生まれたことを恨む気はさらさらない。
むしろ、低禄の御家人の家だからこそ、貧しかろうがそんなものだと餓鬼の頃から思っていた。
どのみち生まれた家の格で一生は既に決まるようになっている世の中、出世の見込みなどなくとも
良しと思う方が生きやすいと割り切るしかなかった男がいる。
それが阿倍定ノ丞。
実質上は飼い殺しの無役でしかない小普請組に配属されている。
てな訳で毎日阿呆のように空を眺めて年を取るのも馬鹿臭いから、手慰みとばかりに日がな竹刀を
振るって憂さを晴らす。
いかに貧しかろうともこれだけは武士の気概そのものと、道場に通わせ稽古を続けさせてきた両親
はもういない。
さて今更小普請奉行に媚を売り賄賂を使って推薦を望むのも面倒だし、それをやったとしたところで
万に一つも望みが叶う筈もないのは分かりきっている。
先の見えない閉塞の中、それでも活路はある筈と呑気な様子を装いながらも内心忸怩たる思いで
足掻いていた。
そんなある日のこと。
派手な振袖を着崩した娘が、往来を退屈そうにだらだらと歩いているのを見た。
何故か片足は裸足で、腕には狆を抱いている。
下手に関わったら面倒だとばかり、往来を往く通行人たちはあからさまに遠巻きにしているのが
妙に滑稽に見えた。とはいえ定ノ丞自身もそんな面倒そうな娘に関わり合うつもりもなく脇を通り
過ぎた。
それで終わる筈だった。
そう思っていたのに、過ぎるはざまにかすかに触れ合った袖に狆が噛み付いて唸った。
「アン、なぁによ団十郎」
娘がくりっと顔を向けて狆と定ノ丞をゆっくりと見比べた。
妙に空ろな、それでいて蔑むような瞳が心のない人形のようだと思った。
壊れたからくりがわずかな振動で動き出すように、そこから話は始まる。
それから何度も見かけた娘は、いつも狆を連れていた。
野良犬などその辺にいるし珍しくもないところだが、狆ともなれば出所が違う。それだけでも普通
の家の娘ではないことなど容易に想像がついた。
まだほんの小娘のようだが、恐らくどこかの囲われ者なのだろう。
「ちょっとアンタ!」
とある日、関わるのは面倒だというのに娘の方から声をかけてきた。
「あぁ?何だよ」
「このアタシに挨拶なしぃ?」
知り合いでもない、義理もない。誰がそんな娘に挨拶などするものかと本気で娘の頭の中が気に
なったが、どう見ても可愛いげのない狆を抱いたまま睨みつけている娘の姿がやはりどうにも滑稽
で、思わず吹き出していた。
「…ぶぁははははっ!!」
「な、なに失礼ね、アンタ何様よ」
「問われて名乗るもおこがましいや。見ての通りの若輩者よ」
「……アンタなんか!」
顔を真っ赤にして怒り狂った娘が拳を振り上げた瞬間、腕にしていた狆がするりと飛び出して
往来を駆け出した。その時ふっと空ろな表情に魂が入ったように見えた。
「あ、こらっ」
地を這うほどに長い毛をした犬を必死で追う娘を見遣ってそのまま去る気でいた定ノ丞だったが、
どうした心変わりか手伝ってもみたくなった。
「どれ任せな、チンコロ一匹ぐれぇ造作もねえこった」
犬には何の興味もないがそれなりに人の多い往来のこと、下手に踏まれたり蹴られでもしたら
無関係の身でも胸は痛い。裾を気にして早く追えない娘の代わりに、束の間の自由を満喫して
いた狆をさっさと掻っ攫った。
「ホレ、しかと抱いてな」
「団十郎!」
狆を受け取った娘は一瞬嬉しそうに笑い、また魂が抜けたように無愛想になった。
「へぇ、こんなブッ細工なチンコロ坊に随分二枚目な名前だねえ」
「そんなの、アンタに関係ない。バーカ!」
礼ひとつ言わずに踵を返す娘の後ろ姿に、不思議とそれほど気を悪くすることもなく定ノ丞は頭を
掻きながら仕方なく苦笑いをした。
「やれやれ…」
己の立場に満足していない人間などこの世にゴマンといる。
それをどうこうしたくともどうにもならないことばかりだ。
頑張れば何とかなる、などは所詮成功者のほざく閨の睦言でしかない。
無役ゆえに時間だけはあるのが小普請組の唯一良いところだ。
その気になれば口入屋に通い詰めてその日その日の糧を得ることも出来るし、向上心があれば
学を修める者もいる。
定ノ丞はといえば、時間のある限りは似たような者と一緒に餓鬼の頃から慣れ親しんだ剣を振るう
