川様は、そうしていた方が男前ですわよ」  
 なんのことかわからずきょとんとしている伍助の眉の間を、薄雲が人差し指で突いた。  
そのまま顔が近付き、伍助の頬に唇が落とされる。  
 やわらかな感触。薄雲が焚きしめていたらしい伽羅の香に包まれ、伍助はちょっとの間、  
放心した。  
 やがて顔が離れてから、はっと我を取り戻した伍助の頬は、付けられた紅の痕に負けぬ  
ほど真っ赤に染まっていた。  
「なっ、なにを……!!」  
 まだ熱の残る頬を押さえながら、伍助は薄雲の方を見遣った。  
「今宵のあたくしはあなた様の妻にございます。仲良く致しましょう」  
 
 薄雲は上目づかいに伍助を見据え、誘うような笑みを浮かべていた。  
「あああああのっ、せせ摂津殿に怒っているのではなかったのかっ!?」  
 伍助は飛び上がるように後ずさる。  
「それはそれ、これはこれですわ。あたくし、自分の仕事には誇りを持っておりますの。  
そうでなければ太夫なんて務まりませんもの」  
 薄雲は前結びの帯を解き、小袖に手を掛けた。衿を握り、肩を肌蹴て、片方ずつ袖をくぐらせる。  
下に長襦袢を着込んでいるというのに、着物を剥ぐ所作というものはなかなかどうして悩ましい。  
 薄雲は脱ぎきった小袖を、手を伸ばして遠くへ放った。天井を向いた手のひらが、指が、  
なまめかしく宙を舞う。拍子であらわになった身八つ口から、肌がのぞいた。  
 一瞬のことだというのに、紅い布地のすき間のまぶしさが、伍助の目に焼きついた。白い  
わきと、そこからわずかばかり下方、こぼれるようなまるみの端。見てはいけないものを  
見たのではないか、と動じる伍助の背後に、ばさりと音を立てて小袖が落ちた。  
 長襦袢の生地の薄さに、薄雲のまろい曲線が浮かび上がる。遊女らしくゆるく着付けた  
衿元から、凹凸の影が見え隠れする。薄雲が身をかがめると、それははっきりとした  
かたちをあらわして伍助の視界に迫ってきた。  
「宇田川様、楽になさって……」  
「は…はあ……」  
 薄雲が妖艶にしなを作りながらいざり寄る。いよいよその時が訪れようとして、身を硬くする  
伍助の鼻腔を、白粉の匂いがくすぐった。化粧をしない志乃とは縁のない、大人の女の芳香。  
(志乃よ、すまぬ。これもオレ達夫婦のためなのだ……)  
 伍助は本能的な期待と、罪悪感との入り混じった気持ちで、極太の眉を歪ませた。  
「っ……」  
 着物の上から胸板を撫でられ、降りてきた手が帯を解く。袴を脱がされ、ゆっくりと夜具の  
上に横たえられた伍助を、太股で挟みこむように薄雲が膝立ちになった。  
 大胆に割れた襦袢の裾から、肉付きのいい太股があらわれる。つい釘付けになり思わず  
見上げた視線を凝らせば、さらにその奥の観音様まで拝めた。  
 眩暈がした。伍助は後学のためにと凝視しながら、なんともいえない神々しさに、目を  
背けてしまいたいような思いにかられた。  
 すっかりのぼせあがっている伍助にとって代わり、薄雲は自らの手でそこに触れてみせる。  
目で客を楽しませる、遊女の手管である。次第に水気を帯び出し、淫らにほどけてゆく様が、  
絶妙な位置に調節された灯かりに浮かび上がる。視覚的に、これ以上ない刺激である。  
「あっ、はあ……」  
 薄雲が身をよじらせる度に、かろうじて布地に包まれた乳房がゆさゆさ揺れた。ぼんやりと  
理性を失いかけたまま、伍助は甘い果実をもごうとする幼子のような好奇心で手を伸ばす。が、  
弾力を捉えようとして、ふいに酔いがまわり、先をわずかにかすめて空振りした。  
「あんっ」  
 はずみで、薄雲は伍助の上に腰を落とした。  
 確かな重みと、布越しに伝わる女の肌の感触に、体中を熱い血潮が駆けめぐる。全身が  
熱を持って奮い立つ。体からなにかがにじみ出るのを自覚しながら、伍助は自我を失って  
いった――。  
 
