まだ春には遠いとはいえ、気配は感じるこの頃。  
雨戸を開けたら既に随分高くなっている日差しに、思わず目を眇めた。  
「…あったかいなあ」  
ほぼ徹夜で仕立ての仕事に精を出していたマサツネは、まだぼんやりとしたまま大きな  
あくびをする。  
隣の部屋では何やらごそごそと物音がした。いつも朝早く家を出て近辺の道場に行って  
稽古を積んでいるミツキなのだが、今日はまだいるらしい。  
珍しいなと思いながら寝惚けまなこで身支度をしているうちに、隣の物音が一際大きく  
なって入口の戸が乱暴に開く音が響いた。  
続いてマサツネの部屋の木戸が叩かれる。  
「あ、あ、あ…」  
ミツキは随分慌てているようだ。何だか只事じゃないと感じて木戸のつっかい棒を外す  
なり、転がるように狭い土間にミツキが駆け込んでくる。  
「…今、何時?アタシ寝坊しちゃった」  
「んー…多分もう昼に近いかなあ」  
「えええっ!!」  
 
マサツネにとってはこの時間に起きることなど別段珍しくないのだが、ほぼ同じ時間に同じ  
行動をすることが基本になっているミツキにとっては信じられないことなのだろう。  
だが、それよりも何よりも。  
「ミツキちゃん、その格好」  
「え?やああああ!!!」  
マサツネが起きた物音で目が覚めて、すぐに動転して駆け込んできたのだろう。ミツキは  
寝巻き一枚きりのかなりあられもない姿だ。厳格な父親に育てられたので普段はきっちりと  
着込んで隠されている首筋、胸元や腿がはだけられた襟元や裾から覗いていて目の毒と  
しか言いようがない。  
「やだやだ、見ないでよおおっ!」  
叫ぶなり、ミツキは寝巻きをがっちりと押さえ込んでその場にしゃがみ込んだ。  
そんな様子さえ初々しくて愛らしいと思うのは欲目かも知れない。  
日の高い時刻だからこそ劣情は抑えられるが、暗がりなら絶対に自制は出来ないだろう  
なとこの場には似合わないことをマサツネは考える。可愛い女の子が隣に住んでいれば  
それなりに好意は持つし、出来ることであれば手を貸したくもなるのが人情だ。  
 
「そんなトコにいても寒いからさ、上がんなよ。火を熾すから」  
ここしばらくの付き合いで、ミツキの性格は大体察している。こういう時は余計なことを言わ  
ない方が良いと判断をしてマサツネは部屋の隅にある火鉢の中の火種を熾しにかかる。  
幸いにも、明け方に寝るまで使っていたこともあって火種は炭にすぐ移り、部屋は暖かく  
なってきた。  
「…アタシ遅れた、今日も稽古する約束守れなかった」  
「そうだね」  
「どうしよう…」  
おずおずと部屋に上がってきて、泣きそうな顔をしているミツキを横目に半纏を引っ掛けて  
燃え上がる火種の勢いを眺めているマサツネが何でもないことのように言った。  
「そんだけ良く寝られたんなら、お腹空いてるよね。これからご飯炊くんで一緒にお昼でも  
食べない?」  
「え?」  
「いっぱい動いたからいっぱい寝られた。それはいいことだよ。だから次はいっぱい食べて  
また元気にならないとね」  
そんなマサツネの言葉に、何故だかミツキはボロボロと泣き出した。  
 
「何それ…お母さんみたい、じゃ…」  
「ミツキちゃん?」  
後はもう、子供のように泣きじゃくるミツキを特に宥めることもなく、ただ収まるまで見ている  
しかなかった。何となく、そうする方がいいような気がしたのだ。  
 
それからしばらくして、昼餉用のご飯が炊き上がった。  
おかずは近所の煮売り屋の惣菜と菜っ葉の味噌汁だったが、一人ではない食卓は本当に  
久し振りだったので何となく嬉しい。  
その頃にはミツキの機嫌も直っていて、普段の着物に着替えていたので少し前の泣き顔  
など幻だったのではと思うほどだ。  
「いただきまーす」  
きちんと手を合わせてからご飯を口に運ぶなり、いつもの可愛い笑顔が零れた。  
「おーいしい!」  
「うん、やっぱりお腹空いていたよね」  
「そりゃ…生きてるもの。食べたら寝坊してごめんなさいって謝りに行こうっと」  
夢中で箸を運ぶ姿を微笑ましい気持ちで眺めているうちに、マサツネの方はすっかり箸が  
止まっていたらしく、ミツキが笑い声を漏らす。  
「なあに?」  
「あのさ、もし良ければこれからも一緒にご飯食べてもいいかな」  
「??」  
 
心底不思議そうな表情になるミツキに、マサツネはたった今思いついたことを止まらない  
まま口にし始めた。  
「もちろんいつもじゃなくていい。起きる時間も寝る時間も違うんだし。でも、たまに同じ時間  
だったりしてお腹空いてる時は一緒に食べた方が楽しいと思ってさ」  
遠くから鳥が高く鳴く声が聞こえた。  
「うーん…そうかも」  
「そうだよ、きっと」  
「そうなのかな」  
「今こうしてるの、楽しくない?」  
「そりゃ、楽しい。けど…」  
「じゃ決まり。別にいつにしようって約束はしないからさ」  
顔を赤くして急に無言になったミツキは、味噌汁を全部啜ってからぽつりと返事をした。  
「それ、ならいい」  
 
全てはいつものように事もなし。  
ミツキはあれからも元気で、それでも二度と寝坊などせずに毎朝家を出る。  
ただ、ひとつだけ違うのはたまに昼餉や夕餉を一緒に摂る機会があること。そしてあの  
寝巻き一枚のミツキが夜毎マサツネの脳裏に現れては悩ませることぐらいだ。  
 
 
終わり  
 

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