のみだ。幸い、そこそこに才はあったらしく、腕はかなりのものと自負するほどにはなっている。
これならばそのうち、自らの道場を得ることも可能とは思っていた。
「最近、機嫌がいいな」
同じ小普請組で、以前は同じ道場に通っていた甲斐が稽古の合間に話しかけてきた。
「まあな、いい暇潰しにはならぁな」
機嫌の良い原因は当然あの娘だ。
この頃は毎日この近辺で見かけている。住む屋敷が近いのだろう。見かければ茶化すし面白い
ことのひとつも口にする。娘は相変わらず無愛想なままだが、それほど嫌がってもいない様子
なのは態度からも見て取れた。
好意は今のところ特にない。ただ何も知らない小動物か何かをからかっているような心持ちが
あるだけだ。しかしそれだけのことも今までの定ノ丞にはなかった感情ではあったのだ。たとえ
女とはいえども他人に関心を持つことなどついぞなかったのだから。
その意味では、定ノ丞もまた魂のない人形と同じだったのだろう。
その日の娘は団子屋にいた。
草団子を食べながら、子供のように足をぶらぶらさせている。その足元は草履ではなく真新しい
ぽっくり。どこをどう見ても不細工な落武者にしか見えない狆は、今日は大人しく腕に抱かれて
きょときょと目の前を過ぎる通行人たちを眺めていた。
「親父、団子一皿くんな」
断りもなくどっかりと隣の席に座った定ノ丞は、頬杖をついてまじまじと娘の仏頂面を見る。
「…ヘェ…」
娘は何の言葉も発しないまま睨んでいる。そこに少しばかりの人間らしさが見えていた。
「よっく見りゃ可愛い顔してんじゃねェか」
「…フン」
ほんのわずかに心を許しているのか、娘は照れたような表情になった。
「アンタなんかに言われたって、嬉しくない」
「そうかい」
憎まれ口にも特に何も気に留めることなく、ちょうどやって来た団子の皿から串を一本取ってもぐ
もぐと食べ始める。
「この御時世に金紗御召とは随分豪勢なこった。なのにお前ェは全然幸せそうでも嬉しそうでも
ねえな、面妖なこった」
金紗、とは御家人風情では手に入れることも叶わないほど高価な絹織物だ。薄い紗の地に織り
込まれた金糸の模様が何とも美しく優雅だ。そんなものを当たり前のように着ている娘がやはり
茫洋とした風情でいるのは定ノ丞ならずとも奇妙に思うのは無理もない。
しかし当の娘は狆の頭を撫でながらさらりと答える。
「アンタの目が悪いんじゃない?」
小普請組に所属する者にとって、胡乱な事態となりつつある出来事が起こったのはそれから
数日後のこと。
小普請奉行藤田の引き立てによって今よりもましな役職に就ける機会が出てきた。そんな噂が
まことしやかに囁かれ始め、これは好機と舞い上がった者の中には争うように有り金掻き集めて
賄賂とする早合点な馬鹿もいたらしい。
それが噂に留まらなかったのは、財産はたいた挙句に結局どうともならず窮した挙句に賭場に
通い詰め、結局身を滅ぼす輩がこのところ一人二人と現れ始めたからだ。
「愚かな奴もいるものだ」
同じく小普請組の権田が、広がっていく噂に苦りきった顔をして空を見上げた。幸い、定ノ丞と
剣を交えた者たちは甲斐を始めとしてそのような浮き足立った振る舞いをすることもなく、ただ
相変わらずの日々を過ごすのみだ。
無役のまま馬齢を重ねるだけのこんな境遇に満足している者など無論皆無だろう。何とかして
上を目指したいという気持ちは分からないでもない。
しかし、これまで特に配下の者たちに対して何もしてこなかった小普請奉行が今になって、急に
うまい話を持ち出してくるのも妙なものだ。
そうこうしているうちに、新たな噂も伝播してきた。
藤田にはやたら金のかかる妾がいて、吸い上げた金をその女に注いでいるのだと。
「許せるか?」
日頃の鬱憤晴らしに仲間を集めて設けた酒席で、怒りのあまり酔いきれずにいる甲斐が今にも
飛び出して行きそうにぎりぎりと刀を握り締めている。それを権田が宥めていた。
「まあ落ち着け。噂は噂だ。何もお奉行が悪いとは言い切れまい」
「しかし、簀巻きにされて川に投げ込まれた奴もいる。噂は事実だろう!」
二人の遣り取りを眺めながら、定ノ丞はその妾とはあの狆を抱いた娘ではないかと何の根拠も
なく思い始めていた。
