幸村は、その女の名を知らない。
初めて幸村の前に現れたとき、女は自分を「くのいち」とだけ名乗った。
名を呼ぶことができなくても、不自由はなかった。
幸村が忍びの力を必要とするとき、くのいちはいつの間にか彼の傍らに
立っている。夜更けであろうと、戦場のただ中であろうと。
たとえ、彼が求めていなくとも。
「幸村さまぁ」
その夜も、幸村が床に就いたとたん、くのいちの声が降ってきた。乱世
の暗闇には不似合いな、明るい声だ。
「……どうした」幸村は床の上で体を起こす。相手の用件に見当はつい
ていたが、一応問うてみる自分が、少し虚しい。
「にゃはー」奇妙なかけ声とともに、くのいちが目の前に降り立った。
「夜のお仕事に来ましたぁ」言うが早いか、するすると着ている物を脱
ぎ捨てる。
「仕事、か」しなやかな裸身をぼんやりと眺めながら、幸村が呟く。
「そなたこれを、仕事だと思っているのか」
「ほら、戦場にいるとさ、男はいろいろタマっちゃうんでしょ?戦の最
中に、敵方の美少年とかにムラムラしちゃったら、まずいじゃん。それ
を防ぐのも、あたしのお仕事」くのいちは胸の前で両手を握り、芝居気
たっぷりに腰をくねらせた。「身を挺して主に尽くす忍び。あぁ、何て
ケナゲなあたし」
「妙な声を出すな」
幸村は顔をしかめたが、それ以上は強く出られなかった。女の言うこと
は、ある程度事実だ。全身全霊をかけるべき戦の旅にあっても、封じ込
めることができない男の欲望。上杉謙信のように、女色を断つことので
きる者は、ごくわずかだ。幸村にしても、己の若い肉体の要求を持て余
すことが多々あった。
仕事と言いながら、くのいちは幸村との行為を楽しんでいる。事実、幸
村の方から伽を言いつけたことは一度もないのだ。女の気が向いたとき
に、勝手に忍んでくる。
だが幸村にしてみれば、その方が気楽だった。彼はどちらかといえば頭
の固い男だ。合意の上といえども、主が配下の者を呼びつけて抱く、と
いう行為には抵抗がある。
「ほらほら、何ぼーっとしてるのかにゃ?さっさと脱いだ脱いだ」
くのいちは、座ったままの幸村の帯をほどき、器用に夜着を脱がせる。
「……どうにも、やりにくいな」
幸村の声に、くのいちは小首をかしげる。
「どしたの?自分で脱ぐ方が好き?あ、それとも着たまま〜?」
「そうではない。……まだ、名を教えてはくれないのか?」
「にゃはー。知らない方がいいよ、きっと」
「そういうものなのか?」
「そそそ。あたしがもし死んじゃったりしたらさぁ、幸村さまってば骸
をかき抱いて、戦場で泣きながらあたしの名前叫んじゃったりするヒト
でしょ?そういうの恥ずかしいんだよね〜」
「縁起でもないことを」幸村は眉をひそめる。だがそれは、明日訪れて
も不思議のない光景だ。
「あたしは、ただのくのいち。んで夜はぁ、幸村さまの『性欲のハケグ
チ』ってヤツ?うっわー、イヤラシ〜」
軽口を叩き続けるくのいちを、幸村は乱暴に抱き寄せた。胡座をかいた
膝の上に、横抱きにする格好になる。小柄な体は、すっぽりと幸村の腕
の中におさまっていた。
「あったかぁい……」くのいちがうっとりと呟く。「ね、幸村さま」
「何だ」
「名前って、そんなに大事?」
「ああ、すまなかった」幸村は小さく息をついた。「教えたくないのな
らば、無理には聞かぬ」
「そうじゃなくって〜、真田の軍略だとか、武田の家名だとかさ。いつ
もそればっかりだけど、そんなに大事?命にかえても、ってヤツ?」
先ほどまで満足気に細められていた双眸が、今は大きく見開かれ、まっ
すぐ幸村に向けられている。いくつもの闇の中から、いくつもの真実を
暴き出してきた、忍びの目。
幸村も視線を逸らさず、静かに答える。
「ああ、大切なものだ。私にとっては、とても」
「ふーーーん」
おざなりにくのいちが頷いた。自分で話を切り出しておきながら、もう
飽きたとでも言わんばかりに。
「ま、人生いろいろ、ってトコかにゃ。そーゆーヒトたちのおかげで、
あたしもお仕事ができて、ゴハンにありつけるってもんだぁ」
くのいちは幸村の首に両腕を回し、頬に軽く口づける。幸村はまだ何か
言いたげに女の顔を覗き込んだが、やがて諦めたように同じ口づけを返
した。
幸村は片方の腕で女の体を抱え、もう片方の掌で小振りな乳房を包み込
む。指の力で自在に形を変える柔らかな玩具を、弄ぶ。
「あぁん、幸村さまぁん」
わざとらしく甘ったるい声を上げるくのいちに、幸村は苦笑して、手の
動きを早めてやる。
やわやわと乳房を揉みしだくと、固くなりはじめた乳首が、ときおり掌
にこすれた。もどかしい刺激に、くのいちが切なげな吐息を漏らす。
「あっ」
不意にそれが、喜びを含んだ驚きの声にかわる。幸村の唇が、ようやく
胸の蕾をとらえたのだ。
野の果実を味わうかのように、舌で転がし、柔らかく噛む。そのたびに
