私の人生は、一言で言えば波乱万丈なものでした。  
しかしそれは決して悪いものではなく、私が関わることになった多くの方々に支えられてきた上  
でのものでありましたので、大層充実した人生であったと思います。  
既に老境に差し掛かりましたこの折、若かりし頃のことをよく思い出すようになりました。そこで  
思いつくことをつれづれに書き綴っておきたいと思っております。もしもいつかこれを目に留められる  
方がおられましたら、どこにでもいる愚にもつかぬ年寄りの駄文と笑い飛ばして欲しいものです。  
 
私は○○××年、志奈乃藩七万五千石の大名本間家の後継ぎとして生を受けました。学問より  
も武を重きに置く家風でありましたので、父も母も私には厳しく剣術を学ばせました。幸い、私には  
それなりの才があったらしく、すぐに母を喜ばせられる結果は出せたと思います。父は依然として  
厳しいままでしたが、それは更に私を剣への情熱に掻き立てました。  
しかし嫡子という立場ゆえに自由というものがなく、また考えなしの些細な発言といえどもそれが  
家臣たちへの勅令となってしまう現実に閉塞感を感じ、私は自由を欲し自分なりの剣の道を欲して  
家を出ることにしたのです。  
私には一人、良成という名の弟がおりました。幼少の頃から私を慕っていてくれた可愛い弟でした  
が、私はそのたった一人の弟にすら理由も行方も知らせずに旅立ちました。  
 
腕を磨くにはまず人の多いところです。  
私の足の向く先には、当然江戸の町がありました。そこで出会ったのが生涯の師として今も尊敬  
申し上げている宇田川伍助氏でした。身分は御家人と低いものでしたが、若いゆえに柔軟なもの  
の考え方を持っており、そこにまず共感致しました。今現在は隆盛を誇っていると聞くうさぎ道場  
も、当時はまだ始めたばかりでした。一切の理念を持たないというのもなかなかに面白く、ここで  
あれば私は自分なりの道を見つけられるかも知れないと思い、入門に至った訳です。  
心を空にして一切の邪念を払い、信ずるものに邁進する。そうして得たものにこそ価値がある。  
それこそが理念がないという言葉の真実なのだと思います。  
若くしてその境地に達していた我が師の慧眼には、全く感服するのみです。  
 
私が出会った当時、師は確か十五歳でしたが既に奥様がおりました。  
志乃という名の奥様は至って天真爛漫な方で、厳格ながらも懐の広い師とは対照的でしたが  
夫婦仲はいつも円満でした。師がうさぎ道場を興そうとした発端も、奥様の為だったのだと聞き  
及んだことがあります。  
程なくして私には友人が出来ました。同時にうさぎ道場第一期に入門した千代吉という少年で、  
農民の子ということでしたがいつも溌剌とした好ましい気性を持っておりました。年は五つほど  
下でしたが私と何故か馬が合いました。千代吉と稽古をしている時などは、孤独のうちに過ぎ  
去ってしまった子供時代が補完されてでもいるような、得も言われぬ懐かしい錯覚を覚えたほど  
です。  
 
当時の師を語る上で忘れてはならないのが清木清左衛門の存在です。  
江戸幕府御目付役にして講武館の師範として尋常ならざる武士道精神を持った男であり、この  
男の支配下で所謂洗脳化された思考を持った門弟たちが行った残虐行為は蛮行と噂されこそ  
すれ、誰も取り締まれないほどの権力を清木は持っておりました。  
そんな何かと評判の良くない講武館側は、前々から自らの存在を脅かすものとしてうさぎ道場と  
理念を持たない師の存在を疎んでおりました。師の奥様も清木によって斬られかけ、また門弟に  
因縁をつけられて師共々斬られそうになったこともあります。  
世の中が変わるきっかけとなったうさぎ道場と講武館の御前試合については、広く知られている  
ことですのであえて特筆するべきことはありません。  
 
ただ、それ以前に江戸市中にある道場に向けて開催された大天下御前試合というものがありま  
した。  
私はそこで一人の娘に出会ったのです。  
連兵館との試合の際、先鋒として立ち向かってきた娘でした。実は他の四人と共に島から抜け  
出してきた流人であり、世の中に不満を持っている様子で大層荒んだ目でしたが、試合が終わる  
頃には何か思うところがあったのかすっかり様変わりをしておりました。他の四人とも、それぞれ  
に感ずるものがあったのでしょう。  
ただ、彼らは流人である上に島を抜け出した重罪を負っています。扱いによっては即座に処刑  
もやむなしとなりかねないところでしたが、幸いにして大天下御前試合の発起人であり江戸幕府  
大番頭でもある鰐淵様が彼らの事情を汲んで身柄を預かることにしたのです。  
ひとまずそれですぐに処断が下されることはなくなったので、私は胸を撫で下ろしました。人は  
望んで罪を犯す訳ではないのです。憶測ばかりの五人の流人たちの噂がその後しばらくまこと  
しやかに流れましたが、それも何一つ新しい情報が出ないでいるうちに人々から忘れられていき  
ました。  
 
五人は鰐淵家の下屋敷で身を潜めるように暮らしていました。  
私は密かに志奈乃藩嫡子という身分を利用して直に鰐淵様と掛け合い、短い時間ではありまし  
たが娘と会うことに成功しました。このようなことでもなければ私はこの先もずっと市井の中に身を  
置いて剣一筋に生きていたに違いありません。私が娘を、そして彼らを助ける手助けになることが  
あるとするなら、それはきっとこの身分が役に立つと思ったからこそ姑息と知りながらも利用して  
みたのです。  
まさか、あれほど上手く事が進むとは私自身思ってもみませんでした。  
 
