再び誾千代に攻められ、遠くに行っていた意識が戻ってきた。  
身体中に口づけられ、愛撫され、これまで自分が知らなかった感覚を誾千代に与えられ、  
何をどうしていいか分からないまま誾千代にしがみついていた自分を思い出し、  
何も出来ずにいた自分に言いようのないもどかしさを感じて顔を上げると、誾千代が自分の身体を見つめていた。  
「あの……」  
「稲殿」  
誾千代が視線をこちらに向けて、笑顔を見せた。  
「あまりじっと見られると恥ずかしいのですが」  
身体を捩り、何も付けていない肌を少しでも隠そうとすると、誾千代は残念そうに、  
「そうか。せっかくなので目に焼き付けておきたいのだがな」  
と、先ほどまで自分に触れることをあんなに躊躇していた人間と同一人物だとは思えないことを言った。  
「焼き付けて頂くようなものではありませんっ……」  
稲が身体を起こしながらそう言うと、誾千代は手を貸して膝の上に導いてくれた。  
誘われるまま膝に乗りはしたものの、彼女の視線が気になって仕方がない。  
「立花様はきれいな身体をなさっているからいいかもしれませんが、稲は……」  
「稲殿は美しい」  
身体の輪郭を辿るように腹を撫でられ、稲はくすぐったさに思わずその手から逃げてしまった。  
褒めてもらえるのは嬉しいけれど、  
「稲は……左右の胸が不揃いなのが、その……少し嫌なのです」  
弓を扱うせいか、左の乳房に比べると右の方が明らかに大きい。  
これまでも気にしてはいたけれど、誾千代に見られているのかと思うと余計に気になる。  
「それは稲殿が弓の鍛錬を怠らずにしてきたが故だ」  
誾千代はそう言うと、右の乳房を柔らかく包むように手を滑らせた。  
「……っ」  
たったそれだけのことで、これまで自分が好きになれなかった身体の一部も誇らしく思えてくる。  
だからと言って、羞恥心が消えてくれる訳ではない。  
「それでも、やはり……恥ずかしいです」  
稲は誾千代の目に自分の身体が映らなくなるように、誾千代に身体を寄せて右腕を彼女の首に廻した。  
「稲殿……」  
誾千代も優しく抱きしめ返し、頬に口づけてくれる。  
互いの乳房が触れ合って身体の間でその形を歪めているのがよく分かる。  
彼女は自分を女ではないと言うけれど、この柔らかい女性らしい感触は稲を安心させてくれた。  
 
本当は両腕で強く彼女を抱きしめたいと思うのに、自分だって彼女にたくさん触れたいと思うのに、  
左肩が動いてくれないせいで、それが出来ない。  
けれど誾千代にこの左肩を斬られたからこそ、今彼女とこうしていられる。  
では、彼女とこうした結果、先には何が待っているのだろう?  
遠い先のことなど分からない。  
ただ分かるのは彼女とこうしていられるのは今夜だけだということだ。  
夜が明け、陽が昇れば、互いに反対の方向を向いて歩き出すのだ。  
それを考えたらまた胸が痛くなってきて、稲は片腕で彼女を強く抱きしめ直し、誾千代の頬に自分の頬を擦り寄せた。  
「稲殿?」  
「立花様と同じ場所に生まれたかった……」  
少し遠回しに離れたくない想いを告げると、誾千代は、  
「稲殿。私もそう思う。  
 だがな、敵であったからこそ、戦を通じて稲殿を見ることが出来た、とも思うのだ」  
と言った。  
確かにその通りだ。  
敵であったからこそ、彼女に負けまいとして腕を磨き、彼女に認めてもらえるまでになれた。  
稲は顔を上げて彼女の顔を見ると、誾千代に笑いかけた。  
「……稲は子供ですね。  
 目先のことしか考えられない」  
「それは私も同じだ」  
「立花様は先を見ておいででしょう?」  
「そうでもない。  
 でなければ……」  
誾千代はそこで言葉を切って、ふっと笑った。  
「でなければ……、なんでしょう?」  
「……なんだろうな」  
先が気になって問いかけたのに、誾千代はそう言って顔を寄せてきた。  
口づけられるのは嬉しいのだが、なんだか誤魔化されているような気がして、稲は唇の先が触れ合ったところで  
誾千代から身体を引いた。  
 
