弥生の桜が咲き揃う頃、ミツキとマサツネの住む長屋の住人たちが一気に賑わう出来事が
あった。
長屋の端に住む若い左官の夫婦に子が生まれたのだ。
数ヶ月前に夫婦が長屋に住み着いてからこっち、女房が日毎に大きくなる腹を抱えて嬉しそう
に亭主に心尽くしの弁当を届けに行く姿は、傍から見ても微笑ましいものがあった。
あまりにも幸せそうで羨ましいなあ、と思うことがあった。
さわという名の女房は年恰好もミツキとそう違わないように見える。だから余計にそう感じるの
だろうか。
さわの父親は遠く離れた地の地主らしい。
若い夫婦の馴れ初めにどんな事情があったかは分からないが、可愛い孫が生まれた今では
いかにも頑固そうな地主も即効で態度が軟化したという。
本日は祝いということで長屋前の路地に宴席を設け、山のような御馳走と酒を携えて住人
たちに大盤振る舞いをしている。
「さあさあ、長屋の皆の衆。どんどん飲んで食べて下され。そしてどうかこの若夫婦と孫娘
をば祝うて下され」
既にすっかり出来上がっているのか赤ら顔で機嫌良く笑う地主の傍らで、若い夫婦が桜の
花のように微笑んで小さな娘をあやしている。
「さ、ミツキちゃんも飲んで飲んで」
見たこともないような御馳走に舞い上がるおかみさんたちに薦められるまま、断るのも無粋
とばかりにあまり飲めないミツキもどんどん振舞い酒の杯を重ねていく。みんな楽しそうに
笑って、みんな幸せで、そんなこの席では何もかもが本当に嬉しい。
もしかしたら、自分にもこんな日が訪れるのだろうかとも思った。
「ちょっと、ミツキちゃん潰れちまうって」
祝い酒など滅多にないことだからと、振舞われるまま酒を口にしているミツキを宴の始まる
頃からちらちらと眺めていたマサツネが遂に口を出した。
「まあいいじゃないか、たまに羽目外したってさ。あんたも飲みなってば」
おかみさんたちは気にする様子もなく、陽気に笑いながらも酒を勧めてきた。それを仕方
なくという風に二杯ほど飲んでから、もう充分とひらひらと手を振る。
「じゃあご馳走様。今日も古着屋から仕立て直し頼まれてるのがまだあるし、あんまり酔っ
払ってられないからさ。これで退散するわ。ミツキちゃんも連れてくよ」
「まあ無粋だねえ、こんな日に」
既にかなり酒が入っているのか、おかみさんたちは頓着がない。確かに滅多にない御馳走
と酒に目が眩んで長居などしたら、明日の御天道様が拝めなくなるほど酔い潰されてしまう
のは確実に思えた。
などということは、当のミツキはもう考えてもいなかったのだが。
「ミツキちゃん大丈夫?」
「うん、大丈夫ー」
ふらふら歩いている間も、上機嫌なミツキはけらけら笑う。何だか身体がふわふわ軽くて
不思議な気分だった。そして、こうやってしっかり歩けているのに付き添うなんて子ども扱い
されているのかも、とも感じた。けれど決して不快な感覚ではなかった。そうしているうちに
目的地に着いたのか、重い木戸が開けられる。
「ほら中入って、しばらく休んでから帰んなよ」
「んー」
ぐるぐる回る頭で明けられた木戸の奥の部屋を眺める。ミツキが見慣れた自分の部屋では
ないようだ。だけどもうどうでも良くなっていた。
「どっちにしろ隣なんだから同じだって。すぐ寝られる方がいいだろ」
「かもね、あはははー」
昼間でも薄暗い室内にどさりと転がるなり、我が物顔で手足を伸ばす。
「そら、床延べるからしばらく寝てな。あんな飲んだら誰だって」
「だって気持ち良かったんだもーん、あはははー」
何とか布団を敷こうとしているマサツネの傍で、ミツキはじゃれる子猫のようだ。身なりも
