春の陽気はうららかに過ぎていき、一段と夜が短くなる時節。
「ン…」
眠りの浅い少女が寝返りを打つ。
腕が当たる感触で先に目覚めたマサツネはぼんやりと身を起こしながら部屋の中を見回して、
雨戸の隙間から漏れる光の強さで明け方の時刻であることを感じ取った。
その次に、隣で寝入っているミツキの存在に思い至っては、改めて感慨に耽ることしきりのこの
頃でもある。薄明かりの中でも健やかな頬や肌は珠のように艶やかな輝きを放っていて、どれ
だけ眺めていても飽きることがない。
これも役得と、ついつい寝顔に見蕩れてしまう。
「…やっぱ可愛いよなあ」
昼間は近隣の道場で竹刀を振るうミツキとは毎晩ではないにしても夕餉を共にして、その後も
一緒に過ごすようになってきている。最初に出会った頃から完全な岡惚れ状態だったからこそ、
こんな仲になったことがまだ信じられない気持ちだ。
まあ、ミツキはこの新時代を成す原動力となった英雄の娘で、マサツネもまた直接の当事者の
息子でもある。身分がどうの格差がどうのと煩わしい世であれば尚更こんな風にすんなりとは
いかなかっただろう。
だからこそ新しい時代になったことに万歳、と大声で言いたいぐらいだ。
安心しきってすうすう寝息をたてている愛しい可愛いミツキの頬に乱れかかる髪を払ってやると、
襦袢からむき出しになった肩が揺れた。
規則正しい生活を旨とした宇多川家の娘らしく、ミツキの朝はとても早い。
いつもならこんな風に寝乱れた姿をマサツネに見せることもなく、日が昇らぬうちに目覚めて誰も
まだ外に出てこないうちに自分の部屋に戻る。嫁入り前の娘のせめてもの嗜みとはいえ、たまに
こういった寝過ごす朝があってもいいだろう。そうマサツネは思っている。
可愛い寝顔を間近で思う存分堪能して見蕩れられるのはまさに至福。到底値千金どころの騒ぎ
ではない。
そんな誰も手に入れられない贅沢に、ひっそり微笑むのもまた一興。
結局、その朝はミツキが何で起こしてくれなかったと照れかくしもあるのか相当の癇癪を起こし、
軽くではあるが拳攻撃二連発を食らった。
そんなトコも可愛いんだよなあ…と惚気は日を追って膨らむばかりだ。
「ふぁーあ」
指定された通りに縫い詰めたりして仕立て直した着物と帯を検品して貰っている間、古着商
笹川屋の勝手口の上がりに座り込むマサツネは退屈そうに大きなあくびを一つ。
ミツキを送り出してから、念の為に仕上がりを一品一品確認していたこともあって少し目が疲れ
てもいるが気分は悪くない。
手間賃が入ったら菓子でも髪飾りでも何かミツキが喜びそうなものを買おうか。そんなことを
考えてずっと緩みっぱなしの口元が頬杖では隠しきれないでいる。
そうこうしているうちに、奥からこの店の若主人がやって来た。
「お疲れさん。ちっと疲れてるようだな」
「…それほどでもないけど。で、どうよ検品の結果は」
持っていた黒盆から湯呑みと干菓子の小皿を置くなり、若主人は人の悪そうな笑みをにやりと
口元に浮かべた。
「仕上がりは多少ましになってきたな。あれだったら手直しなしで店に並べられる出来だ。お前
さん、この頃なんか変わったぞ」
「…へ?別に何もないけど」
「んーんー、世の中は春だからねぇ」
「嫌な物言いすんなよ、龍造」
浅い溜息をつくマサツネはこの人の悪い男、笹川龍造をどうも苦手に感じている。
元々同郷の人間ということもあって、都会に出てきてからは仕事絡みで何かと頼っていること
もあるので余計に立場が悪い。年は二つほど上だが元は武家のマサツネとは違って商家に
生まれ育ったせいか、商売事に関してはやたら目端が利くのも何だか癪に障る。とはいえ頼り
になるのは確かだ。
そんな、なかなか微妙な感情を常に抱えている。
「お前さん、さっきから小娘が飴玉頬張ってるみてぇな締りのない面だが」