「なんですか?」  
もう一度聞いてみると、誾千代は、  
「まあ、色々だ」  
と言ってまた唇を求めてきた。  
「あっ!ずる……んっ」  
言いかけたのは自分なのに、完全に誤魔化そうとしている。  
稲は一度唇を受け止めると、誾千代にされたように下唇を軽く食んで音を立てながら顔を離してみた。  
誾千代がまた追いかけてくる。  
「立花様」  
唇が触れそうになる寸前で、咎めるような口調で彼女を呼ぶとさすがに動きが止まった。  
「ん?」  
「稲には言えないことなのですか?」  
「そういう訳でもないが、言うようなことでもない」  
「ならばおっしゃって」  
「そうだ、稲殿」  
からかわれているとしか思えない調子で遮られる。  
「な、なんでしょう」  
「男は往々にしてこういう誤魔化し方をする。  
 覚えておいた方がいい」  
ここでいう男とは彼女の夫である宗茂のことだろう。  
もしかしたら他の男も指しているのかもしれないが、誾千代のような人がそうそう誰とでも  
こういう仲になるとは思えない。  
ご指導ありがとうございます、と応じる気にもなれず、誾千代の顔を見ていると、彼女は続けた。  
「特に余所に女を作った時には」  
さすがにむっとして、稲は眉根を寄せた。  
「立花様」  
誾千代が口を閉じた。  
ふざけないで下さい、と言おうと思ったが、彼女が自分をからかうのなら、自分も彼女をからかってみようと  
稲はわざと口を尖らせて膨れっ面を作り、  
「立花様は今、稲と居るのです。  
 それなのに他の方の話をするなんて……不埒です!」  
と言ってぷいと顔を背けてみた。  
 
夫がいる人を相手にこんなことをしている自分の方が余程不埒だと思いはしたが、  
今更そんなことを言ってみても遅い。  
そのことは考えないようにしながら誾千代の様子を横目で伺うと、誾千代が顔を覗き込んできた。  
「い、稲殿?」  
誾千代の肩に置いていた右手で自分の胸元を隠しながら身体を引くと、誾千代の腕が身体から離れてしまった。  
一瞬、見放されたと思ったが、誾千代の顔がそうは言っていない。  
むしろ、予想以上に効果があったらしく、稲が顔を背けて誾千代の膝から降りて藁の上に座ると、  
「怒らせてしまったか?」  
と弱い声が聞こえた。  
稲が誾千代の方を見ると、彼女は困りはてた顔でこちらを見ている。  
「……すまない」  
誾千代がこんな弱気な表情を見せるなんて思ってもいなかったせいで、稲は顔がゆるみそうになったが、  
もう少し彼女を困らせたいとも思ってしまった。  
「……立花様があんな意地悪を言う方だなんて、思ってもいませんでした」  
することも意地悪ですけれど、と心のうちで付け加えてまた様子を伺うと、  
誾千代は何か言いたそうに口を開けて動かそうとしたが、結局言葉が見つからなかったらしく、  
膝を抱えて座り直すと自分の腕に頬を乗せて、稲から顔を背け、また、  
「……すまなかった」  
と言った。  
ここまで落ち込むとは思っていなかったので、今度はこちらが慌てる。  
「立花様?……稲は、稲は別に怒っている訳ではありません。  
 ただ、稲は……宗茂様に、少し妬いてしまったのです」  
誾千代が何故、と言いたげな顔をこちらに向けた。  
「立花様がおっしゃった殿方は、宗茂様のことでしょう?  
 稲と会う前のことを言っても仕方のないことというのは分かっておりますが……、  
 今は……今だけは」  
自分のことだけを見ていてほしかったのに。  
悲しいというよりは欲しいものを与えられなかった子供のように膨れると、  
「稲殿」  
と、誾千代は両手をついて猫のように近づいてきて、こちらに顔を寄せた。  
 
