相変わらず仕立て物の仕上げに没頭していて、ついうとうとと眠り込んでしまったら、気がついた
時はもう朝になっていた。
いつの間にか灯も消えていた部屋の中でぼんやり目覚めたマサツネは、肌寒さを感じて肩から
落ちそうになっていた半纏を引き寄せる。
「もう明るいのかあ」
薄い板一枚隔てた隣の部屋からは物音が絶え間なく響いている。とうに起きているミツキが普段
からも伺えるきびきびとした身ごなしで、掃除や炊事に精を出しているのだろう。夫婦になったら
きっと良い妻になるだろうと思うとそれだけでも頬が緩む。
さっきまで居眠りをしてしまったが、夜を徹して取り掛かったこともあって仕上げの段取りとしては
あと少し。出来上がったら昼過ぎまでに笹川屋に持ち込めばいいだけなのだし、とにかく少しでも
今は眠っておくのが最上と思えた。
その前に、何か少しでも腹に収めておこうと側に転がっていた干し芋を齧る。
と、入口の木戸に人影が差して遠慮がちに何度か叩かれた。
まだ朝も早かろう。そんな時刻にわざわざこんなところに訪ねて来るのはミツキしかいない。回ら
ない頭を抱えつつも、マサツネは慌てて木戸のつっかい棒を外した。
「あ…」
いつものように、きちんと身支度を整えたミツキが驚いたような顔をして佇んでいる。
「おはようミツキちゃん。今朝も早いね」
「あ、おはよ…もしかしてまた徹夜でお仕事?」
「うん、そう。あともうちょっとなんだけど、さすがに疲れてるから少し寝るつもり。オレそんなに
ひどい顔してるかな?」
「ううん、そんなことないけど、アタシばたばたしててうるさくなかったかなと思って。あ、これ」
ほんのりと頬を染めて少し言葉を噛みながらも、ミツキは手にしていた小盆を差し出してきた。
盆の上には小鉢と小皿が一つずつ並んでいる。
「アタシ、今朝は早く起きちゃったから空豆と筍の穂先を煮たの。こっちは五目豆。良かったら
食べて」
「あ、ありがと。今腹減ってたから嬉しいよ」
眠りが足りないせいでひどい顔をしているのは間違いない。そんな顔をミツキに晒してしまった
ことは不覚だったが、わざわざ朝餉のおかずを持って来てくれた心遣いは本当に嬉しかった。
「ミツキちゃん」
「え?」
「仕事はこれでひとまず一段落するから、今夜こっちに泊まらない?」
これでまた少し暇になるからと、いつもの調子で誘ってみる。
「…う、ん」
何故だか妙な言い淀みと動揺が見えた。
「いいよ。じゃあまた今夜、ね」
何か言いたそうな顔をして、ミツキはさっと木戸を閉じた。そのままぱたぱたと立ち去る足音。
「何だろう…?」
予想もしていなかった反応に、小盆を抱えてマサツネはぽつんとその場に立ち尽くした。
これまでのことで何かミツキを決定的に怒らせることがあったのだろうか。それとも他に原因が
あるのかと一瞬だけ思案するものの、今は全く思い当たるものがない。万が一あるとするなら、
夜になればまた会えるのだし、その時に尋ねればいいことだとこの場の結論をつけた。本来が
楽天的な気性でもある。
そう決め込むと同時に腹の虫が鳴ったので小盆の上の料理をつまんでみた。
「…やっぱ美味いなあ」
空腹のせいもあるだろうが、ミツキが作るものはいつも何でも抜群に美味だ。母親が料理上手と
聞いているので日頃からきちんと仕込まれていたのだろう。
いつか夫婦になったらどんな楽しい日々が訪れるか。そう考えるだけで心が躍った。
その日、とっぷりと暮れてから人目を忍ぶようにミツキはやって来た。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
夜目にも髪が少し濡れているのが見て取れるので、湯屋に行ってからすぐに来たのだろう。
「晩御飯はもう食べた?」
「あー、夕方蕎麦屋の屋台で済ませた」
「そう…もしまだだったらアタシ何か作ろうと思ってたんだけど」
