7月。  
夏休みの足音が聞こえてくる時節、蝉の声よりも早く、ぼくらのもとに届けられたのは、1枚の小さな紙切れだった。  
 
「進路調査票」  
・ 希望進路  
1、 進学  
2、 就職  
3、 その他  
・ 具体的な進路内容について――――  
 
 この難物の登場に、クラスはちょっと浮ついた空気になる。  
「どうしよ、あんま考えてねえんだけど」  
「やっぱ進学っしょ、妥当なトコじゃ」  
「どこらへん? やっぱ音大とか?」  
「バーカ。六私の下あたりで、適当なトコかな」  
――。  
 休み時間ともなると、そんな会話が耳に届く。  
「ナオはどうするん?」  
 寄ってきた友人に訊かれて、ぼくはそっと首を振った。  
「分かんない。ぼくもあんまり考えてない」  
「またまた。ナオは親父の後継ぐんだろ?」  
「やっぱ、『ナオよ、我が一子相伝の評論術、貴様に継げるや否や』とか、そんなノリなわけ?」  
 アイツがそんなのだったら、ぼくも少しは考えたんだろうけど。  
「やっぱ音大だろ。お、ひ、め、さ、ま、と同じ所」  
 からかうように浴びせられた言葉が、鉛みたいに重く沈む。  
 曖昧な笑み――多分、ぼくが浮かべていたのはそんな表情だったろう――で、首を振る。  
「無理。ウチには海外留学の費用なんて出せない」  
「あっ」  
「そっか、お姫様なら、ウィーンとかか……」  
「んだよー、せっかくウィンナー土産に輸入してもらおうと思ったのによぉ」  
「ギャグにしても寒いぞ、それ」  
 真面目な雰囲気が流れてしまったまま、ぼくは休み時間の終わりまでバカ話に相槌を打ち続けた。  
 この数日、ずっとこんな調子だ。  
 騒ぐわりには、実のある話が全然出ない。  
 結局、みんな不安なんだろう。高2の一学期、まだ先が長いと思っていた高校生活の終わりを、急に予告されて。  
将来を考えておけと、正面からきっぱりと告げられて。  
 
 なぜそんな事が分かるかというと、ぼくも不安だったからだ。  
 
およそ進路相談という局面ほど、哲郎が親として役立たずになるときは無いのではないか。  
 何も話さずとも、それは普段の言動だけで、十分に分かることだ。  
 しかしそうはいっても、腐っても親は親。  
 扶養者をさしおいて、進路をぼくの一存で決めることなんて出来ない。秋には三者面談  
もあるだろうし。  
「おーう! 来るべきものが来たって感じだねぇ」  
 帰宅後、渋々と紙を見せると、自転車で猫の尻尾を踏んづけたみたいに、哲郎はオーバー  
に飛び上がった。  
「とりあえず、おれから言えるのは1つだけだ。『もうお前に教える事は何も無い』」  
 はええよ。  
「もうちょっとさ、言うことあるんじゃない?」  
「や、実際ナオくんだって、今さら聞くことなんて無いだろ? おれの生き方なんて参考に  
出来んだろうし。むしろおれがやり直してぇな。親父世代からでも人生やり直せるもんかね?」  
 ゼブラァー、キィック! とか叫んで脚を振り上げ、哲郎は膝を釣って、悶絶して床を這いずり回った。  
「た、たたっ、ナ、ナオくん、手ぇ貸してくれる?」  
 頼むから、もう口を開かないでくれ。  
 無言で背中を向けた――その背中に、哲郎の素の声がぶつかる。  
「まあ真面目な話、好きにすりゃいい。学費は用意してあるから、変な気は使うなよ」  
……お金の話だけかよ。そりゃ、それだって大事なことには違いないけど。  
「あ、でも音大だけは薦めねえぞ。親の欲目から見ても、おまえ演奏の才能は無いしな。  
演奏しないんだったら、音大なんて行く価値ないし」  
 余計な、けれど的確な一言を付けることだけは、哲郎は忘れなかった。  
返事をせず、ぼくは台所へと入る。  
「……気持ちってのは、厄介だわな」  
声が追いかけてくる。  
父親とは思えない、気の抜けた、くたびれた男の声。  
「一緒に居たからって、必ずしも長続きするモンじゃない。おれと美沙子を見てりゃ、よく分かるよな」  
まな板を引っ張り出し、冷蔵庫を開けながら、哲郎の声を頭から締め出す。  
 夕食のメニューを、自己流レシピから検索する。  
「ま、結局はナオくんのやりたいようにやりゃいいと、おれは思うよん。自分で決めて後悔するのと、他人に従って後悔するのとじゃ、やっぱ違うと思うし」  
――やはり、この父親は中々好きになれない。色んな意味で。  
 