あの日の遣り取りは、今も鮮明に覚えております。  
「…嘘、じゃないよな」  
下屋敷の庭の片隅で、スズメという名の娘は私の姿を見て目を見張りました。私は嘘でも夢幻  
でもないと頷きました。こんな時でも言葉が上手く出て来なかったのですが、そんなことは特に  
スズメも気にかけることなく近付いてきて涙ぐんでおりました。  
「アンタ馬鹿だよ…アタイなんかにわざわざ会いに来るなんて」  
私が誰でどんな身分であるのか鰐淵様から話は聞いていたようで、スズメは最初に見た時より  
随分しおらしい様子でした。身に纏う着物も年相応の娘らしく愛らしい姿をしておりました。  
「いずれお殿様になる御方なんだってねえ…それだけで身に余るよ。でも、ありがとう」  
私は懐から幾ばくかの金銭で買った饅頭を二つ取り出し、スズメに一つ与えました。そのまま  
庭の隅に並んで、お互いに何も言わずに饅頭を食べました。口下手にも程がある私ですが、  
その時は何となく余計なことは言わない方がいいような気がしました。許されたわずかな時間  
共にこうして静かに過ごす以外に何が私たちにはあったでしょう。  
やがて饅頭を食べ終わったスズメは、ちらちらと所在なげに私や庭の木々を眺めながら何かを  
言いたげにしていましたが、やがて膝の上に投げ出していた私の手に自分の手を重ねてきました。  
女の手は冷たいものだとばかり思っていましたが、その手はとても温かいものでした。  
「美味かったよ、それに…会いに来てくれてありがとう」  
私はその手にもう片方の手を置きました。スズメは急に泣き出しそうに顔を歪めてから、わずか  
に顔を伏せ、それから切ないぐらい綺麗な笑顔を見せてくれました。  
「アタイ、今日のことは忘れない」  
「私も忘れぬ」  
その言葉は、自分でも不思議なぐらいするりと口から零れました。その途端にスズメの頬に涙が  
伝い落ちてきて、隠そうとでもするように一瞬だけ唇が重なりました。  
「じゃ、さよならっ」  
まるでスズメが大空に飛び立つように、その愛らしい姿はあっと言う間に屋敷の方に消えていき  
ました。一人残された私は一口分食べ残していた饅頭を片付けた後、しばらくそこに座っている  
しかありませんでした。  
 
うさぎ道場が講武館に勝ってから程なくして、私は国に帰ることを決めました。私には望む道とは  
別に、私にしか成し得ないことがあると悟ったからです。藩の嫡子として生まれたのであればその  
運命の通りに滞りなく生きることもまた大切なことであると。  
やがて世の中が目まぐるしく変わっていって藩体制そのものが廃止された時も、その思想は大変  
に役に立ちました。私は常に補佐的立場にいた弟と共にしゃちほこ財閥を興し、家臣は全て社員  
として登用することを選択しました。この莫大な人材がそれぞれに才を伸ばして結果的には事業を  
助け、大きく躍進させることになったのも、根底にあったその思想ゆえでしょう。  
 
うさぎ道場とは離れる結果になりましたが、師や千代吉、奥様の実兄であり同門の摂津正雪氏  
との親交は今なお続いております。剣を捨てたとはいえ、師の思いをこうして受け継いでいける  
私はつくづく幸せ者だと痛感している次第です。  
 
五人の流人のその後ですが、世の中が激動の時代を迎える頃に沙汰が下されました。  
旧態依然とした侍社会の中に身よりもなく投げ出された子供たちにとって、獣のように生きること  
しか選択の余地はなく、その結果として罪を重ねることになった。まだ若いことでもあるし、きちん  
とした法の下でなら更生も可能であろうと判断されたようです。  
鰐淵様の温情によって五人はそれぞれにしかるべき家の養子となり、常に保護観察者が付き  
はしたものの普通の暮らしは送れるように最大限の配慮がなされました。  
 
時代の波に乗って事業の多角的な経営にも成功し、それぞれの分野の経営体制が完全に整備  
されて落ち着いた齢三十の時に私はようやく妻を迎えました。  
みすずという名の、本間家の遠縁にあたる侯爵家の令嬢です。  
妻はあの哀しい目をしたスズメに良く似ていましたが恐らく他人の空似でしょう。私たちはお互い  
にあの日の再会のことを口に出すことは決してありませんでした。夫婦の仲は師を見習っており  
ましたので円満であったと自負しております。  
私たちの間に子は成せませんでしたが、弟夫婦の息子を一人養子に迎えました。いずれ私が  
世を去る時に全ての事業を譲り渡すつもりであり、今は経営の現場で充分な経験を積ませている  
ところです。  
 
これは誰にも語ったことがありませんが、私が独りよがりな剣の道を捨てて本間家と事業の道を  
選んだのは師を見習ったからに他なりません。ただし私は至って不器用でして師のように剣を  
極め家も妻も守ることは出来ないと思いました。  
ですから事業一本に絞ったのです。事業を拡大させて社員共々生活を安定させれば、迎えた妻  
にも不自由をさせなくて済むからと。  
それが自分の生きる道を模索して散々好き勝手をしてきた私の、最後のわがままでした。  
侯爵家との縁組が相整った日、弟はしばらく奇妙な顔をしておりました。みすず嬢がどこかで見た  
娘に似ていたからでしょう。しかし所詮は他人の空似です。  
 
私のこの人生が他の方々にとって参考になるかどうかは定かではありません。ただ、このように  
結果的には好き放題をして生きた者があの時代にもいたことを、こうして思い出すままに書き留め  
ておく次第です。  
さて、まだ書き尽くしたとはいえませんが、ひとまずはこの駄文の筆を置きたいと思います。  
 
本間 魯山  
 
 
 
終わり  
 

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