肇 side 1
営業で書店回りをして、昼飯を食い損ねたその日
俺は、その男に出会った
魚の焼ける匂いが流れてくる
14:50 今朝は朝飯も食べ損ねた。
カミさんの意識のほぼ全ては息子の弁当にあって、俺の朝飯には回っていない。
6枚切りのパンを2枚トースターに入れたが、タイマーが合っていない。
ベーコンを焼いて卵を割り入れたはいいが、火が強すぎる…
ラスクのようなパンと硬い目玉焼きは俺の胃に悪い。
今のこの時間まで、コーヒーしか口にしていない。
…魚の焼ける匂いが近くなってきた。秋刀魚か?
今から飯喰うのか。俺の分は?なんて思いながら角を右へ曲がってすぐ右の
路地とは言えない隙間から煙と匂いが一気に押し寄せてきた。
「待ってなさい!今あげるから。ね」
男の声だが、どこか柔らかい。
シェフと思しき男が七輪で秋刀魚を焼いていた。
2匹の猫が前にいる。
「焼けたよ」
皿に、ほぐした秋刀魚を入れてやり、ふぅふぅ冷ましてやっている。
ありえない… 今の俺の目の前で、これはキツイ。
「おいしい?」
猫はあぐあぐ唸り声をあげて魚に喰らいついている。
気が遠くなる感覚に両膝が揺らいだ時、顔を上げたシェフと目が合った。
二重の丸い瞳。恥じらうような表情。
伏せた瞳が、おずおずと俺を見返してきたときには、
俺は、恋に堕ちていた。
琢己 Side 1
仕入れで、馴染みの魚屋が秋刀魚をくれた。
いい具合に脂ののった秋刀魚。
考えてみたが、料理のイメージが湧かなかったから
うちの店で出すのは諦めた。
ランチの営業も終わり、鮮度のいい内に食べちゃおうと思って、まずは刺身。
後は焼くのと、生姜や山椒と煮付け。
焼くのは外で。炭火と七輪。この辺りは住んでる人はいないから、まぁいいか
焼いてたら顔馴染みの猫カップル。
焼けた秋刀魚を小皿にとっていると、人の気配。
目を上げると、僕より少し年上に見える細身の男の人。
…あんまり見つめないでほしい…恥ずかしい…
「あの、何してるんですか?」
「え…見てのとおりで」
「秋刀魚ですか?」
「あ、はい…」
そんなに見ないでほしい…
「いいなぁ。羨ましい!今から昼飯?」
「はい……あの…もしよければ、一緒にどうですか?お昼。」
何、言ってるんだろう…
「いいの?いゃぁ〜助かったよ。実は朝から何も食ってないんだよね〜。コンビニも売り切れだし、この辺メシ食わしてくれるとこないだろ?」
「ここにありますよ。どうぞ。」
…あんな嬉しそうな笑顔で、食事ができることを 喜んでもらえると、この仕事を選んで正解だったと思う。
…この人の笑顔。不思議な感じ。
厚かましい感じがしない。バイタリティーと言うか…
多分、この時からもう、僕にとって肇は特別な男だったんだ。
「いい感じだね。なんか隠れ家的で」
「まぁ、ウチの店は看板だけだし、お客さんに気づかれないかも」
「うん。確かに。俺は近所で小さい会社やってんだけど、ここに店があるの知らなかったよ」
「目立たないですから」
テーブルの上に秋刀魚の刺身、焼き物、ほうれん草の胡麻和え、筍や野菜の炊き合わせ、冷奴、具材だけでも五種類は入っていそうな味噌汁が並ぶ。
メニューは家庭料理の範疇だが、器、盛り付け、食材のバランス、パッと見ただけで期待を抱かせる。
「すげぇな。いつもこんなの食べてんの?」
「たまたまです。冷めないうちにどうぞ。おかわりは言って下さい」
「いただきます」
目の前の男は嬉しそうに笑い、魚に酢橘を搾った。
食べっぷりがいい。
あっという間に皿やお茶碗が空になっていく。
清々しいぐらいに健康的な食欲を披露している彼を見ていると、自然と自分の頬が緩んでくる。
でも、指輪。奥さんいるんだ…
「ん?何?」
「いや…お腹すいてたんだなって」
「今日初めてのメシだからな。…でも、まいったなぁ。ウマイよ。営業もやってるからイイ店はいろいろと知ってるけど、魚の焼き加減が上手いし、胡麻和え、味噌汁、煮物みんな美味い!ありがとう!」
ご飯と味噌汁をおかわりして、やっと人心地ついたようだった。
「こちらこそ。いつも一人で食べてるから、今日は相手が居てよかったです」
「店、一人でやってるの?」
「ええ。運ぶのはバイトだけど、作るのは僕だけ」
「オーナーシェフなんだ」
「ええ」
「イタリアン?フレンチ?」
「ん〜…リストランテだからイタリアン? でもそうも言い切れないし…洋食? 夜はレストラン兼ワインバーだし…ん〜…」
「ん〜…」
…コイツ、なんてカワイイんだ(*´Д`)
俺より一回りもデカイのに、こんなにカワイイなんて…反則だ。
それに視線が交わるだけで、こんなに恥じらう男、そうそういないぞ。…もしやコイツは…
たまんねぇな…抱いてみたい…
「お茶?それともコーヒー?」
「え、あ…何?」
「お茶とコーヒーどっちがいい?」
「お茶、お願いします…」
「いゃぁ…すっかり長居しちゃって、夜の仕度あるんだろう?悪かったね。」
「いいえ。さっきも言ったけど、いつも一人だから。誰かと差し向かいで食事したことなんて無かったから、こっちこそ嬉しかった。」
「そんなこと言われると、この時間狙ってまた来るよ?」
本音だよ。俺、お前に惚れたんだよ。
「ええ、どうぞ。」
そんな優しい瞳で社交辞令言うな!
「ごちそうさま。ありがとう」
財布を取り出したら
「受けとれません」
「なんで?」
「これは賄いです。お金を頂く訳にはいきません。」
「いや、でも」
「だって、また来てくれるんでしょう?」
「うん」
「だったらそれでいいから。あの…これ…ウチの店の名刺。営業時間とか書いてあるし、もし今日みたいに昼ご飯食べられそうになかったら、電話くれれば…入口、鍵掛けてないし、2階に住んでるから出掛けてなければ、いるので…」
何?何言ってるんだろう。僕は…
おい!俺はお前の事、期待していいのか?
…いいのか?本気だぞ、俺は。
「あっ、俺そういえば自己紹介もまだだったな。改めて私、向井と申します。この近くで出版社をやっています。」
「株式会社 新海社 代表取締役 向井肇」
「あなたの場合、名は料理を表すか。」
「えっ?」
「味付けも調理も見た目も巧みだった。なにしろ作家先生の接待で一通りの店は行ってる。俺の舌は確かだ。」
自分の昼飯でこれだからな。洋食のほうも相当期待できそうだ。
でも、俺が一番食べたいのは、琢己お前だよ。