「あたしはとりあえず、進学かな」  
 翌日の金曜。  
昼休みに進路の話を向けてみたところ、千晶はあっけからんと、そう答えた。  
「やっぱ、まだまだ遊びたいし、いろんなこと知りたいし」  
 カレーパンをかじりながら、千晶は椅子にそっくり返る。  
千晶の机に2人で食事を広げる形で、ぼくらは向かい合って座っていた。  
 ときどき自作の弁当に向けられる、物欲しげな千晶の視線に気付かないふりをしながら、  
ぼくは質問を続ける。  
「将来的なこととか、考えてるわけ?」  
「んー、やってみたいの、あるといえばあるんだよね」  
 コーヒー牛乳のストローを口にくわえて、ブラブラと振りながら、千晶は教室の天井を  
見る。って、バカ汚いな、雫が顔に飛んできたぞ。  
「あのさ、スポーツトレーナーって、なんかあたし向きって気がしない?」  
「ああ、なるほどね」  
 確かに千晶にとっては天職かもしれない。体育会系でシゴキ好きとくれば。  
 去年の体育祭では、ぼくもあいつも、そうとうシゴかれたっけ。  
「ナオは?」  
「うーん、まだ考えてないんだよね」  
 言いながら、ぼくは自分の机に掛けた鞄を意識する。  
 最初に配られた日からずっと、進路調査票はなんとなく持ち歩いていた。  
 進路についてあまり考えたくはないんだけど、なんだか手元に置いておかないといけない  
ような気がして、しょうがないのだ。  
「おっそいなぁナオ。どうせあんたも就職って感じじゃないから、進学でしょ。スパッと決めちゃえ、スパッと」  
 確かに、現実的には進学だろう。  
 でも、ぼくはどこにいけばいいんだろう。何を学んでいけばいいんだろう。  
 そんなことすら、ぼくは決めかねている。  
「おおよそのところも決めらんないの? 音楽関係とかさ」  
 たとえば、音大とか。……ぼくには志望する理由があるんだろうか?  
 哲郎に言われるまでもなく、自分に演奏家は無理だということはよく分かっている。  
部活のバンドとは、次元が違う。  
 まず技量。  
 そしてプロ意識。ただ好きだからとか、仲間と一緒だからとか、そういう理由で楽器  
や指揮棒を手にしていい世界じゃない。  
 必要なのは、自分の音と、他人の音を受け止め、乗りこなす感性。  
 ある意味で、ぼくらのバンドとは対極に位置する世界。  
 自分の音だけを武器に、常に死闘を演じ続けなきゃいけない世界だ。  
 アマだからこそ、今のぼくらの音楽は楽しい。  
 多分、千晶もそれは分かっているんだと思うけど。  
「……哲郎に言わせれば、『演奏しないんなら、音大に進む価値はない』、だそうだよ」  
「もー、なに言ってんの! ナオから音楽とったら、なにが残んのよ!」  
 痛い言葉だ。  
 ぼくから音楽をとったら、何が残る?  
 もしそうなったら――ぼくがあいつのそばにいられる理由は、あるんだろうか?  
 
 その日の部活は、エフェクターの故障で軽い練習に留まった。  
 軽いといっても、基礎の音出しだけでも、結構な運動量になったけど。  
 いつもより少し早く練習がひけて、空いた時間に、ぼくは屋上に出た。  
 水彩のような淡い夕焼けが、コンクリートを色付かせ、長々と給水塔の影を浮き立たせていた。  
 生ぬるい初夏の風。  
 眼下の街の眺めは、去年とさほど変わらない――ここから見る分には。  
 去年の春、ぼくは今の部室にしている部屋を追い出され、ここで1人たそがれていた。  
 あれから1年と3ヶ月。  
 自分でも驚くくらい、ぼくの周りは変わった。そして多分、ぼく自身も。  
 ――もちろん、いい方向にだ。  
 だけど、世の中というのは決していい方向にだけ変わっていくものじゃない。  
 誰もが知っていて、それでいて、きっと誰もが、自分にひきつけて考えたくないこと。  
 ぼくは――。  
「悩み事かい? 少年」  
 既視感を覚える情景。  
 背後からかかった声に、ぼくは少し笑う。  
「ん? どうかした?」  
「いえ、この場所にくると、いつも先輩とこういうやりとりになるなって」  
 振り向いた先には、神楽坂先輩の黒い瞳。  
 黒髪を風になびかせ、先輩は優雅に微笑む。  
「きみと私にとって、ここはそういう場所だ。違う?」  
「あながち否定できないのが、悔しいですね」  
 そうしてしばらく、ぼくは黙った。  
 先輩も、無理に喋らせようとはしなかった。  
2人並んで、フェンスに手を突いて、町を見る。  
夕焼けは暗い紫に沈み始め、徐々に影が強くなってきている。  
下校時刻まで、あと20分くらいだろうか。  
やがて、ぼくはポツリと訊いた。  
「――先輩、卒業後はどうされるんです?」  
「私? なんだと思う?」  
 悪戯めいた笑いに乗せられ、ぼくは動きの悪い頭を、ギリギリ回す。  
 大学でバンド――これは無いな。『ぼくたちの』バンドを大切にしている先輩に限って。  
そもそも進学なのか?  
……分からない。この人なら就職とか、海外留学とか、何でもありそうな気がする。  
「その、留学とか?」  
「へえ、なぜ?」  
「音楽と革命のために、より見聞を広める、とか」  
 町並みに視線を下ろしたままで、先輩は、フフッとおかしそうに笑った。  
「それも面白そうだとは思ったんだけどね。留学すると、きみらとのバンドは難しくなりそうだ。やれるところまでは、私たち皆で行きたいから」  
 そう聞いて、少し嬉しくなる。  
 実力的には、先輩は多分、今すぐメジャーデビューしても十分にやっていける。  
 それどころか、一気にトップシンガーに上り詰めることだって、不可能じゃないと思える人だ。  
 その点では、あいつと――真冬と同じ。ぼくなんかより、いくらでも先にいける人。  
 だからこそ、仲間として大切にしてもらえるのは、素直に嬉しかった。  
 
