あたりはすっかり寝静まった月夜。質素な武家屋敷の頼りなげな灯かり一つ灯した部屋に、  
ひっそりと紙擦れの音が響く。隣の寝間に妻の志乃を寝かせ、うさぎ道場師範・宇田川伍助が  
自室で勉学に励んでいた。  
 時代の変動してゆく渦中である。立役者でありながら、権威からは一歩引くことを望んだ  
伍助ではあったが、新しき風を起こした者の務めとして、自ずから世のために学ばねばならぬと  
感じることがたくさんあった。  
「ふ、ふあ〜…」  
 山積みの書物に囲まれながら、大きなあくびをする。  
 昼間の剣術稽古疲れが尾を引いているのかもしれない。刀が武士の象徴という意味合いは  
薄れてきたからこそ、道場へ集う門下生は真に剣術を愛する者ばかりである。ゆえに稽古は  
厳しさを増してゆくものの、快い疲れに毎日が充実していた。  
「……」  
 ふっ、と目に映る文字がぼやけ、まばたきをする。今日はここまでか、と一息ついたのを  
見計らったように、背後のふすまが開いた。  
「ごっちん、まだ起きてたの?」  
 志乃が、膝を着いた姿勢でふすまに手を掛けながら、そっと隣室の様子をうかがっている。  
「うむ、そろそろ床に就こうとしていたところだ」  
 伍助は書物を閉じ、片手で目をこすりながら振り返った。  
「お主こそ、起きていたのか」  
「ん、目ぇ覚めちゃった。えへへ」  
「すまぬ、物音がうるさかったか」  
「ごっちんのせいじゃないよー。あたし、この頃お昼寝いっぱいしちゃうの。だからかな」  
 志乃は両手を振った。浅い眠りから覚めたばかりの笑顔は無防備で、けだるさの  
残る声は、音の鳴る玩具のようにからからと響いた。  
 
 文机から手燭を取り、寝間へと移る。後ろ手にふすまを閉め、枕もとに置くと、ゆらり  
炎が揺らめいた。灯かりに照らされた顔が、闇夜に咲いた月見草の如く浮かび上がる。  
 そういえば、このところ志乃に触れてなかったな、と伍助は自分の床に腰を下ろし、  
手招きした。  
 素直に傍らへすり寄ってきた志乃の身を正面から抱き寄せる、と、腹がつっかえた。  
「む……」  
 毎日目にしていたせいか、意識するのが遅れた。妻身に宿る我が子は、いつのまにやら  
日々すくすくと成長していたらしい。  
「どしたの?」  
「いや、……大きくなったものだと思ってな」  
「あ、ホントだ! いつのまに」  
 志乃は伍助の視線をたどってうつむき、まるでたった今そうなったかのように驚いた。  
その様子が妙に面白かったもので、伍助は思わず問うてみた。  
「自分で気づかぬものなのか?」  
「ごっちんだって、背ぇ大っきくなってるの気づかないでしょ? あたしがお嫁さんにきた頃  
なんか、このくらいだったよ」  
 志乃は右手を上げて、かつての伍助の頭の位置あたりの宙をなでた。  
「む、そういえばそうだな。そういうものか」  
 言われてみれば確かに、志乃の顔を見るときの角度が下がっている。志乃が縮んだ  
わけであるはずもなく、当然、伍助の身長が伸びたのだ。  
(お嫁さんにきた頃、か――)  
 結婚した当初は、子供のような女子だと思った。と、同時に、自分も子供のようであった。  
見た目だけでなく、精神の持ちようも。あれから何年も経ったわけではないのに、遠い日の  
ように思えるのは、それだけ二人の重ねてきた月日の濃さゆえなのかもしれない。  
 降って沸いた縁談のままに受け入れただけであった妻は、いつしか伍助にとってかけがえの  
ない愛妻となっていった。同じように、自分も妻に、最初の頃よりずっと想ってもらえている。  
そう自負できるほど、伍助の心も、様々な事柄を経て夫らしく育っていた。  
 やがて、すっかり夫婦としてなじんだ頃、二人のあいだにあたらしい命を授かった。  
 仲の睦まじさの割に、なかなかコウノトリの訪れなかったものだから、母や義兄に子宝  
祈願の灸寺や温泉に連れて行かれたり、その方に効くというあやしげな漢方を飲まされたり、  
オットセイだの二枚貝だのの描かれたいかがわしい掛け軸を床の間に飾られたり、  
ずい分と世話を焼かれたものだった。  
 尤も、当の二人は、そんな周囲の心配をよそに、いたって自分達の速度で穏やかに、  
「その時がくればその時」といった風情で過ごしていたのだが。  
 