気にせずに手足を振り回しているせいで、着物の襟元や裾が見苦しいほどにはだけられて
くる。しかし今のミツキにはそれを気にする気配もない。
そしてここにいるもう一人の心中を慮ることもない。気配を伺うように木戸の外へ目を向けて
から、一度戸口の際まで行ってつっかい棒をしたことすらも。
「ほら、ここに寝なよ」
「はあーい」
何とか敷かれた布団にころんと寝るなり、着物の襟に手がかけられる感触があった。
「ん…何?」
「今日、暑くない?」
「んー、ちょっとはね…」
何をされようとしているのかも良く分からないまま、ミツキは緩く笑った。それが合図ででも
あるように更に大きく襟元が開けられて、普段は過剰なほどに隠している真っ白な胸元が
あからさまになった。その瞬間マサツネが息を呑む気配は何となく感じた。
「んじゃ、楽な格好しようよ。俺も暑いからさ」
「そだねー、桜も咲いてるもんねー…んんっ」
酔っている上にとろんと心地良く眠くなっていることもあって、一段と普段より軽くなっている
口が不意に塞がれた。
息が出来ない。何をされたら分からずに必死に逃れようと身を捩ると、びっくりするほど近くに
マサツネの顔があった。
「な、に…?」
「ミツキちゃんとじゃなきゃ、しないようなことしたい」
その目は怖くなるほど真剣な色を帯びていて、酔いで頭の回らないミツキには全く訳が分から
なくなっていた。
「なに、わかんないよ…いきなり」
「いきなりじゃないって、ずっと考えてた」
「だからあ、アタシは…あっ」
これ以上の問答は面倒になったのか、襟元が更に広げられた。咄嗟に声を上げようとしたが、
まだ幾らか残っていた理性が邪魔をする。
「やぁだぁ…声、外に聞こえるよぉ…」
「大丈夫、みんなまだ騒いでるしさ」
頬にかかる吐息が痺れるほどに熱い。いつもはのほほんとしているマサツネとは別人の
ように興奮して何かを急いているのが分かった。そして、本能でこうなったら逃れられない
ことを察して身震いした。
何をされるのかはよく分からなくても、その本能の全てがミツキを縛り上げた。
「やあぁ…怖いよぉ」
涙を浮かべてかぶりを振るも、何一つ通じないようにマサツネの両手がむき出しになった
乳房をゆるゆると揉む。追うように肌の滑らかさを楽しみながらゆっくりと唇や舌が触れて
いく感触が妖しく隠微な感覚に火をつける。身体を洗う時以外にほとんど触ったことのない
場所にまで手が滑っていくのを信じられずに、必死で抗った。
「も、ダメ…だったらっ」
「なんで?」
「だって、これってつまりその…アタシ、操はずっと守るつもりで…」
その間にも、隠しどころの何もかもを探り尽くそうというように指は下腹を撫で、腰巻で守って
いた女の秘めたる箇所をまさぐり、潜り込んでいく。手管には慣れていない様子とはいえ、
本能に突き動かされている男の動きによって意外とたやすく快感を引き出されてしまっている。
それがまた堪らない。
そんな風に快感を感じたことがないだけに、衝撃だった。
帯だけはまだ解かれないものの、着物はもうすっかり乱されきっているミツキが布団の上で
はらはらと泣く。しかしそれすらも媚態にしか見えないようで、マサツネは一度唇を吸ってから
硬く抱き締め、子供をあやすようにぽんぽんと背中を叩いた。
「それは、オレもだよ。ミツキちゃんだから、こういうことしたいって思うんだ」
「ア、タシと?」
「うん、嫌かなあ」
ミツキの頭の中は一層混乱していた。マサツネとのこれまでの関わりはそう長いものでは
ないけれど、信頼に足る相手だとは思っていたし、いずれはもしかしたらとも感じ始めていた
ところだった。