「――でも、それで結局、先輩の進路はどんなのなんです?」  
「進学。とりあえず文系を考えてる。文学とか哲学とか、インスピレーションに富んだ分野だと思わないかい」  
 こともなげに答えて、先輩はぼくを見つめる。  
「それで、少年が本当に訊きたかったのは、私の進路?」  
「……」  
 あいかわらず鋭い人だ。  
 いや、この場合は、ぼくの事情が見え見えなだけか。  
「その……ぼくの進路の参考にしようかなって」  
「本当にきみが自分の進路で悩んでいるのなら、私も相談に乗りようがあるのだけどね」  
 ドキッとさせる言葉を放って、先輩は視線を空に持ち上げる。  
 さらっと流れる髪が、一瞬だけその横顔を隠した。  
「もし私の言ってる事に心当たりがあるなら……話さなきゃならない人は、他にいるんじゃないかな?」  
 ――そのとおりだ。  
 先輩の言うとおり、今抱えている不安を消すためには、ぼくには誰よりも先に、話し合わないといけない相手がいた。  
「同士蛯沢は、明日には帰ってくるそうだね」  
 悪戯っぽい笑いを浮かべて、先輩はぼくを見た。  
「今回の海外公演は長かった。ああ、早くあのかぐわしい髪を味わいたい」  
「変態度数が上がってません? ってか、冗談に聞こえなくなってますって」  
 うんざりと首を振るぼくを残し、先輩は入り口の扉に向かって歩き出す。  
「きみの先輩として出来るアドバイスはここまで。…我ながら、それが残念でならない」  
 少しだけ切なげな先輩の声が、屋上に残された。  
 ドアの閉まる音が耳の奥に消えてから、ぼくはもう一度景色に目を転じる。  
 茜色に焼けた街並みは、さっきより少し、影が濃くなっている。  
 ――怖い。それがきっと、今のぼくの率直な気持ち。  
 今までにだって、すれ違いがあったり、ケンカしたり、お互いの場所が見えなくなってしまうことは、  
幾らでもあった。  
 でも今度は、心の問題だけじゃない。  
 現実の距離と、社会的な立場の隔たり。  
 そして何より、ぼくら自身の決心が、互いをバラバラにしてしまう。  
 プロのピアニストとして生きていく事――たとえそのきっかけが、ぼくのためだったとしても、  
彼女が、真冬が自分で決めたことなら、それはもう、真冬自身の人生だ。  
 ぼくの人生に付いてくる、おまけなんかじゃない。  
 自分の道を歩み始めれば、きっと必然的に、ぼくらは離れていくだろう。  
 この先、再び交わる事があるのかどうか。それには何の保証も無い。  
 そしてもしも、もしかしたら、交わる事もあるかもしれないけど――結局離れ離れにならないとは、限らない。  
 ぼくや彼女の両親。先輩がかつていたバンドチーム。  
 例証には事欠かない。人はある時、簡単にいなくなる。会えなくなる。  
 それが怖いから、ぼくは自分の進路を決めかねているのかもしれない。  
 
 ――それでも、どうせいつか、避けては通れない。それは分かっている。  
 
 日が沈みきる前に、ぼくは屋上を後にした。  
 
 日曜の夕方になって、自分のうっかりに気が付いた。  
 進路調査票、提出期限は月曜だったのだけど、毎日鞄に入れて持ち歩いていて、学校に忘れてきてしまったのだ。  
 たとえ進路が決まってなかったとしても、未定なら未定で、一度提出しなければならない。――保護者の印鑑付きで。  
 そんなわけで、ぼくは夕方の駅に駆け込んで、電車に飛び乗った。  
 学校に付く頃には、完全に日は落ちていて、校舎は周囲の街灯が作る影に沈んでいた。  
 ふと見上げてみると、藍色の夜空に上弦の月がひとつ、ぽつんと、なんだか寂しげに浮かんでいる。  
 裏門から入り、警備室の守衛さんに挨拶して、中に入れてもらう。  
 一階の廊下は、まるで古井戸の底みたいに暗く、しんと静まり返っていた。  
 光源になるのは、火災報知機の赤いランプや、非常口を示す緑の誘導灯だけ。  
 断片的な光の中に、ロッカーの影なんかがぼんやり浮かんでいる。  
 他に物音がしないからだろうか、自分の足音が、やけに響いて感じられた。  
 ときおりリノリウムの床に、内履きのゴムが強く擦れてキュッと鳴ると、ぼくは自分の出した音に  
立ちすくむ。直後の静寂は、耳に痛いほど。  
 夜の学校が好きな人間なんて、ホラー好きや廃墟マニアの類ぐらいだろう。さしあたって、ぼくはその  
どちらの人種でもない。  
 闇の中から感じる何かの気配――大概はただの錯覚だ――にびくびくしながら、ぼくは階段をそっと上る。  
 教室までたどり着き、自分の机を調べると、無事、調査票が出てきた。ほっと息をつき、引き返そうとしたところで――  
「――ピアノ?」ぼくは気付いた。  
 雨音のように微かな、鍵の調べ。  
 が、幻聴じゃない。確かに、どこかからピアノの音が聞こえてくる。  
 随分とゆっくりした、穏やかなテンポだ。  
 一瞬、学校の怪談かと本気でびびりかけたけど、すぐに思い直す。  
 これは現実の音だ。それに、おどろおどろしい怪談にしては、曲の感じが随分と優しい。  
 音をたどって廊下を端へと進んでいくと、だんだんと調べがはっきりしてくる。  
 3/4拍子の、ゆるやかな音の流れ。  
 子守唄にも似た調子は、コーヒーに落としたミルクみたいに、黒々とした闇を和らげていくようだった。  
 そこには不安や恐怖を呼び起こす要素は、一切ない。  
 非常灯だけが灯る廊下が、月の光に照らされた、夜の浜辺のように思えてくる。  
 サティの『ジムノペディ』、第一番。  
 クラシックの定番を10挙げろと言われれば、多分必ず挙がる名前。テレビ番組やゲームとかでも使われた  
ことのある曲だから、題名が分からずとも、曲を聞かせれば「ああこれか」という人は多い――そんな曲だ。  
 音楽準備室の、少しだけ開いた扉から、その調べは漏れ出ていた。  
 明りのついていない真っ暗な室内からは、音だけでなく、確かに人の気配がする。  
 予感があった。  
 戸口に立つと、ぼくの気配が伝わったのだろう、ピアノの音が唐突に途絶える。  
「……真冬?」  
 呼びかけに、息を呑む音が返ってくる。  
 扉を開け、室内に足を踏み入れる。  
 窓から差し込む、外の街灯の反射と、月の光。  
 青ざめた準備室の中は、演奏の余韻があぶくのように漂うだけで、まるで深海のようだ。  
 ピアノの傍に立ち上がった細い人影は、月の生み出した幻みたいで――。  
 