「はい」  
月明かりを背にした誾千代の仕草が稲の鼓動を早くする。  
「私が今見ているのは、稲殿だけだ。  
 夫など……名ばかりのものだ」  
だが、側室を作られて怒りを感じた経験があるからこそ、あんな言葉が出たのではないのか。  
嬉しいと思う反面、素直には喜べずに誾千代から目を逸らす。  
「でも、あんな……」  
「あれは、だな」  
誾千代がまた言葉に詰まった。  
しかし、今回はどことなく気まずそうな表情だ。  
「あれは?」  
稲が促して首を傾げると、誾千代はすぐ隣に座って稲を抱きしめてきた。  
身体がぐらりと傾いて、誾千代の胸に抱え込まれる。  
「立花様っ!?」  
「あれは……だな。  
 稲殿が、そのうちどこかの男の元へ行くのかと思ったら、なにやら無性に腹が立ってきて……つい」  
自分は会ったこともない彼女の夫に妬いたけれど、この人は稲自身も知らないような相手に妬いたのかと思ったら、  
今までの不快感はどこへやら、稲は嬉しくて笑い出しそうになってしまった。  
そんな稲に気付かないのか、誾千代は続けた。  
「いや、もちろん、それは仕方のないことだし当たり前のことなのだ。  
 だが、稲殿の全てを欲しても、身体が女の私では出来ないこともある……。  
 それを思ったら余計に……すまなかった」  
誾千代の言葉に肌が粟立つ。  
確かに女同士では出来ないこともあるだろう。  
だが、誾千代に全てを望まれていると知ることが出来ただけで、稲には十分だった。  
抱きしめられたまま彼女の顔を見上げると、誾千代は顔をあらぬ方へ向けていた。  
月明かりでも分かるほどに耳が赤く、首筋まで朱に染まっている。  
「立花様」  
稲は身体を伸ばして、美しい輪郭を描く顎に口づけた。  
それでも彼女はよほど気まずいのかこちらを向いてくれない。  
「立花様。こちらを向いて下さい」  
「……すまない。私は勝手な人間なのだ」  
勝手なのではなく、ただ単に照れているのだろう。  
稲はそんな誾千代を初めて可愛らしいと思い、  
「ならば稲も勝手をいたします」  
と言って今度は首筋に唇を押し付けた。  
 
「稲っ、殿っ!?」  
誾千代が首筋を押えて身体を引いた。  
彼女も首に触れられるとくすぐったいと感じるようだ。  
さっき自分がやめてくれと言った時はやめてくれなかったくせに。  
「なんでしょう?」  
手で隠れていないところに唇を移すと、誾千代は小さな嬌声を上げて大きく後ずさった。  
初めて聞く声に稲の中の何かが首をもたげる。  
「いやっ……そろそろ休んでは」  
しどろもどろにそう返してくる誾千代の気弱になった表情がたまらなく愛おしい。  
「稲は立花様が思うより頑丈なのです」  
白く長い脚の上に跨って、誾千代に顔を寄せにっこり笑うと、誾千代は顔を背けて、  
「だが、……あ、あれほど、熱があったのだし」  
と言った。  
歯切れが悪い。  
自分が押すのはいいけれど、押されることは不得手なのが、経験に乏しい稲でも十分に分かる。  
「立花様のおかげで、傷による熱は下がりました。  
 でも」  
稲はこんな大胆なことを出来る自分に驚きながらも、更に誾千代に擦り寄って乳房が触れ合う場所まで距離を縮めた。  
「今ある熱は、寝てもきっと下がりはしません。  
 立花様は……もう、冷めてしまわれましたか?」  
右手を藁の上につき、あまり動かない左腕を動く範囲で上げると、誾千代の乳房に指が当たった。  
誾千代はぴくりと肩をすくめたけれど、それ以上逃げることはせず、  
「冷める筈などないのは、……分かっているだろう?」  
と、恨めしそうにこちらを見上げてきた。  
「ならば、休めなどとおっしゃらないで下さい」  
誾千代の乳房に指を埋めながら顔を寄せる。  
早くまた口づけを交わしたいと思う反面、自分のせいで戸惑って、顔を火照らせる彼女を見ていたくて、  
稲は誾千代の胸の先を指で弄びながら、唇を触れさせたり、啄んだりと浅い口づけを繰り返した。  
いつもは凛々しい眉が顰められ、ふっくらとした唇の間からは小さなため息と甘い掠れた声が漏れる。  
稲はまた身体の中心の熱が痺れをはらんで来るのを感じていた。  
 