なのにこんな風に事が始まるなんて、何をどう考えていいのか分からなくなっている。
「…嫌、じゃない、けど…なんで今、なの…?」
「さあ。それは分からないよ、でも男と女の成すことなんて理屈じゃないとは思ってる」
「じゃ、それがアタシには今、なの…かな」
何一つ経験のないミツキにもそれだけははっきり分かった。もし、今求めてくる手の全てを
拒絶したら、後で絶対に後悔することを。多分それでもマサツネは変わらない態度で接して
くるに違いないけれど、きっとミツキの心は痛み続けるだろう。
何よりも、目の前にいるのは両親を除けば誰よりも心安くいられる相手だ。
「なら、いい…」
ミツキは目の端に溜まった涙を指で拭った。
「ミツキちゃん」
「アタシ、女の腹の括りどころは間違えたくないもの」
そして迷っている全てを振り払うようにふっと微笑んだ。その頬を熱を帯びた大きな手が愛し
そうに撫でる。
「じゃ、任せてくれるね」
感極まったような声が耳元で甘く響くと同時に、だらしなく投げ出されていただけの両膝が
恥ずかしいほど大きく開かれた。あられもないそこをこんな近くで凝視されていることに萎縮
して肌は鮮やかに染め上がる。
「や、だぁ」
「何で、可愛いよ。ここもみんな」
もう止められない、そう思った途端に膝の間に身体が割り込んできて両脚がもう閉じられ
なくなる。すぐに何かひどく熱い、硬いものがそこに擦りつけられた。
「ホント可愛い、ミツキちゃん」
「…ぅあっ!」
熱が入り込んでくる感覚が、ミツキを襲った。耐えられないほどの痛みで身が竦む。
「やだやだ、痛、苦し…」
「ゆっくりするから…」
これ以上はもう無理、と言いかけた唇が宥められるように奪われる。縋るものを必死で求めて
ミツキの腕がマサツネの身体を抱き締め、唇を任せる。その間にも進んでくるものが次第に
感覚を妖しく支配していった。
「ン…もうヤぁぁ…」
呼吸が出来ない、苦しくて身悶えながら髪を振り乱すミツキの瞳に今まで見たこともないほど
真剣なマサツネの顔が映った。
「ありがとミツキちゃん。こうなったのを絶対後悔なんかさせないからさ」
「んん…こんな、時に何…」
「ゆっくり、動くよ」
今のミツキを苦しめている、身体の奥深くまで埋まった熱い塊がまた狂おしい感覚を呼び
覚ますように蠢いた。
「やっ、いやぁ…」
「すっげキツ…大丈夫、全部任せて」
苦しくて呻くミツキを何度もあやすように抱き締めて、背中を撫でて、マサツネは大丈夫だと
囁き続ける。それでいて身体の中で暴れ回るものは次第に硬く、大きく、際限なくなっていく
のが感じられて、一体どうなってしまうのか本当に分からなくなっていた。
苦しい、こんなに苦しいのに一から十まで嫌な気分ではなく、むしろもっとその先に何か別の
ものがあるように思えて、いつかその感覚に辿り着けそうな気がして、それがミツキを一層
追い上げていった。
それは繋がっている箇所を通じて一体となっているマサツネも同じなのか、抱き寄せる力が
より強くなる。身体の中で激しくさざめく血潮の旋律が求愛のように擦れ合う粘膜の動きと
同化して、もうすぐ何も分からなくなりそうだった。
「ミツキちゃん、もうっ…」
「やあぁっ、アタシ、気が…気がイクっ…」
血潮の熱さが脳髄まで急激に駆け上がり、突き上げられる衝撃が一際激しくなった刹那、
一杯に身体を満たしていたものが何もかもを打ち消すように弾けた。
「いやああっ!」
全てが消えて目の前が漆黒の闇になってもミツキを抱き留めていてくれる腕の感触だけは
確かにあって、それが何よりも安心出来た。それがあれば何も怖くなかった。