「な、なんでっ、ここにいるの!?」  
 甲高く震えた声が飛んでくる。  
 でも、それはぼくだって同じ気持ちだ。  
「た、たまたま忘れ物とりに来てたんだよ。真冬こそ、日曜だってのに、どうしてこんなとこに。  
昨日帰国したばっかだろ?」  
 こっくりと、ぎこちなく頷く影。  
 取り合えず電気をつけようかとぼくは思い、そしてなぜか躊躇した。  
 雰囲気というのか、今この部屋にある影と静寂を追い出してしまうのが、  
なんだか憚られてしまうのだ。  
 今、ぼくと真冬の間にある空気。電気をつけてしまうと、魔法が解けるように  
それが失われてしまい、ぼくらはもう何も話せなくなるんじゃないか。  
 こんな事を思うのも、真冬があえて電気を消したままで『ジムノペディ』なんて  
演奏してたからだろうけど。  
「っていうか、ちょっと意外。『ジムノペディ』なんて、真冬のイメージに合わないっていうか」  
「……考え事を、したかったから」  
 それでか。  
 確かにこの曲は、落ち着いて考え事をしたいときには、悪くないかもしれない。  
「けど、わざわざ夜の学校にくるなんて――」  
「家だと嫌だったから」  
 言いながら、真冬は鍵盤のふたを閉じた。  
 そういや、エビチリのいる所じゃ弾きたくないんだっけ。  
「パパは、レコード会社の人と打ち合わせがあるから、今日はいない」  
 ぼくの心を読んだように、真冬が先んじて言う。  
「パパは関係なくて……家じゃないとこで、考えたかっただけ」  
「そう……」  
 そんな悩みも――そりゃ、あるだろう。  
 去年の二学期の終わりごろから、ピアニストとしての活動を再開した真冬。  
 復帰当初は、やはり口さがない記者たちに、随分とあることないこと書かれた。  
 そんな時期を過ぎて、最近は少し安定してきたみたいだけれど――辛くないわけ、ないよな。  
「あ、あの」  
 上ずった声をあげながら、真冬が一歩、こちらに踏み出す。  
「昨日、千晶と電話で話して」  
「うん?」  
 口ぶりからして、バンド絡みの事じゃなさそうだ。なに話したんだろう。  
「進路調査、始まってるって」  
「あっ、うん」  
 途端に、ぼくの返事は歯切れが悪くなる。真冬はさらに一歩、こちらに踏み出して言う。  
「あ、あなた、まだ全然、考えてないって」  
「うん、まあ……」  
 参ったな。千晶のヤツ、なんだってそんな話を――しかもよりによって、真冬なんかに。  
「――どうして?」  
「どうして、って……」  
 言いながら、ぼくの足は無意識に一歩、後ろへ下がっていた。  
 
 口を開くたび、真冬の足は少しづつ前に出て、いつしかぼくに迫る形になっている。  
 影になっていた真冬の姿が、はっきりと浮かび上がる。  
 腰まで伸びた、長い、豊かな髪。  
 栗色の髪は、細い月光の下で、透き通った銀色に映えていた。  
 青い瞳は、海の底の秘密の宝石みたいに、じんわりと光を集めている。  
 張り詰めた表情を切り崩すようにして、真冬は言葉を搾り出す。  
「音楽じゃ、ないの?」  
「いや、演奏家とか、ぼくには無理だし。それなら……」  
「そうじゃない。演奏とかの話じゃなくて――直巳は音楽を、やめるの?」  
 静かに向けられる言葉に、ぼくはただ、唇を噛むだけだ。  
 分からない。音楽を捨てることなんてできるんだろうか?  
 ――いや、それは無理だ。でも。  
「別に、音大とかに進むだけじゃないだろ。これまでだって、趣味で  
音楽漬けだったし、これからだって――」  
 言葉が自然と、尻すぼみになっていく。  
 部活を始める前も、ぼくはそんな理由をたてて、のらくらとしていた。  
 どこか言い訳くさい――自分を誤魔化すような理由。  
 くすぶっている自分が、奥のほうに隠れている。  
 音楽の道に進まない――それならぼくは、なにをやりたいんだ? やりたいことがあるのか?  
 いや、それよりもぼくが気にしているのは。  
「あ、あなたの進路だから、わたしがどうこう言えることじゃない、けどっ」  
 肩を怒らせて、真冬がまた一歩、踏み込んでくる。  
「わたし、直巳には音楽を続けてほしい」  
「ど、どうして?」  
 なんで、そんなにこだわるの?  
「どうしてもっ」  
 腹をすかせた野良猫みたいな目つきで、真冬は一歩一歩と近づいてくる。  
 っていうか、今にも噛み付いてきそう。  
 ……冷静に考えてみると、真冬は少しおかしい。ぼくの進路なんかに、なんでこんなにこだわるんだ。  
「――ぼくは、真冬と違うよ。音楽で生きていけるほどの才能なんて無い。バンドの方を言ってる  
なら、今までどおり続けていけると思うけど――」  
「バンドがなかったら」  
 彼女の愛器のストラトを思わせる、鋭い声が、ぼくの言葉をばっさりと断ち切る。  
「バンドじゃなかったら、あなたの音楽は……わ、わたしの音楽は、いらないの?」  
「い、いや?」  
 ゾクッとするような視線。  
 山猫に睨まれたみたいな、殺気だったプレッシャーが吹き付ける。  
 ありえない。真冬が、こんな目をするなんて。  
 信じられない。彼女の言葉に、こんなに動揺してる自分がいるなんて。  
「あなたが言ったクセに。わたしのピアノが聴きたいって。手が動かないなら、歯で弾け  
なんて言って。なのに、あなたは――」  
「ま、真冬?」  
 ガタンと音をたてて、ぼくの背中が扉にぶつかった。  
「ときどき私の演奏を聞いて、満足して、それであなたは終わりなの? わたしはそれだけのためにっ、  
そんなことのために戻ったんじゃ――!」  
 