口調こそいつものミツキだが、やはりどこかが違っている。
「朝から気になってたんだけどさ、ミツキちゃん、何か言いたいことがあるんじゃない?」
そんな反応は覚悟していたのか、驚くこともなく静かに頷いて畳に座る姿がいつもよりも更に
華奢に見えた。
「アタシね」
いつになく神妙なミツキの声音に、何事かと思わず正座をするマサツネは次の言葉を待った。
「ア、アタシこの間まで月のものがあったの」
「あー」
それで合点がいくことがあった。少し前、数日の間だけいつも元気なミツキの顔色が冴えない
時があったのだ。変な話、マサツネの母親は身体が弱く、月のものの障りもかなり重くてよく
寝込んでいたので、女性のそういう事情は満更分からないでもなかった。
「そっか、お腹痛くなったりして大変だったんじゃない?」
「ん。それでね、言っていいことか分からないんだけどすごくホッとした。要するに、アタシまだ
赤ちゃん出来ても母親になる覚悟なんて全然なかったんだなって。今まではマサツネくんとこう
なったことが嬉しくて仕方なくて、もし出来ちゃってもそれでいいかなって思ってたんだけど」
いくらそれなりの仲にある男にとはいえ、女の子がそんな内容の話をするのは確かに言い出し
にくいことだったに違いない。なのに以前『何でも話して欲しい』と言ったことで律儀に口を開いた
のだろう。その健気な気持ちが心から嬉しい。
「うん、それで」
「それじゃいけないって、今は思ってる。赤ちゃんにもマサツネくんにも悪いし」
これまでずっと、生真面目なミツキが一人で悩み続けていたことに胸が痛くなる思いだった。
「そっか。一番大事なことなのにミツキちゃんにばっかり長いこと悩ませてごめん。オレもさ、ミツキ
ちゃんが応えてくれたんで嬉しかった。だからちゃんと夫婦になる前に子供出来てもいいと思って
たんだけど、それじゃやっぱお互いに良くないよね」
本当なら、こういうことは真っ先に気にすることだった筈で、それを今まで完全に忘れていたのは
やっぱり浮かれていたからなのだろう。これまでのことは結果として幸いに働いたという偶然の上
でのことだから、この先はもう決して軽はずみなことは出来ないだろうなと思った。
睦み合うことの悦びは本当に素晴らしいけれど、それは夫婦になればいつでも叶えられる。それ
よりも肝心なのはミツキを何を置いても一番に思い遣ることだけだ。
本心ではやや残念な気持ちも残しながらそんなことを考えていると、もじもじと膝の上で指を動か
していたミツキが重い口を開いた。
「だ、だからね…最後の最後に、中に、だ、出さなければいいんじゃないかなって…」
「へ?」
うっかり変な声が出てしまった。マサツネとしては、きちんと夫婦になるまではけじめとしてもう
二度と手も触れないで欲しい。そう言われると思ったのだ。
「出さなければって、アレだよね」
「うん…マサツネくん、そういうことって出来る?」
「そりゃあ出来ないことはないけど…いいのかな」
行灯の灯でもはっきり分かるほど、ミツキの顔は赤い。そんなことを口にするだけでも恥ずかし
くて仕方がないのだ。
「だったら多分大丈夫だから、いい…」
この方法が本当に正しくてミツキを完全に守れるのかどうか、それはマサツネにもはっきりとは
分からない。ただ、今のミツキが望むのならというずるい考えではあるが、それでいいのだとしか
結論を出せなかった。
「じゃあ、するよ。ちゃんと気をつけるから」
わずかな罪悪感をまだ感じながらも腕を伸ばして髪に触れる。その感触にずっと伏せられていた
瞼が不意に開いて瞳が揺らぎながら見つめた。
「アタシ、変なこと言ってないよね」
言うなり、渾身の力を搾り出すように抱きついてくる。まだ湿り気を帯びている髪の匂いが鼻を
掠めて、目眩すら覚えるほどだった。
終わり