誾千代は後ろ手に自分の身体を支え、加えて半ばもたれかかっている稲を支えてくれているせいで、  
自分からは何もせず、稲のしたいようにさせてくれている。  
たどたどしい動きではあるけれど、彼女にされたことを真似て、乳房を強く弱く揉みしだき、  
その先端で硬く尖る乳首をつまむ。  
それに合わせて彼女が声を漏らすと、その声を飲み込むように唇に吸いつく。  
歯と舌で誾千代の唇を嬲り、舌で歯を辿って、溶けた眼差しでこちらを見てくる彼女の顔を見ていると、  
「稲殿……」  
と吐息混じりの切ない声で名前を呼ばれ、稲は自分の中に欲情が走り抜けるのを感じた。  
彼女はそれ以外に何も言わなかったけれど、半開きになり自分の唾液のせいで濡れた唇が  
何を欲しているか分かった気がして、稲も彼女を呼ぶと、僅かに舌を覗かせたまま彼女と唇を重ねた。  
自分たちの身体の間で乳房が潰れる。  
こちらの肌を硬くなった誾千代の胸の先が押してくる。  
誾千代の口の中をゆっくりと探りながら更に身体を押し付けていくと、自分の胸の先と彼女のそれが触れ合い、  
稲は思わず身体を引いた。  
唇と唇の間に透明な糸が架かり、ぷつりと切れた。  
「あっ……あの……」  
何故か急に今まで自分が誾千代にしていたことが恥ずかしくなってきて、謝罪の言葉を口にしようとすると、  
誾千代の親指に唇を拭われた。  
「稲殿……。横にならぬか?  
 このままだと、稲殿を……抱けないからな」  
親指についた唾液を舐めながら誾千代は笑った。  
また誾千代に翻弄されてしまうのだろうと思ったけれど、自分にはこれ以上のことは出来ないように思えたから、稲は、  
「はい」  
と頷き、誾千代に身体を支えられながら横になった。  
右肩を下にして、ちくちくと頬をくすぐる藁の硬さを感じていると、誾千代が隣にごろりと横になり、  
「少し失礼するぞ」  
と頭の下に手を入れてきた。  
 
何をされているのかよく分からずにいると、  
「もう少しこちらへ」  
と言うから、頭を誾千代の腕に乗せたまま、身体を近づけていくと、強く抱きしめられた。  
力強く優しい腕が稲を包み込む。  
触れ合う肌が暖かい。  
「やはり私はされるよりする方が性に合っているな」  
「……それは、そうかもしれませんが、稲だって立花様にもっと触れたいです」  
左肩さえ動けば自分だって、と言いたいが、その原因を作った本人にそれは言えない。  
それに言わなくとも誾千代はそんなことは分かっている。  
だから、稲にはあれ以上のことは出来ないと思って、今こうしてくれているのだろう。  
稲が顔を上げて顎に口づけると、  
「そうだな」  
と鼻の頭に口づけを返してくれた。  
「私も稲殿に触れられたい。  
 稲殿に触れられると夢の中に居る時のように心地よくなる」  
「立花様……」  
誾千代からの言葉が嬉し過ぎて、自分の言葉を失っていると、唇が寄ってきた。  
それに応えて自分も唇を寄せる。  
唇が触れ合うと、二人は互いの唇を吸い、舐め合った。  
時々どちらかがいたずらをするように唇を噛むともう一方がわざと逃げる。  
そうしてまた触れ合う時には互いの目を見てくすくすと笑い合う。  
誾千代は頬や耳をくすぐりながら口づけてくるから、代わりに稲は誾千代の腕や胸に触れた。  
すると今度は誾千代が胸に触れてくる。  
傷に触れないように優しく、けれどちゃんと稲が心地よいと感じる場所を撫でてくる。  
堪えきれずに声をこぼすと、その声を誾千代が唇で捕えてくれる。  
そんなことを繰り返して、互いの舌が絡み合い、唇が離れなくなってきた頃、  
手がするりと腰に降りてきて稲の左脚を持ち上げた。  
開かれた脚の間に誾千代の脚が入ってくる。  
経験の差だと分かってはいても、身体全てで彼女を感じたいという欲求を見透かされているようで恥ずかしい。  
一瞬、身体をこわばらせると、誾千代の唇がわずかに離れ、  
「稲殿も……」  
と言われた。  
 