 そこまで言って、言い過ぎに気付いたように、真冬は黙り込んで下を向いた。  
 動悸が激しくて、ぼくはまともに物が考えられない。  
「――ぼくが、音楽を続けてると、真冬はいいの?」  
 こっくりと、小さな頭が上下に揺れる。  
「直巳がいてくれるから、わたしは弾ける。音を通して、直巳と繋がってられるからって」  
「それは――」  
 今だって同じはずだ。バンドとピアノ。二つの音楽で、ぼくらは結び付いている。  
 ……そう、音楽だけで。  
 それ以上のものは――。  
「ごめん、なさい」  
 自分の吐息をかみ殺すようにして、真冬は吐き出す。  
「本当は、不安なの。音楽が無いと、わたしと直巳を繋ぐもの、何にもないから」  
 顔を伏せて、真冬は言う。その表情はよく見えないけど、きっと涙目になっているんだろうなと、  
経験的に思った。  
「直巳が音楽をやめて、バンドも、いつかなくなって――そしたら、わたしと直巳は」  
「――真冬」  
 頭の奥がグラグラ熱い。  
 ずっと思っていた。  
 音楽だけで、ぼくらは繋がっていた。  
 だけど、彼女は世界的なピアニストで、ぼくは単に一人の――そう、ファンに過ぎない。  
 バンドも同じ。練習を重ねて上手くなったつもりでも、ぼくと彼女の技術差は、未だ大きく隔たっている。  
 皆はぼくを必要だといってくれるけど、ぼくはいつだって不安で、自信がない。  
 今、ぼくと真冬は一緒に居られる。一緒の学校で、一緒の部活で。  
 それはきっと、今だけの、奇跡みたいな時間。  
 卒業して時間が経てば、バンドもきっと、今みたいにすぐ集まるのは、難しくなってくる筈だ。  
 そのとき、ぼくと彼女を繋ぐものは、なにもない。  
 きっと、CDに録音されたピアノの音だけを通じて、ぼくは彼女を感じるのだろう。  
 言葉も届かず、触れる事も出来ない距離から。  
「……ぼくだって、嫌だよ」  
「え?」  
「真冬と離れて、ただ遠くから、演奏を聞くだけで自分を満足させて、そんなの、本当は嫌だ」  
驚いた猫みたいに、真冬の目が丸く見開かれる。  
「どう、して? 直巳は、私の音楽が好きなだけで」  
「真冬が!」  
 メチャクチャに沸騰した頭で、ぼくは叫ぶ。  
 音楽だけ? やっぱりそんなふうにしか、真冬はぼくを見てなかったのか。  
 怒りに似た、けれど少し苦い、名前の分からない感情が、ぼくの胸の中でうごめく。  
 ――こんなふうにグダグダするのは、もうたくさんだ。  
「女の子としての真冬もっ、ぼくは好きなんだ! 音楽がなくたって、ずっと一緒にいたいんだよっ!」  
 ――言っちゃった。  
 白く焼け付いた頭で、ぼくは他人事のように、そう思った。  
 これまでも機会はあったけど、言えやしなかった。  
 でも、もういい。  
 どうせ言わないままでも後悔するだろう。それなら、ケリを着けちゃった方がいいよな。  
 
 感電したみたいに、真冬はヒクッと震えて、止まった。  
 驚き。そしてその次にくるのは――戸惑い? 気まずさ? 嫌悪だけは勘弁して欲しい。  
 だけど、そのどれでもなかった。  
 クシャッと表情を潰して、真冬は静かに泣き出した。  
「ま、真冬?」  
「――カッ、バカッ!」  
 ぎゅっとぼくの右手を両手で抱えるようにして、真冬はしがみついてくる。  
 二の腕に滴る涙が、夏の雨みたいに熱い。  
「ったしが、どれだけっ――っ、――」  
 どうすればいいのか分からず、ぼくは石になったみたいに突っ立つだけだった。  
 嫌じゃ、ないの?  
 もしかして――いや、そんな筈――。  
「っき、ったんだから」  
 嗚咽の下から、言葉が届く。  
 自分の耳を疑いながら、ぼくはもう一度、その言葉を聞き取ろうとして――  
「好きだったんだから! 直巳のこと!」  
 今度はぼくが、雷に打たれたように固まった。  
「ずっと、言えなくて……直巳はわたしのこと、なんとも思ってないって……」  
 そんな――。  
 ぼくだって、ぼくの方こそ、真冬はそんな目で見てくれないだろうって、ビクビクしてたのに。  
「あなたは、いつも、いつだって、音楽のことしか言わないし、だからっ、わたしっ」  
「――だって、真冬の周りにはきっと、ユーリみたいにスゴイやつがいっぱいいるんだって思って――」  
 思わず口を付いて出た言葉。  
 だけど、これは失言だった。  
 肘の部分に、突然激しい痛みが走る。  
 見ると、真冬がすごい勢いで噛み付いている。  
 いてっ! 犬歯をたてるなよ! いたいいたい! シャレになんないって!  
「――バカッ、しんじゃえ、直巳なんて、しんじゃえ」  
 額を押し付けて、真冬はぼくの腕を抱きしめる。  
 流れた髪が腕をくすぐって――うあっ、ゾクッとくる。ハンカチでくすぐられてるみたい。  
「音楽ができるとか、本当は関係ない。わたしが好きなのは、直巳だけ」  
 涙の名残を残した声。けれど一緒に吐き出される吐息は、ぼくの産毛を焼くほどに熱い。  
 我慢できず、ぼくはそっと、残った左手を、真冬の細い腰に回した。  
 触った瞬間、少し震えたけれど、真冬は嫌がりもせず、どころか、自分から身を寄せて、ぼくに密着する。  
 服越しに体温が伝わり、身体の奥からじんわりと熱くなってくる。  
 すごい。信じられないくらい、幸せ、だけど。  
 ――なんだか、とんでもない流れになってないか?  
 
「あ、あの」  
「直巳!」  
 強い調子で呼ばれ、ぼくは反射的に背筋を伸ばして、気を付けをする。  
 顔を上げた真冬の目は、まだ潤んでいたけれど、涙の奥により強い輝きが灯っていて、ぼくは  
口先まで出かかった言葉を忘れて見入った。  
 半野良の猫みたいな顔。  
人の事が嫌いじゃないけど、好きだけど、まだ信用しきれない。どうしよう、でも信じたい――  
そんな言葉が、瞳から伝わってくる。  
「直巳……」  
 そっと目を閉じて、真冬が顔をあげる――って、まさか! いや、そんな!  
 ぼくの意識は自然と、真冬のそこに引き寄せられる。  
 細い卵形の顔に、ちょこんと可愛らしく乗っかった唇。  
 ビスクドールのそれみたいに、つやつやと桜色に照り映えて、でも触れたらきっとフワフワで、  
プリッとしてそうな――。  
 ふと、欲望に押し流されて、顔を近づけようとしている自分に気付いて、愕然とする。  
 いいのかナオ、こんなふうに流されて!  
「なお、み」  
 知らない女性の艶かしい声で呼ばれて、瞬間、全身の血が頭に流れ込む。  
 鼻にかかった真冬の声。それはぼくの知っている彼女の声じゃなかった。  
 切なそうな響きが耳を震わせ、ぼくは心臓が飛び出してしまいそうな、もどかしさと、  
変に誇らしげな嬉しさを覚える。  
 いいよ、な。  
 真冬だって、ぼくのこと――。  
   
