揚州に残りたいです、と言うと玄徳さんは驚いたが最終的には私の意志を尊重してくれた。
「ごめんなさい。玄徳さんの力になることが出来なくて…」
居場所の無かった自分を受け入れてくれたのに、恩を返すことも出来ずに離れる選択をすることが申し訳ない。
視線を落とすと、ふわり、と頭に懐かしい感触。
大きな手でくしゃくしゃと頭をなでられると、自分が小さな子供になったようで、くすぐったくて落ち着かなかった。
「おまえが居場所を見つけることが出来たのなら、素直に良かったと思うぞ。揚州はいい土地だし、仲謀殿は力のある方だ。
安心してここに居ると良い」
穏やかな言葉に顔を上げる。
私を見る玄徳さんの目は優しかった。
柔らかく微笑まれると、胸が軽くなる。
(やっぱり、お兄さんみたいだな。玄徳さんの言葉は安心する)
「それから、なにかあったら、いつでも玄徳軍に戻ってきてもいいんだぞ。オレ達はいつでも歓迎するからな」
「・・・・・あ、りがとうございます」
こんな時代、一度離れてしまえば、どうなるのかなんて誰にも分らない。
この優しい人の手を自分から離してしまうのだと思うと、それが自分の選択だとしても、なんだか泣きたくなった。
ゆっくりと岸を離れた船は長江を上る。
次第に小さくなって行く船影を見送りながら、私は溢れてくる涙を必死で我慢していた。
(元の世界へ帰らずにこの世界に残ることも、玄徳軍に帰らずに公瑾さんの側に居ることも、私が選んだ・・・・・
寂しくても、泣いちゃ、ダメ)
いくらそう言い聞かせても、胸の中で荒れる波は治まらず、心細さは募るばかり。
「なんて顔をしているのですか」
「公瑾さん」
振り返ると、公瑾さんが立っていた。不機嫌そうな、心配そうな、何か言いたげな顔。
「なぜ、一人で我慢しているのですか。あなたを引き止めたのは私なのですから、不満があれば私に言いなさい」
「不満なんて……大丈夫、です。こんなの、今だけですから。公瑾さんを困らせるつもりは、無いんです」
(心配させちゃ、いけない。今はちょっと感傷的になっているだけで、公瑾さんの側に居たい気持ちは変らないんだから)
直ぐに笑えるから、安心して欲しいと、笑顔を作る。上手に笑えているだろうか。
「――あなたは」
ふいに強い力で引き寄せられ、気付いた時には公瑾さんの腕の中に抱きしめられていた。
「あなたは、いろいろ無防備すぎます。もう少し自覚を持っていただきたい」
肩を掴む公瑾さんの手に力が篭る。二人の間に、少しの空間も許さないというようにきつく抱かれた。
「自覚?」
「先ほども、玄徳殿が触れることを許していた。……あなたは、私のものではないのですか」
余裕の無い声で囁かれ、耳元に公瑾さんの吐息が掛かって身体が震えた。
公瑾さんの熱い息に、強い腕に、体温が上がる。くらくらと眩暈がしそうだ。
自分の身体さえ支えられなくなりそうで、公瑾さんの背中に腕を回して衣を掴む。
「む、無防備ってなんですか。……あ、の、玄徳さんが頭をなでてくれたのは、玄徳さんのくせ? みたいなもので……
私が頼りないから、子供扱いしてるだけだと思いますよ?」
掠れそうになる声で、説明する。玄徳さんは、玄徳軍しか頼るところのなかった私を知っているから、
心配してくれているだけなのに。)
「玄徳さんはお兄さんみたいな感じで……私の好きな人は、公瑾さんだけです」
「……では」
少し力を緩めて、公瑾さんは私の顔を覗き込んだ。視線を逸らすことを許さない、強い光が公瑾さんの瞳に浮かんでいる。
炎のように熱く揺らぐ光に、呼吸さえままならず吸い込まれそうになる。
「では、あなたにこのように触れることを、他の人間に許してはいけません――」
最後の言葉は、私の唇に吸い込まれた。
私は思わず瞼を閉じてしまった。
暗闇の中、公瑾さんだけを感じる。
強く押し当てられた公瑾さんの唇が熱い。
ペロリと上唇を舐められた感触に、思わず身を引こうとしたら、背中に回された腕がそれを拒む。
角度を変えて何度も啄ばむような口付けと、どちらのものともいえない熱い息がたまらなく気持ちいい。
身体中が心臓になったみたいに、ドクドクと心臓の音が響いていて、うるさいくらいだった。
公瑾さんが好きで、幸せで、幸せすぎて切なくて、思わずため息を漏らすと、薄く開いた唇から、舌がそっと入ってきた。
私の舌を絡めとり、強弱を付けて吸われる。自由に口内を蠢く舌の感覚に翻弄され、ただ受け止めるだけで精一杯だ。
歯列を舐められ、初めての感触に思わず上げてしまった。
「……ぁ」
自分が出したとは思えない甘えるような掠れた声。恥ずかしくて、公瑾さんの反応が怖くて思わず目を開ける。
直ぐ近くに公瑾さんの顔。少し上気した頬。上がった息。公瑾さんの瞳には情欲が揺れていた。
男の人の、そんな艶かしい視線を受けたのは初めてで、少し怖いような、もっと見たいような。
自分の中に、簡単には消すことの出来ない熱の塊が生まれたことに気付く。
(心臓、壊れそう)
浮かされたような衝動を、どうにかして欲しい。
「……ほら、無防備じゃないですか」
眩しいものでも見るように、目を眇めて公瑾さんは言った。
「こ、これは公瑾さんだから、です。公瑾さんじゃなきゃ、こんなこと」
大人しく腕に収まるのも、受け入れるのも、全て公瑾さんだけ。
(恥ずかしいけど、公瑾さんだから。大好きな、大切な人だから)
熱の篭った視線から逃れたいのに、目が離せない。
「それに、やっぱり無自覚です」
「?」
――その言葉や表情が、どれだけ私を煽っているのか、あなたは判っていない。
囁くような声はよく聞き取れなかった。
もう一度言って貰おうと見上げると、公瑾さんは痛みを我慢するような顔をして、それから何かを振り切るようにため息をひとつ。
「そろそろ城へ戻りましょう。これから風が出てきます。いつまでもこんなところに居ては、身体が冷えるだけです」
公瑾さんは腕を解き、そっと私から離れてしまった。
遠ざかる熱が、寂しい。
(もしかして、傷がまだ痛むのかな。それなら、あんまり公瑾さんにくっついたらいけないよね。……我慢しないと)
「そんな顔をしないでください。これでも、もうあなたを傷つけたくないと思っているのですから」
そう言うと公瑾さんは私に手を差し出した。
「城までの道はあまりよくありません。転んで怪我でもしては大変ですので、私の手を握っておいてください」
「? ここまでは一人で来たので大丈夫ですよ」
確かに舗装されていない道だけれど、まだ明るいし、ただ歩くだけなら多分問題ない。
それに、怪我が痛むのなら、私のことを気にしない方がいいんじゃないかと思たのだ。
なのに、公瑾さんは面白くなさそうに眉を寄せてしまった。
「人の厚意はありがたく受けておきなさい。さあ」
拗ねたみたいな、むきになったみたいな言い方がなんだかおかしくて、私は大人しく公瑾さんに甘えることにした。
元の世界に戻らずに選んだ暖かな手。
この手を離すことなく、ずっと側に居られるように。
この願いが繋いだ手から伝わればいい、と思った。