でなければ、この世知辛い御時世にあの格好は到底考えられない。
しかし、たとえそうであってもあの娘が奉行の後ろで巧みに糸を引き、金を吸い取るほどの毒婦
にも見えなかったのだが。
「ヘッ」
この場の雰囲気に呑まれることなく、一人で気ままに酔っ払っていた唐島が立ち上がる。
「なぁに鬱々としてんだよお前ら、このオレ様が確かめてきてやるよ。ちょうどいい酔い覚ましに
ならあ」
そのまま身軽に外へと駆け出して行った。
一刻ほどして戻って来た唐島が持って来た情報は、薄々そんなものかと思っていた通りのもの
だった。
小普請奉行藤田は二年前から別宅に妾を囲っていて、名も年も知れぬが若い娘だという。
その女に夜も日も入れあげるあまり莫大な金が入用になり、このような事態と相成ったのだと。
「やはり許せん!」
話を聞いて甲斐はますます激昂するばかりだったが、それがもし事実だったとして、といつになく
醒めたまま定ノ丞は考える。
もしあの娘が噂の通りの女であれば、あんな顔をするものかと。
悪い噂が広がっていることに気付かないのか気にもしていないのか、翌日もぶらぶらと出歩いて
いる娘を見かけた。いつ誰に襲われるかも分からない状況でもある。あまりにも無防備でいる娘に
思わず近寄る。
「よお、奇遇だな。チンコロ娘」
「…変な名前つけないでよ、バカ」
今日も今日とて仏頂面ではあるが、その時だけどこか拗ねたような表情になったのが可愛いとも
言えなくもない。
「ま、カリカリすんなって。どうでェひとつ」
懐から飴玉を取り出して頬張り、娘にも勧める。てっきり断ると思っていたのだが、娘は躊躇する
こともなく名前も知らない男からの飴玉を受け取った。
「いいの?貰うね」
飴玉の微かな甘い匂いに気付いた狆が鼻の穴をふんふんと広げている。
「美味いぜ」
「…ホント…」
こんなものはただのありふれた駄菓子だが、飴玉を頬張った娘はふと子供のような無心な表情
になる。
「美味い」
「オイオイ、女なら『美味しい』と言うモンだぜ」
「…そう?」
この娘は全くの子供だ。
これまでの遣り取りを通して感じてきたことは事実だったようだ。この娘にこれまでどんなことが
あったのか知る由もないが、関わってきた人間の誰一人としてまともに接してはいず、何も教え
てはいなかったのだと。
それは不幸でしかないことだ。
たとえどんなに贅沢に過ごして御蚕ぐるみであっても。そしてその不幸に娘は気付いてもいず、
ただ本能で不安を覚えているだけだ。
それがあの人形のような顔の理由だったのだろう。
事態は日を追うごとにますます重く不穏になってきていた。今朝方も川に浮いていた土左衛門が
一人引き上げられたばかりなのも物騒この上ない。こうなったら徒党を組んで藤田の屋敷に討ち
入ろうと騒ぐ血気逸った輩まで現れる始末となって、収拾がつかなくなっていた。
「お前はどうする?」
既に討ち入りに加勢する気でいる気色ばんだ男に問われて、定ノ丞は頭を掻いた。
「そういうの、面倒臭ェんだよなあ」
面倒なのはもちろんのことだが、事の真相がどこにあるのか分からないうちは加勢に加わる気
にはなれなかったのだ。もしあの娘が藤田の妾であるなら必ずや累が及ぶことも気にかかって
いる。
「余計な情けはかけるなよ」
思案している側で、顔を歪めた甲斐がぼそりと呟く。
「…何のことだい?」
「とぼけるな、お前が訳の分からない女と連れ立っているのを何度か見た」
「へえ、そうかい。人違いじゃねェか?」
「そんな筈はない。あの女が藤田の別宅に入るのも見た。あれは例の妾なんだろ?そんな奴と
関わっていたら間違いなくお前はおしまいだ。今更知らないでは済まされないんだぞ」
あくまでとぼけて誤魔化すつもりだったが、生真面目に過ぎるきらいのある甲斐は早々に娘の
正体を掴んでいたようだった。
「面倒臭ェなあ…」
思わず本音が声に出てしまう。確かに甲斐の言う通り、こうまで死人が出る事態となってはもう
穏便に決着がつくことはないのだろう。
翌日、近くの寺の門前に所在なげな娘が座り込んでいた。
相変わらず狆を抱いているようだったが、様子がおかしい。
あまりふらふら出歩くと危ないから帰れと注意をしようとして、近付いてよく見てみると狆はとうに
死んでいる。