 触れ合った唇の瑞々しさで、ぼくの頭は真っ白になった。  
 気持ちよかった――のだろうか。そんなことも分からないくらい、いっぱいいっぱいだった。  
 優しい感触の後にきた、真冬の熱い吐息。  
 肺いっぱいに吸い込んで、ぼくはいつぞやのライブ打ち上げの時みたいに、へべれけに酔い痴れる。  
「ンッ、はっ、ま、真冬」  
「ん――直巳」  
 泣き出しそうな、笑い出しそうな、どちらともつかない不思議な表情。  
 クリームの溶けかけたケーキみたいに、しまりがなくて、粘つくようで、けれど、とても甘そう。  
 ウソみたいだ。真冬が、こんな表情をしてるなんて。  
 そしてぼくは――ああっ、むちゃくちゃドキドキしてる。もっともっと、真冬に  
色んなことがしたくて堪らない。  
 
「直巳、ほんとに――ほんとにわたしのこと、好き?」  
「うん、うん! 当たり前だよ!」  
「なら、して……最後まで」  
 ――する?  
 ――最後まで?  
 鼻血を噴くかと思うくらい、身体の中で血が猛るのが分かった。  
 目の前がグラグラ揺れて、そのまま真冬に手を伸ばしかけて――けど、ちょっと、ちょっと待って。  
「だ…め、だよ。もっと、大切、に」  
「今日、大丈夫だから」  
 間近に覗く真冬の瞳。  
 サファイアの虹彩は、ぼくのちんけな理性を焼き切るような強い情熱に輝いて、内側から溶け出しているみたいだ。  
「信じさせて、直巳のこと」  
 衝動的に抱きしめそうになった。  
 が、寸前、ぼくの頭には、エビチリの怒りで赤く染まった顔や、麻紀先生の夜叉みたいな笑顔や、哲郎のニヤニヤ笑いが  
浮かんできて、かろうじて手を止める。  
「だって、その、しちゃったら、真冬とぼくだけの問題じゃなくて、その」  
「他の人なんか関係ない」  
 ――さやさやとした、ぬるい水の流れに落ちたような感じ。  
 真冬はついに、腕から、ぼくの身体へと手を伸ばし、全身で抱きついてきた。  
「わたしは、直巳が一番。他の人の事なんてしらない。パパが怒ったって、雑誌にどんなこと書かれたって、  
わたしは直巳が好きって、胸を張って言える」  
 息が止まる。  
真冬は本気なんだ。ようやく、ぼくにもそれが分かった。  
 ――いや、なんと言ったところで、これは所詮、一時の激情なのかもしれない。  
でも、不確かな気持ちだけを未来の約束にするには、ぼくらはあまりにも幼く、未熟で、自分も相手も、信じられなかった。  
 もちろん、身体を重ねたところで、それは不動の約束なんかになりはしない。でも――  
「……いいんだよね、ぼくで」  
「直巳じゃなきゃ、いや」  
 
 恥ずかしいから、脱ぐところは見ないで、と後ろを向かされる。  
 どっちみち全部見えちゃうのに、なんで着替えの時だけ隠すんだろう。よく分からない。  
 背後で布をたくし上げる気配。  
 ……なまじ見えないからだろうか、シュルッという衣擦れの音がするたび、頬がジクジクと熱くなって、  
心臓はバクバク鳴り始める。  
 終わりを告げられる頃には、ぼくはマラソンでもやったように、すっかり動悸を乱していた。  
「……いい、よ」  
 振り向こうとして、「だめっ!」――ぼくは再び固まる。  
 って、なんで!?  
「直巳も、脱いでくれなきゃ、だめ」  
「え、うっ!」  
 ウソォ!?  
「わ、わたしだけ恥ずかしくて、ずるい」  
 思いっきりうろたえたぼくは、つまづいたように、その場でたたらを踏んだ。  
 生唾を飲み、騒ぐ頭をねじ伏せる。  
 いや、そうだよ――ぼくだって、どっちみち脱がなきゃ……始まらない、よ。  
 震える手で、ズボンのベルトを掴む。  
 頭の中に浮かぶのは、毎日風呂上りに見る、自分の貧弱な身体。  
 うぁ、恥ずかし……なんだか泣きそうになってきた。  
「は、はやくっ」  
 ぼくの百倍は恥ずかしそうな真冬の声に、ようやくぼくは動き出す。  
 ベルトを外し、ズボンとシャツを脱いで、雑にたたむ。  
 緊張に我慢できず、ぼくはトンマな事を口走る。  
「その……見てないよね?」  
「っ! ばかぁっ!」  
 ――下着も何も、全部脱いでしまって、ぼくは本当に丸裸になってしまった。  
 で、どうする、ん、だっけ……。  
「ま、まだ?」  
「あ、いや、うん……いい、よ」  
 息を呑む気配が、背中から届く。  
 意を決して、ぼくは思い切り回れ右をした。  
 