「ぎゅうってくっつけないねぇ」  
 存分に抱き合えないことを、志乃は少し残念そうに微笑む。  
「なに、こうすれば」  
 伍助は志乃の背後に回り、膝を立てて足を開くと、腕を前に伸ばした。  
「えへへへ」  
 志乃は伍助に背中を預けてはにかんだ。  
 寄りかかられた重みは、一人の体だった頃よりずっと増している。幸せな重力を上体で  
受け止めながら、その源ともいうべきふくらみをなでた。面積を確かめるように、まるみの  
輪郭をなぞる。硬く張った腹部は布の上からでもあたたかく感じられ、伍助はしばらく  
そのままに、手を当てていた。  
「これからもっと大っきくなるよ」  
 身重の体になっても娘らしさの抜けきらない志乃は、無邪気に己の変化を楽しんで  
いるようである。  
「そうだ、おかーさんがねぇ、お古を産着に仕立てなおしてくれたんだよ」  
「そうか、母上が」  
「御守りもくれたよ。子安貝が入っていてねぇ、縁起がいいんだって」  
 志乃は芯からうれしそうに報告し、長いまつ毛を伏せた。  
「あたしねぇ、ちゃんとおかーさんになれるか不安だったんだ。だって、おかーさんって  
どーいうのかよくわかんなかったんだもん。だからねぇ、ごっちんのおかーさんと一緒に  
暮らせてよかった! あたし、おかーさんみたいなおかーさんになりたいな」  
「……。それは結構なのだが、」  
 母が妻を可愛がり、妻が母を慕ってくれていることをうれしく思いながら、伍助は、いつ  
だったか、母と接して不安が募り、心を追いつめられてしまった志乃の、必死で痛々しい  
姿を思い出した。  
 あれは、志乃の想いに気づこうともしなかった己の卑屈さに原因のあったこと。二度と  
志乃にあのような思いをさせてはいけない。まして、ただの体ではない今ならばなおさら  
女は情緒が乱れるとも聞く。伍助は、志乃を心身ともに支えたく思い、不器用ながら  
いたわりの言葉をかけた。  
「あまり無理をするでないぞ」  
「うん、大丈夫だよ」  
 伍助の気遣いを素直に受け入れ、志乃はうなずく。空元気の虚勢でないことは、  
安心しきってしなだれかかる仕草でわかる。初めて心が通じ合えたときと同じ気持ちで  
伍助は、志乃を包み込んだ。  
 