くのいちが身を震わせる。
「幸村さま……それ、いい……んっ…」
常と異なる艶を帯びた声音に、幸村も昂ぶりを覚えた。くのいちの軽い
裸身を抱え直すと、滑らかな肌のあちこちに、燃える唇を押しあてる。
ふだん衣服に隠れている部分に、何ヶ所も生々しい傷痕があった。この
小さな体で、どれほどの戦火をくぐり抜けてきたのかと、幸村は胸を痛
める。
「ん、あ…はぁ……」
武士の大きな堅い掌が、忍びのすらりと引き締まった脚を撫で上げた。
その行く先への愛撫を期待して、くのいちの息遣いがいっそう乱れる。
「あぅ…!」
そして幸村の指が、熱い蜜を湛える泉に達した。深さを測るかのように、
ゆっくりと奥へ差し入れられる。微かな水音は、くのいちの喘ぎにかき
消されて聞こえない。
「あ、あっ…そこ……幸村さま……っ!」
幸村は、女の最も柔らかな部分を、優しくかき混ぜる。くのいちは幸村
にしがみつき、首筋にせわしなく荒い息を吐きかける。幸村には、それ
が心なしか甘い匂いに感じられた。
「んは、ぁ……!とけちゃう、とけちゃう……!もう…っ」
切羽詰まった声に、幸村は女をいちど昇りつめさせてやろうとした。だ
が突然くのいちは身をよじり、男の腕から逃れる。
「どうした?」
戸惑う幸村に、くのいちは悦楽に潤ませたままの目を向ける。
「えへ…イイんだけどさ、ひとりでイクのって、何かつまんないし」
「それは…」悪かった、と言っていいものかどうか、幸村は口ごもる。
お構いなしに、くのいちの手が素早く動いて、幸村の屹立したものをあ
らわにする。
「ほら、ね。お仕事お仕事。幸村さまもいっしょに……イこう?」
胡座をかいた幸村に向き直ったくのいちは、そのまま男の体に跨る格好
で腰を下ろした。
「くっ……」
幸村の剛直は、あっけなく女の蜜壷に呑み込まれる。堪らず、呻いた。
自らも頬を紅潮させながら、くのいちが男の顔を至近距離から見上げる。
「ね、幸村さま。気持ちいい?」
「……ああ」
今さら、こんな格好で気取ってみても仕方がない。幸村は正直に頷いた。
「うん、素直でよろしい」くのいちは満足そうに微笑むと、ゆっくりと
体を上下に揺すりはじめた。「んじゃ、ご奉仕しちゃおっかな」
くのいちが動くたびに、柔らかく濡れた『女』が、堅く漲った『男』に
吸い付き、こすり上げる。幸村はくのいちにされるがままで、しばし愉
悦に身を委ねる。
「あ、はぁ……!……幸村さまの、すごい……」
くのいちも、存分に幸村を味わっていた。だんだんに、腰の動きが速く
なる。
「いい、いいのぉ……幸村さま、幸村さま……っ!」
熱にうかされたように自分の名を呼び続けるくのいちに、幸村は応える
術を持たない。女に呼びかけるべき名を、彼は知らない。
明日をも知れぬ乱世に、束の間暖めあう、男と女。互いが心地よければ
それでいい。そう、思い込もうとする。
「あ、あんっ、幸村さま、幸村さま、幸村さ…」
幸村はくのいちを抱き寄せ、強引に唇で唇を塞いだ。
真田幸村。戦場の敵には恐怖、味方には誇りと共に語られるその名が、
今だけはただ厭わしい。
「ん、ふぅっ、んんっ、ん…ふ」
鼻にかかった呼吸を苦しげに繋ぎながらも、女は口づけから逃れようと
はしなかった。口内に男の舌を受け入れながら、さらに激しく腰を振り
たてる。
闇の中にあるのは、僅かに泡立つ水音。肌の擦れあう音。くぐもった息
遣い。汗の匂い。たった二つの、燃え立つ体。
男と女は、互いの背に腕を回し、舌を絡め、唇を貪り、快楽の器を重ね
て、響かせあう。全身で、相手を求め続ける。
「…ん、んく……っ!!」
やがて、女が身を強張らせた。ひときわ強くなる締め付けに誘い込まれ
て、男も精を放つ。
しばらく抱き合ったまま息を鎮めていた二人が、やがてどちらからとも
なく身を離し、顔を上げる。
「なんか、今日は凄かったね。幸村さまぁ」
いつもと同じ屈託のない笑顔で、くのいちが男の名を呼ぶ。無言のまま
もう一度抱き寄せようとする幸村の腕から、女は忍びの動きでするりと
抜け出した。
呆気にとられる幸村に背を向けて、立ち上がったくのいちが衣服を身に
つける。脱ぎ捨てたときと、まるきり同じ手早さだった。
「じゃあね〜ぇ、ごちそうさまでしたぁ。にゃはっ」
「おい、待て…」
くのいちの姿は既に見えない。幸村の声は、虚しく空に投げられただけ
だった。
体の中を嵐が通り抜けていったように思えて、幸村は気を落ち着かせる
ために深く息をする。闇の中に、ひとり座したまま。
自分が先に死んだら、あの女は。そんなことを、ふと考える。あの女は、
幸村の骸をかき抱いて、戦場で泣きながら幸村の名を叫ぶだろうか?
「似合わないな」幸村はひとりごちる。「全く、似合わぬ」
馬鹿げた想像をした自分がおかしくて、声を殺して笑う。
闇の中に、ひとり座したまま。
体に残る女の熱が、夜の冷気に奪われてゆくのを感じながら。
(終)