 月の精霊。  
 そんな言葉が、ストンと胸に落ちてくる。  
 青ざめた光に照らされた、真冬の華奢な身体。  
 恥ずかしそうにうつむいて、胸と腰を隠しているけれど、腕そのものが細くて、あまり隠せてもいない。  
 肉付きがいいほうじゃないのは、経験的に知っていた。去年の海水浴で見ているし、トレーニングで、  
ぼくにも担げるくらい軽いのは、分かっていたから。  
 改めて見ると、それは病的な感じじゃなかった。  
 ヨーロッパの美術館あたりにある、乙女の彫像みたい。  
 匠の指から生み出された、繊細美の極致。  
 触ったら壊れやしないか、でも、手でじかに感触を確かめたい、そう思わせる魅力がある。  
 首から肩、脇から腰、そして腿から足首へ。  
 流れるようなラインは、少しも歪んだ所がなくて、ぼくはただ息を止めて見入るだけだ。  
「……恥ずかしい」  
「や……ぼくだって」  
 ええと、やっぱ、男のぼくがリードしないと、だよね?  
 近づいて、恐る恐る、剥き出しの肩に手を伸ばす。  
 肌に触れた瞬間、真冬が小さくなにか叫んだけれど、ぼくには聞き取れなかった。  
 目を閉じた真冬に、再び顔を近づける。  
 二度目のキス。  
 今度は少し長く、少し強く。  
 ――舌とか、入れていいのかな?  
 そんなことを思った矢先のことだった。  
「んっ!? ンン!」  
 唇をこじ開けて、未知の感触が侵入してくる。  
 軽くパニックになったぼくは、叫び出しそうになって、でも自分の舌に絡みついたものに、声を吸い込まれる。  
 柔らかくて、ヌラヌラしてて、あ――でも、気持ちい――。  
 首に腕が回され、華奢な身体が押し付けられる。  
 擦れあう肌の感触に、目の玉が落っこちそう。  
 そして、胸の下あたりにプニプニと当たる、エアシートのプチプチみたいな、これは――  
「――プハッ、――っ、だめ! 見ないで!」  
 そ、そんな無体な!  
「め、目を閉じたままじゃ、動けないよ」  
「…………あんまり、じっと見ないで」  
 それはどう考えても無理な注文だったけど、頷かないと進みそうになかったので、ぼくは「うん」と答えた。  
 目を開けると、火を飲んだような真冬の顔が正面にあって、ぼくはまたしても言葉を失う。  
 ――まつげ、長いな。  
 可愛い。いや、知ってたけど、でもこんなに可愛かったなんて。何で気付かなかったんだろう。  
 
「つ、次は、どうするの?」  
「さ、さあ……」  
 このまま挿れる――のは、よくないよな。  
 女の子の初めては、いろいろ大変だっていうし。  
「なお、み」  
「……え?」  
「そ、の、――あ、足の、内側、に……」  
 ――『当たってる』。  
 弦の切れたような声で、真冬は囁く。  
 煮詰まりすぎて、ぼくの意識の外に逃げていた感触。  
 ぼくの敏感な部分が、いつしか、彼女の腿に押し付けられている。  
 張りのある肌の柔らかさが、そのきめの細かさが、指で触る以上に、よく分かって――  
「ご、ごめん!」  
「い、いいの! やめないで!」  
 思わず離れようとした身体に、真冬の方がしがみ付いてきて離さなかった。  
「直巳になら何されてもいい! 直巳になら何だってしていい! だから、離れないで!」  
 うあ――そういう破壊的な言葉を、無自覚に投げないで。  
 壊れかけた理性を繋ぎとめるように、ぼくは真冬の身体を強く抱き返した。  
 サラッとした髪の手触りが、心地いい。  
 熱くて、柔らかくて、愛おしくて。  
 このままどこにもやりたくない。――たとえ無理だと分かっていても。  
 目の前には、形のいい真冬の耳たぶ。  
 以前、先輩が冗談か本気か、よく甘噛みしていたところ。  
 ちょっと、ほんのちょっとだけ嫉妬心を込めて、ぼくはそれを口に含んでみる。  
「ひぁんっ!」  
 高い声でないて、真冬はぼくの背中に爪を立てる。  
 肌が密着し、メレンゲみたいな乳房が、ぼくの体で潰れて――本当に、意識がどうにかなりそう。  
 そのまま耳からずれていくように、首筋にキス。  
 さすがに跡をつけるのは、というなけなしの自制で、軽くついばむみたいに押し当てる。  
「あっ、ふっ」  
 砂糖が焦げ付くような声を出して、真冬はしなだれかかる。――って、痛!  
 また、噛み付いてる?  
「はっ、ふっ――なお、み」  
 チュクッと音を立てて、真冬がぼくの肩に吸い付く。  
 自分で付けた歯形をなぞるように、過敏になった皮膚に、唇が押し付けられる。  
 小さな痛みが、温かくてプリッとした感触で上書きされて、ジンジン熱くなる。  
 痛くて、それ以上に、気持ちいい。  
 と、ぼぅっとなっていたら、また強い痛みが走る。って、もっと加減して! かなり痛いって!  
「……わたしにばっかり、やらせないで」  
 ぶすっとした声。  
「ご、ごめん」  
 
 キスを再開。今度は首から鎖骨にかけて。  
 跡は付けないようにしてるのに、触れた先から真冬の肌は、ぽぅっと色が変わっていく。  
 青ざめた光の中で、ほのかに映える、すみれ色。  
 切なげに乱れた息遣いに我慢できなくて、ぼくは一思いに、彼女の乳房に吸い付いた。  
「ひぅっ! あっ、ああぁー!」  
 背中に食い込む爪。  
 無我夢中。  
 多分、優しくなんて出来ていなかったろう。  
 右の乳房を口に含み、手で残るほうを揉んでみる。  
 クリームチーズみたいに、スベスベでプニプニ。  
 そして、甘い。牛乳みたいな香りが口に広がる。女の子の肌って、こんなふうなのか。  
 それとも、真冬だけが特別?  
 身をよじって悶えながら、真冬は叫び、そして――  
「――たぁっ!? 痛い、痛いよ真冬!」  
 ガブリという音が聞こえてきそうな勢いで、耳たぶに喰い付かれる。  
「ンんぅっ! ヒンんぅっ!」押し殺された鼻声で、真冬は抗議する――それともまさか、ねだってるの?  
フワフワした嬌声と、マジにきつい激痛で、もうワケが分からない。  
「ンひぅっ――なお、みぃ!」  
 濡れそぼった声で、真冬はぼくの名を呼ぶ。  
 それに応えるように、ぼくはもう一度、きつく乳首を吸った。  
 耳に走る痛みにも、今度は唇を緩めない。  
 ぼくだって――どっちみちここまできて、やめる気になんてなれない。  
 なら、真冬と最後まで――。  
 
