出雲大社に着くなり同僚の巫女達に囲まれる阿国を見て、
五右衛門は改めて彼女の人の良さを感じたのだった。
「せや……こちらのお人は、石川五右衛門様どす。」
「あ、ども。」
興味津々な巫女達の視線が阿国と五右衛門といったりきたりする。
年頃の女性が最も気になり、最も聞きたい質問に先じて阿国は答えた。
「うちの……」
五右衛門の鼓動が期待と不安で、異常なまでに速まる。
「うちの大事なお人どす。」
かつての嵐のような日々と比べ、驚くほどに緩やかな日々が過ぎていく。
それから五右衛門は、普段は掃除や雑務をこなして出雲大社に住みこんでいた。
しかし真の実力はどうあれ石川五右衛門の名は天下に広く知られており、
その存在が他の神社や組織に対する番犬や用心棒ような存在となっていた。
こうして公認された五右衛門と阿国の男女としての仲は、順調に続いていた。
初めての夜は阿国から迫ったが、それからは五右衛門も時には男らしく迫った。
そして平和な一年の月日が流れ、それはこれからも流れていくはずだった。
「はぁ…。だりぃ……」
いつものように出雲大社の入口周辺をホウキで掃く五右衛門。
「あ…!」
「あ、阿国さん!……どっかにお出かけですかい?」
出会い頭に出会った二人。
「う…うん…。買い出しに…。」
しかし顔を伏せ目がちにする阿国の態度は、恋仲とはとても言えないものだった。
「ありゃりゃ……申し訳ありやせん、おいらこの後ちょっと仕事が……」
「え、ええよ。そない大荷物やあらへんから。……ほな…。」
「…………阿国さん…。」
そう、何一つ問題は無いはずだった。
しかしそんな二人の間に、何やら不穏な空気が流れて出していた事は確かであり、
妙によそよそしい最近の阿国のその態度に、五右衛門は一抹の不安を抱いていた。
その後、五右衛門は急ぎ一仕事を終え、早々に阿国を追った。
表情の晴れない愛しき女性がいれば、後を追う。
阿国との旅で、五右衛門はそんな男としての基本的な行動力も会得していた。
「号外〜! 号外〜!!」
ふんどし一丁で軽快に走る男が、紙を撒き散らしながら駆け抜けていった。
「いったい何でぇ…?」
巨体を屈め、その一枚を拾う。
『川中島にて、前田慶次が単身上杉軍に腕比べする模様!!』
「そうか…そういう事だったのか。」
最近の阿国の表情が冴えなかったのはこの知らせを聞いて――
「いや、違うな。」
そう、こんな知らせなど関係無い。
数日前から確かに阿国には元気が無かった。少なくとも五右衛門の前では。
結局町中で阿国を見つけられず、五右衛門は夕焼けの中、出雲大社へと戻った。
その夜、五右衛門はその紙を見つめていた。
戻ってからの阿国とのやりとりも、まさに心ここにあらず。
阿国の真意が知りたい。
阿国と話をしたい。
阿国の顔が見たい。
恋心が、五右衛門の胸の内を痛い程に締め付ける。
「…五右衛門様……いはる?」
「阿国さん!?」
ふすまを開ければ、会いたくて会いたくてたまらない、愛しき人が立っていた。
淡い月光に照らされ、さらにその表情に切なさを浮かび上がらせている。
「ど、どうしたんですかぃ…こんな夜更けに。」
「…聞いてほしい事があるんどす……」
「聞いてほしい事…?」
悩みや愚痴、別れ話に相談話。
その一瞬に数え切れぬほどの嫌な予感や不安感が五右衛門の脳裏を駆ける。
「……五右衛門様……うちのこと…好き?」
「そ、そりゃあもう!」
意外にも返答に簡単なその質問に、五右衛門は速答した。
「…ほんまに?」
カックンカックンと首を縦に振り、無理矢理笑顔を作る。
「ほんなら……」
「…?」
「ほんなら、うちがほんまに五右衛門様のこと好きて言うても……信じてくれる?」
「…えぇ?」
どのような質問にも明るく答えようとしていた五右衛門だったが、
意図の見えない阿国のその質問に思わず言葉を詰まらせた。
阿国の目尻には徐々に雫が溜まり、その表情は痛々しい程に切なくなる。
「だって……だって……」
頭の切れる五右衛門には、阿国が何を言いたいのか、やっと分かった。
数々の男と関係を持ってきたくせに、今さら好きと言って信じてもらえるのか。
一途な好意に対して曖昧なままに受け入れていると思われているのではないか。
過去の自分と今の自分、そして五右衛門の好意が重なり、阿国を悩ませていたのである。
阿国の立場になって初めて分かった苦悩に、五右衛門は言葉を失った。
「…ひっく!……ひっく!……」
とうとう阿国は手の甲を添えて子供の様に泣き出してしまった。
時折肩を大きく震わせ、頬からは雫が次々と流れ落ちていく。
「阿国さん……」
「嫌…やんな?……こんな女……嫌やんな…?」
これほど破局的な場面だというのに、それでも五右衛門の心は穏やかだった。
恋仲としての関係の中で、阿国の自分に対する想いが
日々はっきりとしていくのは五右衛門も肌で感じていた。
阿国が自分を好きといえばそれで充分信じたのだが、
それを――それが――阿国は言えなかった。
そんな自分が悲しく、惨めで、最近の彼女自身を苦しませていた。
次々と溢れる涙を拭い、見上げる阿国に対して五右衛門がすべき事はただ一つ。
久方ぶりに二人の唇が触れ合い、重なった。
「…五右衛門…様……」
「……あっしは見ての通りの巨漢でしてねぇ。」
ポコンと大きな腹を叩き、ニコニコ笑う。
「このでっけぇ腹にゃあ何でも入っちまうんでさぁ。
阿国さんの魅力も優しさも……悩みも悲しみも。」
返す言葉が無かった。
言葉にならない嬉しさと安心感がとめどなく涙腺を開かせる。
「大丈夫。大丈夫ですぜ。」
優しく抱きしめられる中で、阿国は五右衛門を見上げた。
今なら言える。
全てを受け入れてくれるこの人に、しっかりと自信を持ち、心から言える。
「五右衛門様……」
「へぇ。」
「大好き。」
「あっしもでさ……って、あっしは事有るごとに言ってやすね。わっはっは。」
「うふ…うふふふ……。」
改めて二人は唇を重ねた。
幾度も交わしてきた接吻も、今宵はどこか新しく感じる。
「あ…あんね……?」
「へぇ。」
もう切なさや憂いは全く無いものの、今は頬を丸く染めてどこか
恥じらいが生まれた阿国の顔が、モジモジと五右衛門を見上げている。
「あんね、さ…さっきの話やないねんけど…。」
「ん?…んん?」
五右衛門にとっては全く話が見えてこない。
「うちも……うちも…お腹大っきくなりそう……やねん…。」
「はぁ。」
ポリポリと頭を掻く。
「よく分かんねぇけど……そんなに太ったんですかい?」
「ち、ちゃうよもぉ…あほぉ。せやから…その……」
「うーん、意味がよく分か……らぁあったぁーーーーーっ!!!」
「きゃーーーーーっ!!」
寝静まっている人達を叩き起こすほどの大声で叫び、阿国の手を熱く握る。
阿国は驚いて目を飛び出しそうにしながら、五右衛門に手を振り回された。
「びっ…びっくりしたぁ…!!」
「ははっ、そうだったんですか! すげぇ!!」
「う…うん…。……喜んで…くれる?」
「え?…当ったり前じゃないっすか!…いやぁ〜、そっかぁ〜。
おおっ、ってことは今流行りのできちゃった婚かぁ〜!?」
「うふふふ……」
今、五右衛門は全てが分かった。
阿国がここまで悩み始めたその発端が。
妻となり母となる事が分かったその時、阿国の苦悩が始まったのだ。
改めて抱擁し合う二人。
五右衛門の眼前で光る阿国のかんざしが、やたらと目についた。
「あれ、よく見りゃこれってどっかで見たことあるような……」
「ん?……あぁ、これ?」
そっとかんざしを外し、手渡す。
「嘘ちゃいますぇ?……これねぇ、桜の木から落ちてきましてん。」
「は…はぁ…。」
「あ〜、信じてへん〜。」
「どっかで見たことが……桜……桜並木……」
「信じてよぉ〜。」
「ああぁーーーーっ!!!」
「きゃーーーーーっ!!!」
五右衛門は思い出した。
阿国と出会うすぐ前、京で一仕事した際に桜並木で落としたこのかんざしを。
その旨を伝えると、阿国も負けず劣らずの大声を出してもう一度驚いた。
「すげえっすね…偶然ってのは。」
「うん。あ、ちゃう。ううん。」
「はは、どっちなんですか…。」
「うちらが結ばれるのは……偶然なんかやないよ……」
「阿国さん……」
「ほんならこれは婚約印…やね?」
どこか嬉しそうに頭を預け、阿国は目を瞑った。
神聖な儀式の様にして、五右衛門もその艶やかな髪にかんざしを通す。
「うふふ……これからも、よろしゅうお願いします♥」
「あ、いや…こちらこそっス。」
「ふっか……ふっかつ……ふつっ…ふ?…んん?」
「ふっつか者、っス。」
「あぁ。ふっちゅか者やけど……」
「はははっ、言えてねぇっス!! ははははは!!」
「あかんわ、舌回らへん…。……ん?…これ何?」
五右衛門の背後に落ちている、一枚の紙を拾う。
「号外…?」
「あぁ…。さっき見せに行こうとしてたんですけどね。」
「…ふんふん。ふ〜ん。」
詳細に目を通すその様子から見ても、もう五右衛門に一片の不安も無かった。
前田慶次の名を見ても、もう心を動かす事もない。
といっても慶次の存在が皆無になったわけではない。
その名を聞けば、心の奥底にある淡い思い出と
恋心がほんの少し蘇る――その程度なのだろう。
「五右衛門様、どうしはるの?」
「それを阿国さんに聞こうかなって思ってたんでさ。」
「せやなぁ。……お節介しに行きまひょか。」
「へへ、阿国さんならそう言うと思ってやしたよ。」
「うちらの熱々っぷりでも見せたろぉや、な?………お……お父ちゃん?」
「……う……うおぉーーーっ!!…生きててよかったーーーーっ!!!」
「んふふ、うちもよかったーーー♥」
ガラッ!!