「別に何も…」
「小娘なら飴玉で合点がいくが、野郎がそんな面をするとなれば女ってのが通り相場だ。
もしかしたら、ちょいと腕が上がったのもそのせいかねぇ」
突然そんなことを言われて、一体どんな情けない顔をしたのやら。あまりの不意打ちで
マサツネは言葉が何一つ出てこなくなった。
「大当たりぃ、か」
茶化すような声色で湯呑みの脇に置かれた小皿から干菓子を一つつまむと、無造作に
口に放り込んだ。
「ん、美味いねぇ…こんなつまんねえ推量で当てられるなよ、情けねえ奴だ。この前まで
どこ見てるか分かんねぇ上の空で溜息面だったってのに、急に鼻の下が爪先まで伸びて
たら誰だって分からあ」
「…んなこと、誰にも言うなよな」
すっかり不貞腐れたように横を向くマサツネの肩を強引に叩いて、龍造は急に恐ろしいほどの
真顔になる。
「馬に蹴られてまで人の好いた惚れたに首突っ込む気はねぇよ」
「そりゃどーも」
「いいか、男にとっての仕事ってのはどんな些細に見えるものだって命懸けなんだよ。その
仕事の腕をおのずから上げさせるほどの女がいるなら、それは」
臍を曲げていた筈なのに言葉の続きについ興味を引かれたマサツネは、やはり龍造に一目
置いているのだろう。
「それは?」
「天女様ってことさね、たんと大事にしてやんな」
そんな遣り取りをしている間に全ての検品は済んだようだ。手間賃が計算されて渡されるまで
すっかりぬるくなった湯呑みの茶を飲むことも忘れて、天女様ってのも悪くないかもなどと先程
まで臍を曲げていたこともどこ吹く風と、また妄想に入りかける有様となっていた。
龍造は仕立て直しの出来が良かったからと、思っていた以上に手間賃を弾んでくれた。
「マサツネくん」
温かい懐に気分を良くしながら長屋の入口に入ったところで、聞き慣れた声が不意にしたので
思わず振り返る。
そこにいたミツキは単の着物の湯上り姿だった。まだ湯の温みが残っているのか頬が上気して
何とも艶かしい。無意識にぐっと淫らがましい気分が込み上げてくるのを押し留めて、懐をさすり
ながらやっと言葉を返した。
「あ、お疲れ。もう湯屋に行ったんだ、早いね」
「ん…今日はいいお天気だったし暑かったから汗かいたし。まだ日は高いけどたまにはね」
さらっと笑ってから何故か口篭りながらも、ミツキはおずおず腕を伸ばしてきてマサツネの頬に
触れた。ふわりと洗いたての肌の匂いが立ち昇る。
「痛かった?」
「え?」
「だからあ、朝…ぶってごめんね」
どうやら朝方の拳攻撃二連発のことを言っているようだ。
「ああ、あれ?大丈夫大丈夫」
軽口を叩きながら頬に伸びていた手を取り白い指先に口付けると、ミツキは面白いほどすぐに
真っ赤になって水面の金魚のように口をぱくぱくさせてから乱暴に手を払った。
「…バカ」
長屋の入口では誰がいてもおかしくない、なのにこんな振る舞いをと涙すら滲ませて睨んで
いる瞳が責めていた。けれど決して本心からではないのは透けて見えている。ならばすぐに
謝れば済むことだった。どのみちいつもミツキを怒らせるのはマサツネの方なのだ。
朝のことも、今も。
そういう顔も可愛いと思うからつい怒らせたくなるのだと、不埒な気持ちがあることはこの際
押し込めてしまえばいいことだ。
「うん、ごめん。ミツキちゃんがあんまり可愛いからさ」
「知らないからっ」
まだ怒っている振りをしているミツキと宥めながらも嬉しさを隠していないマサツネの、初々しくも
もどかしい関係はまだ周囲に知られてはいない。
などと思っているのは当の二人だけ。
あの宴の最中に一緒に雲隠れしてからというもの、妙に親密になったのは隠しきれるものでも
なく、「若い人たちはいいわねえ」とこっそりおかみさんたちの噂になっていることも。
終わり