【米澤穂信『さよなら妖精』結末ネタバレ】
「もりやさん」
あの日マーヤは、おれの名前を慈しむように呼ばわった。おれの贈ったバレッタを外しながら。
別れの宴の晩だった。別世界から降り立った天使のようだったと表現するのは、今となっては悪趣味に過ぎる。
マーヤ。あのマーヤが今はもう、いないのか。まなうらにはこんなにも鮮明に残っているのに。彼女が眼前にいるかのごとく、思い出せるというのに。
「マーヤ、酔ってるだろう」
「Ni.わたしは酔っていませんね。正常です」
胸元に髪飾りを握りしめ、体を揺すったかと思うと、するりとブラウスから肩を抜いてしまったマーヤ。
想像の中でさえ穢したことのない裸身がしらしらと薄明かりに浮かんだ。
突然のことにおれは身じろぎもできず、美術品を鑑賞するようにマーヤを凝視したものだった。
「何のつもりだ、マーヤ。おれがおかしな気を起こす前に服を着てくれ」
やっと口にできたのはそのような言葉だった。
おれはマーヤに劣情を抱くことを、思春期にありがちな潔癖さで自らに禁じていた。
マーヤはそういう相手ではないのだと、ともすれば迸りそうになる妄念を抑え付けていた。
しかし、おれを拒絶したはずのマーヤといえば。
「もりやさんは紳士です。ですが、据え膳食わぬは男の恥ですね」
そんな慣用句を宣う。何を教えている、白河。
あれだけきっぱり俺の申し出を一蹴しておいて誘うマーヤの思考も、分からなかった。
「……日本には『酒の上の過ち』と言って、飲酒した上での行動を大目に見る風習があるが」
「では、まちさんも許してくれますか」
マーヤの呟きに、おれはしかしどう答えていいのかわからなかった。
マーヤといい白河といい、どうしてこうも無関係な太刀洗に気を遣うのだろう?
宴の場とは襖一枚を隔てた次の間。隣室はしんと静まり返っている。白河も文原も、そして太刀洗も潰れてしまったか。
「もりやさんの好きにしていいですよ」
おれはその提案を拒むには若すぎ、さりとて嬉々として受け容れるほどの経験もなかった。
自然、おそるおそる触れることとなった。生白くほの赤い、マーヤの背中。
背後から抱きすくめた。おれの掌が余るほどのささやかな胸。
華奢な体を強張らせているマーヤの、白いうなじに口づける。一年を経ずしてその首を凶弾が抉ることなど、まだ知る由もなかった。この華奢な首に! 首に!
「痒いです……? んー……歯痒いです?」
マーヤはふっと首をすくめる。
「くすぐったい、か?」
「それです!」
首。首筋に、俺は頬寄せる。
「んー、首に拘ることに哲学的意味がありますか?」
「あるかと言われれば、ある。日本では着物の襟から覗く首筋がエロチックなものとされたんだ」
まったくムードもへったくれもない。これ以上の質問を封じるように、マーヤの口を唇で塞いだ。
くずおれるように横たわったマーヤと、おれはつたなく体を重ねた。
Boliと叫び、痛いと言い直して上目遣いで微笑んだマーヤ。
おれの首に腕を回し、耳許で息づいていたマーヤ。
あのままひとつに熔けあってどこまでも行ってしまいたかった。しかしそれは決して叶わない願いだった。
ゼロ距離、いやマイナス距離で触れ合っているのに、おれはどこか空疎なものを感じていた。
マーヤも同じだっただろうか。
事が終わった後。バレッタを掌で転がしながら、マーヤはぽつりと呟いた。
「もりやさん。紫陽花の花言葉を知っていますか」
「……ああ」
知りはしない。しかし、想像なら容易に付いた。アルミを根元に埋められると反応して青くなる花。そんなものを贈ってしまうあたり、やはりおれは長門級の朴念仁に違いない。
「わたしも同じ気持ちですね」
観光、と言われた時以上に、紫陽花に仮託した拒絶はおれを手厳しく打ちひしぐ。
「劇的《ドラマチック》」に惹かれたに過ぎないおれの心性を、見透かされていたのだ。
水無月の花に相応しい花言葉は、移り気。
贈ったのが紫陽花のバレッタだった、というのが象徴的ではないか。
おれとマーヤの蜜月は、始まった時にはもう終わっていたのだ。いや、始まりもしなかったのだ。
「何を言っているの。守屋君、相変わらず物事が見えていないようね」
太刀洗は呆れたといった態でゆっくり首を振る。長い髪が首周りでさらさらと揺れていた。
「マーヤが不憫だわ」
「どういう……」
おれの問い掛けを太刀洗が遮る。
「日本では花の色のうつろいを愛でる。けれど、何ヶ月も花を残す特性に注目する文化もある」
「……」
「紫陽花の花言葉は、ヨーロッパでは」
太刀洗はそこで言葉を一旦切り、おれを射抜くように言い切った。
「辛抱強い愛、というのよ」
暫く、その言葉を捉えきれなかった。
ややあって意味が頭に浸透し、マーヤの真意を今になっておれに伝えた。
思ってくれていたのか。そこまで。
紫陽花の墓に跪いて、おれはいつまでも慟哭していた。