「おい、どうしたってんだ」
娘は魂が抜けてしまったようにぼんやりと座り込んだまま、それでも動かない狆を離さない。
「おい!」
「団十郎死んだのに、アタシ何していいのか分かんないの…。お寺じゃ犬のお葬式はやらない
って言われた」
泣き腫れた目をして、娘はそれだけを言った。
「そりゃ…気の毒だが当然だ」
「アタシの団十郎…」
面倒事に首を突っ込む性分ではない。だが声も出さずにはらはらと泣く娘をここで放っておくほど
非情にもなりきれず、定ノ丞は仕方なしに自分の屋敷に連れて行った。不精ゆえに大して手入れ
もしていないが、犬一匹ぐらいは埋められる庭がある。
「そら、ここを墓にしな」
庭の隅に穴を掘ってやると、狆をしばらく抱いたままだった娘が穴の中に腕を伸ばして小さな
亡骸を横たえさせた。
「サヨナラ」
すっかり土を盛ってしまうまでずっと泣き続けていた娘だったが、墓が出来上がったことで気が
済んだのかすぐに真顔になってまっすぐに定ノ丞を見た。
「ありがと、アンタいい人ね」
「よせやい、今更分かったってか」
「…そ、たった今」
涙を拭った娘は、初めて愛らしい笑顔を見せた。そういえば、今までこんな年相応にあどけない
顔など見たことがなかったと思った。
話しかけようとしたその時、門の外が急に騒がしくなった。
何が起こったのか覗こうとしていた娘を止め、代わりに様子を伺った定ノ丞の目に映ったのは、
怖気を覚えるほどに殺気立って奉行藤田の屋敷へと繰り出さんとしている小普請組の連中の
姿だった。
「おい、お前ェ…」
娘は不安そうに佇んでいて、打ち捨てられた子犬のようだ。今、外に出しでもしたらどうなるか
分かったものではない。何度か顔を合わせただけの何の義理もない関係でしかないが、この
娘を何が何でも助けたい。不思議とそんな思いがあった。
「いいか、オレが戻るまでしばらく屋敷ン中に入ってな。生きていたきゃあな」
「…どういうこと?アタシ、何もしてないのに」
「まあ、なかなかの厄介事が起こったってことさね。ここでいい子にしてな、えーと…」
「…分かった」
実に素直に娘は従う。
「名前、聞いていいか」
「アタシ、サユキっていうの」
「んじゃ、サユキ。お前ェはなんも悪くねェんだよ、多分な」
子供にするように頭を撫でてやると、不安そうな顔が少しだけ緩んだ。その時初めて、この娘を
心から可愛いと思った。
奉行の屋敷へと向かう一団を追っている最中に、偶然見かけたのか甲斐と唐島が追って来た。
「丁度いい、今からお前の屋敷へ行こうとしていたところだ。ここから歩きがてら話すぞ」
「何でェ、こんなトコで」
「こんなところだから言えるのさ。藤田のやらかしたことと、金の流れが分かった」
「そりゃあ…どれ聞こうかい」
日がな暇だからと唐島が退屈しのぎに藤田の周辺に探りを入れてみた結果、分かったことは
こうだった。
藤田は城の修理修繕しか担当することのない小普請奉行の地位にかねがね不満を持っており、
更に上の地位を目指さんと、こともあろうに直接の上司である若年寄を介して老中らと昵懇に
なろうと狙っていた。無論、老中ともあれば家格も立場も雲の上だ。たかが小普請奉行が無役の
連中から吸い上げた小金程度の賄賂などでびくともするものではないし、もとより相手にされる
筈もない。
さりとて、これまでに賄賂を吸い上げてきた連中の中には死人も出て騒ぎも大きくなっているので
秘密裏に全てを収めてこれまで通りに過ごすことも叶わなくなっている。さて、どうするか。
いよいよその段になって藤田が企んだのは、誰かに罪を被せて始末することだったと。
その誰かというのが、例の妾だったという訳だ。
「はて?」
そこまで聞いて、定ノ丞は首を捻った。
藤田の妾がサユキだというのはもう分かっている。だが、罪を被せられて斬られる女が、どうして
死んだ犬を抱えてあんな無防備に別宅を出られたのか。誰も見張りがいなかったというのは到底
考えられない状況だ。藤田とて罪をなすりつけたい相手をみすみす逃すほど馬鹿でもない。
サユキには、まだ誰も知らないことが山とありそうな気がした。
色々なものが頭の中を巡っているうちに、小普請組の連中に追いついた。見れば藤田の屋敷は
すぐそこに見えた。
続く