 ぐったりと体重を預けてくる真冬を抱いて支え、ぼくは腰を合わせる。  
 真冬は荒い息を吐いて、ぼんやりと曇った瞳を、ぼくに向ける。  
 汗に濡れた肌に、長い髪が絡みついて、水から上がったばかりの妖精みたいだ。  
「真冬、その」  
「――きて、直巳」  
 生唾を飲みながら、ぼくは腰を進めた。  
「ん、あっ!」  
「くっ、きつ――」  
 夜露をつけた花みたいに、真冬のそこは、もう十分に濡れていた。  
 熱くて、きつい。  
 華奢な腰つきから想像できないほど、ぎっちりと筋肉が詰まっているみたい。  
 擦れた先端に彼女の体液が染み込んでくるようで、ぼくは快感のあまり、小さく呻いた。  
 でも、真冬を見ると、そうとう痛いんだろう。閉じた目蓋から涙を流して、ぼくの挿入をこらえている。  
 思わず腰を止めて、指でそっと涙を拭ってあげた。  
「ぐっ、なお、み?」  
「真冬、その」  
 ここでやめるのは、ぼくも彼女もごめんだ。なら――。  
「噛み付いていいよ、好きなだけ!」  
「なっ」  
「それで痛みがまぎれるのなら、いくらでもぼくに噛み付いて」  
 我ながら、間抜けな言い草だ。  
 でも、戸惑ったような表情を浮かべた後で、真冬はフワリと笑顔を咲かせて、頷いた。  
 挿入を再開してすぐ、真冬はぼくの肩に歯を立てた。  
 肩の痛みと、腰の先の快感。  
 両方に苛まれながら、ぼくはただ行為に没頭した。  
 やがて先端が、彼女の純潔に突き当たる。ぼくはそれを、一思いに貫いた。  
「――っ! ひぐっ、っ、――!」  
 プツッと、肌が切れる感触。  
 さざなみのように、痛みの輪がぼくの体に広がる。  
 真冬の犬歯が、とうとうぼくの肩を食い破ったのだ。  
 痛い。今は鈍ってるけど、後で来るだろうなぁ――。  
 なんて考えていると、ズクッと痛覚に刺激が走る。  
 真冬が舌で、血を舐めとったのだと気付いたのは、二回目がきた時だった。  
 痛い。さっきと違って、これは痛いだけだ。でも、胸がカッとなって――真冬に求め  
られて、お互いの身体に刻みあってる。その事実が、たまらなくぼくを興奮させる。  
 腰を打ちつける。自分のもので、真冬の奥を思いきりかき回す。  
「ウファ! ンンー!」  
「っ!」  
先端がグチッと、なにか肉の塊に当たり、筋がくっ付いて――ぼくと真冬は同時に叫び声をあげる。  
その後はもう、ぼくは憑かれたように腰を前後に振るだけだった。  
「んっ、ヒッ、ン、アッ、ああっ!」  
 真冬の声。  
 いつからだろう、痛みとは別の、熱っぽい響きが、その声に混ざり出していたのは。  
「――っ、き、なおみ」  
 彼女は呼ぶ。ぼくを。誰でもない、ぼくの名を。  
 天才と呼ばしめたその指を、今だけはピアノのためでも、ギターのためでもなく、ぼく  
を抱きしめるために使って。  
「きっ、すきっ――だいすきぃ! なおみぃ!」  
 ――やがて、限界が来る。  
 目蓋の裏で、星が爆発したみたいな光がはじけて、ぼくは真冬の中で爆ぜた。  
「ん、あ、あぁ……」  
 切なげに息をこぼす彼女の背中を、ぼくはそっと撫でた。  
「真冬、好き」  
「…わたしだって、直巳が好き」  
 顔を見合わせ、ぼくらはどちらからともなく、笑い合った。  
 
 
月曜日。  
教室に入れば、いつものことながら、憂鬱顔したクラスメートたちが溢れている。  
「おーっす、ナオ。調査票どう?」  
「ん、結局白紙」  
 さすがに、何か書く時間はなかったし。  
「そっか? その割には、なんか明るいよな」  
「気のせいだよ」  
 笑いながらいうけれど、実際、ぼくにも少し、見えてきたような気がしていた。  
 音楽の道に進む事を躊躇っていた理由。  
 一つはもちろん、自信がなかったから。  
 なまじぼくは音楽の世界を知っていて、哲郎を見て、そこで生きるという事が  
どんな物なのかも知っていた。  
 もう一つ。音楽の道に進めば、きっとぼくは、いつも真冬の名を聞き、彼女の  
事を考えることになるだろう。  
 天才ピアニストである彼女と、なんでもないぼく。  
 それを考えるのが辛かった。  
 でも。  
 
「おっはよー、まふまふ!」  
「おはよっ、お姫様」  
 振り返ると、教室の戸口から、栗色の髪をなびかせて、真冬が入ってくるところだった。  
 ぼくの視線に気付いた真冬は、その場でさっと赤面して――  
「お、おはよう」  
「――おはよ」  
 はにかみながら、微かな微笑で挨拶を返してくれる。  
「――なに? なに今の?」  
「お、お姫様が、笑った?」  
「てめぇナオ! なにがあったコラ!」  
 騒ぎ出したクラスメートたちに揉まれながら、ぼくはとにかく笑いで誤魔化す。  
   
 音大に進んでみるのも、いいかもしれない。  
 今のぼくは、変に気負わずに、そう思える。  
 哲郎はどうだったんだろう。演奏がやりたかったけど挫折したのか、それとも、  
最初から別の事がやりたかったのか。  
 考えてみれば、あの父親とそんな話をしたことも、ぼくはない。  
 
 『直巳、大好き。直巳の音楽も、大好き』  
 
 彼女がくれたその言葉は、まだぼくの胸の中で、熱を持っている。  
 だから、きっと大丈夫。  
 今度は、ぼくも自分を信じられる。  
 
(おわり)  
 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル