朝は天下において平等に訪れる。
東国でも西国でも大八島にあまねく平等に。その中心部に近いこの安土の地に於いても時間差はあれど訪れていた。
安土城。大八島の中心にちかく琵琶湖に面しているこの町でもっとも威容を誇る建造物。戦国の魔王――織田信長はそこを居城としている。
信長は滅多に聞かない音で目が覚めた。
女――それも彼の正室である、濃姫がすすり泣いている。
魔王と褥を共にする女性の一人である濃は普段凛とし艶やかであり、このような態度を見せることは無かった。
「どうしたのだ」
魔王は配下の武将が聞いたならばすくみ上がるような穏やかな声で尋ねた
「私は」
時折垣間見る、女としての不具。道具としての価値も無く、離縁されるてしまうという悪夢
「私は、貴方の女足り得ないのでしょうか」
「なにゆえ、だ」
「私は子を宿しませぬ」
「是非も無し」
信長はだからどうした。とでもいいたげに言った
「お濃。うぬも古き因習からは逃れられぬ、か。血が継ぐなどという時代はもう終わる」
たとえそうだとしても、な。と信長は続けた
「信忠がおる。信忠ならば儂の後を継げるだろう」
「ええ。ですが」
「うぬの子ではない、か」
信長は濃を見た。何かに怯えた風に見える。
怯えている? 何を。決まっている。この信長を、だ。
しかし子をなさぬからという理由での離縁など考えたことも無い。美濃の斉藤無き今外交的な理由も無い。では何故か。
「下らぬ」
信長はつぶやいた。自分の内心への回答は陳腐なものであった。
「うぬは何ゆえこの信長と共にあるか? 美濃の蝮に言いつけられたから、か。子を成すため、か」
「・・・いえ。私は」
「ならば、この信長のみを信じ、付いてくればよい」
まったく下らぬ、な。と一人ごちたあとに付け加えた。戦国の魔王とて人の心が無いわけでは無いということの証左だった。
「連れ添う理由は儂とて同じ理由よ」
濃の瞳は以前濡れていたが信長の言葉の意味を知りそれは意味するものを変えた。
「猿の奴が」
信長は着付けをすませ天主から安土を見下ろしている。
「毛利攻めに儂の出陣を要請してきおった。途中京にて茶会を、その後に猿の後詰へ出陣する」
信長は振り向き、濃を見る。朝の姿がまぶたに浮かぶ。いつになく儚げなお濃。少しばかり安心させてやるつもりで信長は言葉を紡いだ
「うぬは常に我が傍らよ。戦場でも、臥所でも、な」
濃は艶やかに微笑むことで信長へ答えた。
その日、彼らは安土を出発し京へ向かった。信長は京での宿所を常に一箇所に定めていた。京に城を持たない信長はそこを小さな砦のようにしていた。
都における魔王の牙城。その名を本能寺と言う。
end