身体の節々が痛む。
ミツキは繭の中に篭る蚕のようになっていた。
布団にくるまったまま顔すら出そうとしない。
「ミツキちゃーん、お茶淹れたから飲まない?」
マサツネはやけにさっぱりとした顔で、何も反応しようとしないミツキの世話を何くれとなく
焼いている。
「はい、お茶。熱いうちに飲んでよ」
大きな繭のようなミツキの前に湯呑みをひとつ置くと、残っている仕立ての仕事に取り掛か
ろうとする。
「…アタシ」
事が収まった後、何も言わなかったミツキがようやく言葉を口にした。
「ん?何」
「どんな顔すればいいの、何言えばいいの…マサツネくん」
「いつもと同じでいいと思うよ、それがミツキちゃんらしいんだし」
はらり、と繭がはがれた。
真っ赤な顔をしたミツキが布団の中から現れる。まだ熱い湯呑みを手にしてお茶をごくりと
一口飲んだ。
「…おいしい」
随分叫んでいたこともあって、喉がからからになっていたようだ。
その日は春の風がとても強かった。
桜もそろそろ散り急ごうとしている。
ミツキの身辺はあれからもそう変わりはなかった。相変わらずマサツネと約束のない朝餉や
昼餉、夕餉を一緒に摂り、時間が合えば一緒に散歩をしては他愛もない話をするだけの日々
で、以前のように穏やかに過ごしている。
けれど、たったひとつ。
二人の間で小さな約束事が出来た。
ミツキのあまりにも偉大な父親、宇田川伍助にいつか二人して会いに行くことだ。
今はまだマサツネも若く仕立ての腕もそれほどではない。ミツキも同様に剣術を極めては
いない。ただ、研鑽を積んでそれなりに納得の出来る人間になれたら顔向けが出来るよう
になるのではと、そうなりたいと今は思えていた。
「今日はあったかいねー」
仕立てが一段落したマサツネとその日は丸一日出掛ける用事のなかったミツキは、揃って
近くの川辺を歩いていた。
世の中は穏やかに過ぎていき、何も変わらないように見える。けれど少しずつ何もかもが
変わっていくものなのだろう。
「うん、いい天気だね」
「手、繋がない?」
突然の提案に、うっかり顔が赤くなる。まだどこかに警戒心が残っているのだろう。
「えっ」
「誰もいないしさ」
うららかな川辺には他に人の気配もない。周囲を見回してから、ミツキは真っ赤な顔をした
まま手を差し出す。あんな風に睦み合ったとはいえ、お互いにまだまだ何も知らないでいる
のは変わりない。
「…これでいい?」
触れ合う指が何だかひどく熱くて震えている。
そんな初々しい二人の目に映ったのは左官の女房、さわとその背ではしゃいでいる幼い
娘だった。散りかけている桜並木の中を幸せそうに歩みゆく姿はまるで一幅の絵のように
美しい。あの娘は、確かさくらと命名されたと聞いた。
幸せに、どうか幸せにと祈れるのはミツキもまた幸せだからなのだろうか。
「ミツキちゃん」
不意に間近で声をかけられて振り向くと、繋がれた手はそのままに頬を撫でられた。
「順番はちょっと間違ったけど、それでもミツキちゃんを大事にしたい気持ちは変わらない
からさ。それだけは覚えといて」
「うん…」
強い風が髪を乱す。それでもミツキの心の中はとても静かで幸せだった。こんなに大切に
してくれる人が間近にいて、いつか達成したい目標があることはきっととても恵まれている
ことなのだろうと。
もしもこれ以上の贅沢が許されるのであれば、それはきっと本当にささやかな、大抵の人が
見逃してしまうようなものなのだろう。
「…マサツネくん」
「何?」
悪戯のように強く手を握り返してきた相手に、ミツキはにっこりと笑いかけた。
「今日は晩御飯も一緒に食べたいの、いい?」
終わり