***  
 
「――気がつかれました?」  
 二、三度瞬きをすると、ぼやけた景色がはっきりしてきた。見慣れぬ天井が目に入る。  
部屋を明るくしているのが陽光でなく、行燈の灯かりであることから察するに、まだ夜は  
開けていないらしい。  
「む、オレは……」  
 なんとなく、体がだるいような気がする。ついに、オレも色を知ってしまったのか……、と  
伍助は目を閉じて様々な思いをめぐらせた。  
 しかし、不思議なことに肝心な、最中の記憶が全くない。せっかく薄雲が身を呈して女と  
いうものを教えてくれたというのに、これでは志乃との房事に役立つことなどたいして得て  
いないようなものである。それに、自ら慰めた後のような、快感の名残りもない。  
(男女の秘めごとが夢心地とは言ったものだが、それはつまり一眠りしたら忘れてしまう、と  
いう意味であったのか……)  
 伍助は釈然としないまま、強引に納得しようとした。  
「もう起き上がって大丈夫ですの?」  
 身を起こした伍助に、夜具の隣に正座していた薄雲が声をかける。記憶の途切れる  
手前までしだらなく着衣のゆるんでいたはずの薄雲は、しっかり着付けをなおしており、  
手には赤い汚れの付いた手ぬぐいが握られていた。  
 そういえば、と伍助は気づいた。呼吸をする度に奥から血生臭い匂いがする。  
 伍助は全てを悟った。どうやら行為半ばで、鼻血を吹いて気を失ってしまったらしかった。  
その間、薄雲が介抱してくれていたようである。  
「宇田川様、いくら先輩の差し金だからといっても、お体のすぐれぬときに戯れに興じるのは  
考えものですわよ」  
「め…面目ない……」  
 体調が悪かったわけでは決してないのだが、あまりの情けなさに、伍助は言いわけする  
のもはばかられた。おもむろに下半身の方に手をやると、下帯にも乱れがない。やはり、  
貞操も無事のようである。  
「はは……」  
 伍助の唇から笑みがこぼれた。薄雲との間になにも無かったことがわかって、自分でも  
意外なほど安堵していた。  
 思えば、なぜこれまで志乃と一線を越えようとしなかったのか。それは、女子を知らず  
初夜が不安だから、ではない。まことの理由は、自分が未熟者で、まだ志乃にふさわしい  
夫になれていないからである。志乃と真の夫婦になるために自分がせねばならぬことは、  
立派な侍になること、唯一つだけだ。  
 初心に返ったことで、伍助は無性に志乃が恋しくなった。  
「すまぬが、オレはこれで失礼する」  
 伍助は立ち上がり、すばやく袴を身に付けた。  
「アラアラ、明六つまで吉原大門は開きませんわよ」  
「そ…そうなのか……。どうしても無理なのか?」  
 伍助の哀願に、薄雲は根負けして預かっていた大小を差し出した。  
「仕方ありませんわね。遊女が間夫と逢引に使う木戸がございますの。こっそり教えて差し  
上げますわ。誰にも秘密ですわよ」  
「かたじけない!」  
 
 晴れやかな気分で、一目散に屋敷へ向かう。肌に当たる夜風が冷たかったが、伍助の  
心は熱く燃えていた。  
(オレはいつか必ず、志乃に認めてもらえるような夫になってみせるぞ……!! そして、  
そのときは――)  
 決意を新たに頬を染める伍助の後ろ姿を、西方に傾いた月が照らした。  
 
***  
 
一方その頃。摂津正雪は、想い人が義弟に犯される様を想像して興奮していた。  
 
 
終  
 
 

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