「志乃」  
「んー?」  
 戯れに名前を呼びながら、伍助は腹に触れていた手を、なんとなしに上の方へすべらせた。  
「む!」  
 驚いた。身籠る前は手のひらにすっぽり収まっていた乳房が、たっぷりと重たくふくれている。  
つかんでみれば指のすき間からあふれ、弾力で跳ね返されるようである。布越しでも明らかな、  
以前とは違った感触に、思わず伍助の手も好奇にうごめく。  
「ごっちんっ」  
 しばらくされるままにしていた志乃であったが、やがて耐えかねたように肩で振り向いた。  
「す…すまぬ」  
 向かい合った志乃は眉間にしわを寄せてい、口はきゅっと結んでいる。普段の温厚な  
志乃らしからぬ切迫した表情である。  
 助平心の顔を出したことを咎められると思い、伍助はあわてて手を離した。  
 志乃は、顔を伏せ視線を逸らした。  
「……ごめんね。赤ちゃん産んでしばらくしたら元に戻っちゃうんだって」  
「なにがだ?」  
「お…お乳……」  
「そ…そうなのか。お…女子の体は不思議なものだな」  
「がっかりしない?」  
「するわけなかろう。なにゆえそんな心配をしているのだ」  
「……だって、おにいちゃんが、男のひとは大っきいお乳が好きだって言ってたんだもん。  
ごっちん優しいからなんにも言わないけど……。ごめんね、やっと、ちょっとだけ大っきく  
なったと思ったのに」  
 寝衣の衿をかき合わせるように胸元に両手を寄せ、志乃はしゅんとした。  
「もしかして、ずっと気にしていたのか?」  
 志乃はためらいがちに間をおいた後、こくん、とうなずいた。  
 肌を合わせるようになってからずい分経つというのに、そんな些細な悩みすら打ち明けて  
もらえなかったことを寂しく思いつつ、そんなことを今日の今日まで恥じらってきたという  
初々しさが、伍助の胸をむず痒くさせる。  
「案ずるな。オレは、どんな姿かたちであろうが、お主だったらそれで良いのだ。これまで  
とて、不満など持ったこともない」  
「本当?」  
 伍助は、顔を上げた志乃の口を吸った。   
 やわらかく触れた唇を、そっと食むように啄ばむ。返事代わりの浅い口づけ。  
 唇を離せば、志乃がぼんやりとした顔で頬を染めている。子を宿してからは、自然  
遠ざかっていた夫婦らしい触れ合いに、どこか戸惑っているようである。  
「ごっちん」  
「む? なんだ?」  
 夫の名を呼んだものの、志乃は黙りこくっている。言いたいことがあって言い出せない、  
というわけでなく、自分でもなにを言いたいのかわからない、といったふうである。つぶらな  
瞳がなにかを訴えるような色を映し、思いついたように唇を開いては、想いが声に  
なる前に消えてしまう。  
「……」  
 志乃が言葉を繋ぐのを、伍助は顔を差し向かいに待った。  
 あてのない沈黙が続く。  
「なんでもない……おやすみなさい!」  
 まっすぐに見つめられ、待たせていることを申し訳なく思ったらしい志乃は、この不確かな  
時間を切り上げようとした。  
 
 就寝を告げる姿が儚げに見えたのは、障子越しの朧な月光のせいだろうか。離れて  
しまうのが妙に名残惜しく、伍助は未だ己の衿元に留まっていた志乃の手を握った。  
そのまま両手で、左右に開く。  
「あっ、やだっ……」  
 はずみで、着物の衿が開いた。はらり、と布地に包まれていた乳房があらわになる。  
「おおっ……」  
 伍助は思わず息を飲み込んだ。  
 これまでとて、もの足りぬなどと思ったことはない。そもそも伍助には、比べる相手など  
いなかったのだから当然のこと。けれども、見知っていたものとは確かに違うそれに、目が  
釘付けになってしまう。  
 豊かに実った胸部は、これから母にならんとする女のみずみずしい色香を放っていた。  
「ごっちん、恥ずかしいよ……」  
 伍助の手の中で、志乃の腕がもがく。  
「恥ずかしいものか。やや子のための大事なものだぞ」  
「そうだけど……あっ」  
 伍助は、引き寄せられるように、志乃の胸元に顔をうずめた。頬がやわらかい感触に  
包まれる。胸の中で息を吸い込めば、淡い汗の香に混じり、どこか懐かしい匂いがした。  
「や…やあん……」  
 志乃はくすぐったそうに声をあげる。甘い声色に誘われて頬ずりすると、耳にあたる  
皮膚の奥から、熱い心音が聴こえた。  
 同じ速さと響きで、伍助は自分も脈打つのを感じた。伍助はせつないくらいに愛おしさが  
募り、妻の肌に唇を押し当て、痕がつくほど吸った。  
「あ、あ、ん、はあ、は……」  
 ほの暗い部屋に、荒い息遣いが満ちる。志乃が身をよじらせる度に髪が振り乱れ、  
肌をかすめる度にぞくりとする。  
 昂ぶりのうちに、先程は布の上からだった触り心地を直に味わってみたくなり、伍助は  
両手の拘束を解いた。  
 顔の両脇で、肌を隠すべく力に逆らっていたはずの細い手は、枷を外され自由になっても  
上覆いを求めることなく、夫の頭を抱き込んだ。  
「は、ひゃ、んんっ、ごっちん、ごっちんっ」  
 もっと、とせがむように、志乃は己の胸を突き出して、伍助の顔に押し付ける。  
 伍助は円を描くように両の乳房に触れながら、唇と舌とで愛撫した。身の内に種子を  
結んだしるしとして、先の二つ部分が色濃くなっている。変化してゆく妻を確かめるように  
舐め上げれば、硬く立ち上がった焦色は、いずれ訪れる吉日を思わせて尖った。  
 伍助は、ひと際存在感を増したそれを口に含み、ちゅ、と吸った。  
「ああああああっ!!」  
 体が変わって敏感になっているらしい。少しの刺激で、志乃は激しく身悶えした。  
 