「お前達っ、うるさぁーーーーーーいっ!!!」
確かに、この晩二人は周囲の迷惑も省みず何度も何度も絶叫した。
その後深夜に起こされて怒り狂う神主達に、二人はこっぴどく叱られた。
叱られながらも二人がニコニコしているから、余計に話が長引いたのだった。
翌日二人は婚約発表をし、後日川中島にて慶次に加勢し、そしてさらに数週間の月日が流れた。
豪傑・前田慶次が上杉謙信の配下となったという報が世間を騒がせてもう幾日。
その日も暑くなりそうな朝だった。
「おはようございます。」
「おっす。」
ホウキをもった真田幸村が挨拶すれば、これまたホウキをもった五右衛門が応えた。
川中島での一件の後、出雲大社で働く阿国を頼って付いて来たのだ。
幸村も五右衛門と同じく、雑務で職をこなして日々を過ごしていた。
「お? あの小っこいのは?」
「ああ…彼女なら副業です。」
「あー。」
時同じくして、ここは出雲よりさらに南に位置するとある神社。
「ふむふむ。ここは御札が一杯あるみたいね〜。にゃるほどにゃるほど。
わおっ、巫女の裾が短いっ!!……ここの神主達は助兵衛…っと。」
くのいちも普段は雑務担当だったが、時には他の神社の経営状態などを偵察しに行った。
雑な五右衛門と比べ、角から角まで丁寧に掃く幸村。その性格がよく出ている。
「そういえば、孫市のヤローは?」
「まだ寝てるでしょう。」
時同じくして、ここは出雲大社内にある、とある寝室。
「…ぐー……ぐー……へへ……待ちなって……ぐー……」
出雲大社には長年の問題が二つあった。
一つは財政的なもので、足りぬ修繕費用を阿国が稼いだのはまだ記憶に新しい。
もう一つは巫女不足であり、それを解決したのは他ならぬ孫市だった。
確かに彼は町々から女性を連れてきては住まわせ、巫女を量産した。
その功労からかなりの自由が黙認されていたが、彼には最大の欠点があった。
「ったく、楽なもんだぜ。」
「でも孫市殿のおかげで巫女さんも増えましたし。」
「純潔じゃねぇ巫女が、な。」
「ははは。…まぁまぁ。」
「笑い事じゃねぇって! 唾つけた女ばっか誘いやがって!!
この前なんか美人姉妹揃って……どっちも孕……フガフガ!!」
「あ〜ら、いい男。」
突然の女性の声に、二人は振りかえった。
別にやましい事はないが、話題が話題なだけに聞かれるわけにはいかない。
鮮やかな紫の着物を纏うその女性は、日傘片手に地図を持っている。
陰に隠れながらも映える美しい顔立ちは、二人の姿勢をきちんと正した。
「あなた達、ここの下郎かしら?」
「下……。使用人と呼べってんだ!」
その女性は五右衛門の顔を手で隠し、幸村に顔を向けている。
「あんたは黙ってて。わたしはこっちの色男と話してるの。」
「かぁーーーっ!! 見る目がねぇ!! 男は中身だぜ!?」
女性に背を向け、五右衛門は再び掃除に取りかかった。
「え…えっと……何かうちの神社に御用でしょうか?」
「ここに阿国って娘がいると思うんだけど。」
「はい、いますよ。」
「何か新しい商売を始めたって聞いたんだけど…。」
「へっへっへ、聞いて驚くなよぉ!?」
巨体を揺らし、得意げに五右衛門が振り向く。
「俺様が企画・発案した、その名も『歌舞伎』だ!!」
「何よそれ…。」
「ま、それは見たほうが早いな。嗚呼…舞台で輝く、阿国さんの華麗な舞……」
「どうも怪しいわねぇ……」
「あぁん? 俺様の大事な大事な阿国さんに文句あんのかぁ!?」
「あらあら……手紙で聞いていたけど…。やっぱりだったのね。」
「…?」
ふー…と深くため息をつき、頭を左右に振る。
「阿国ったら、ゲテモノ好きだったのね…。」
「かぁーーーっ!! 分かってねぇ!! 男は心だぜ!?」
「あ、噂をすれば。阿国さんですよ。」
「お〜い、阿っ国さぁ〜んっ♥」
「ふふ、あの様子じゃ元気そうね…。」
その時、その年初めての蝉が鳴いた。
まるで新たに始まる平穏な日々を祝うかのように。