「はあ…はあ……ふう…」  
 志乃は焦点の定まらない瞳を潤ませ、息を荒げている。呼吸の度に白い胸が上下し、  
ほのかに汗の匂いが薫る。  
 いろめいた気持ちとは別に、伍助に、ふと一つの素朴な疑問が沸いていた。それは  
伍助が末っ子であるがゆえに、乳呑み児、また、それを抱える母というものが未知だった  
というだけの、ごく単純なものであり、いい大人が今さら問うようなことでもなかった。  
が、昼間の伍助ならば理性が働くのと、堅物な性格ゆえに口には出さないような軽口が、  
本性をさらけ出し合う雰囲気に油断してしまっていたせいか、ぽつりとこぼれてしまった。  
「まだ、乳は出ぬのだな」  
「えっ?」  
 まるで子供じみた顔で首を傾げる伍助の様子に、志乃は、先程くわえられた先端の甘い  
痺れなど忘れ、はたと我に返ったようである。羞恥か怒りか、みるみるうちに赤面してゆく。  
「もうっ、ばかー!」  
 志乃は伍助を突き飛ばした。そして背中を向けて肌蹴た衿元を整え、頭から掛け夜具を  
かぶって自分の床に就いてしまった。  
 もともと奥手同士の夫婦、まして口下手な伍助のこと、閨の最中に嗜虐的な言葉で  
煽るような趣向はなく、志乃にも耐性がない。ともすれば乳汁を欲しているとも受け取れ  
かねず、それを用いてのあれこれなど想像させてしまえば、夫婦のそれに関してだけは  
慎ましく武家の女らしかった志乃がどん引きするのも無理はなかった。  
「す…すまぬ! ふ…深い意味はないのだ」  
 まるまった夜具の中の志乃に慌てて詫びるが、返答はない。  
 伍助はため息をついた。やがて自分の床に就きなおし、あらためて声をかけた。  
「ゆっくり休むのだぞ」  
「……」  
 志乃はぴくりとも動じない。或いは、もう眠ってしまったのだろうか。いろ濃い夫婦の時間は、  
一転して静まり返ってしまった。  
 
 行き場を失くした熱を持て余しつつ、伍助は手枕に寝転んだ。  
 事態を察したかのように蜀台の火が消える。あたりが闇に包まれる。視覚を失い敏感に  
なった鼻に、女の残り香が匂う。  
 腹に障りがあっては困る、と無事に二つ身となるまではいたさぬつもりではあったのだが、  
後ろ髪を引かれるような思いに苦笑する。妻の肌身を知らぬ頃などは、長らく一つ部屋に  
寝起きしながら手も触れないでいて平気だったというのに、今となっては耐えているような  
心持ちになっているから不思議である。  
 うつらうつら目を閉じたまぶたの裏に、あかぎれすらかわいい指をまるめて墨をする手や、  
ふっくりと紅梅色に色付いた半開きの唇、そこからのぞく小さな舌が悶々と浮かび上がる。  
(明日はそばを打つか……)  
 やがて訪れたまどろみの中で、伍助は志乃の機嫌を直す術を思案した。  
 
おしまい  
 

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