誾千代に導かれるまま、彼女の脚の間に自分の脚を入れながらこくこくと頷くと、誾千代は笑いながら口づけてくれた。  
「やはり稲殿は可愛らしい」  
「そっ……!立花様だって、さっきは可愛らしかったのに……っ」  
稲が抵抗を見せると、誾千代がきょとんとしてから顔を赤くした。  
「……そのように奇異なことを思うのは、稲殿だけだ」  
つまり先ほどのような誾千代の表情を知っているのは自分だけ、ということだろうか。  
稲は嬉しくなって、  
「それならいいです」  
とやや不満そうな誾千代に口づけた。  
「な、何がだ」  
誾千代はまだ何か言いたそうな顔でこちらを見たが、稲は自分の気持ちを言葉にはせず、口づけ、  
更に身体を寄せることで表した。  
誾千代ももうそれ以上は問わず、同じように自分たちの距離を無くそうと抱きしめてくれた。  
口づけが荒くなる。  
互いに相手の深くまで潜っていこうとするかのように舌を絡め、粘膜を舐め合って、息が詰まる直前まで求め合う。  
まともに思考することができず、そのせいで身体が相手を求める心と与えられる快楽に忠実になっていく。  
「ッ……っち、…ばなっ……さまっ!っっ……ああッ!」  
「稲っ……いなっ…どのっ!……ふっ……ッッ……ア……くっ」  
ほんの少し空気を飲むと同時に相手の名を呼び、熱に浮かされた目で見つめ合う。  
また口づけては身体が望むにまかせて脚を絡め合い、相手の身体の中心に自分の脚を押し付けて、  
二人は互いに快感を与え合った。  
「んー!あっ……あ、ぁあッ!」  
「はッ……く…んあッ!」  
二人の声が混ざりあい、互いの耳に響き、欲情を高めていく。  
「あぁっ、あっ……ん、もぅっ……だ、めえッ!」  
稲が強く首を振ると、誾千代が稲の頭を抱え込んだ。  
「アッ……ぃ、なっ……っしょ、に……あ、ぅんッ」  
誾千代の言葉に頷くように稲は彼女の肩に額を押し付け、そこで稲の意識は途絶えた。  
 
ふと目を開けると、納屋の中はすっかり明るくなっていた。  
格子から外を見ると、空は青さを増してきている。  
昼にはなっていないようだが、早朝というには遅い時間らしい。  
稲は身体にかかっていた着物で胸を押さえながら、ゆっくりと身体を起こして辺りを見回した。  
まだ肩は痛むが、そんなことは問題ではない。  
誾千代が居ない。  
昨夜のことは夢だったのではないかと思うほどに空気が澄んでいる。  
もう一度辺りを見回すと、納屋の隅に自分の鎧と折れた弓、それと矢が置かれていた。  
ゆうべは暗くて分からなかったが、誾千代はちゃんと持ってきてくれていたらしい。  
安心し、彼女に感謝すると同時に、やはり彼女が居ないことに不安を覚えて、着物を身につけたら  
彼女を探しに行こうと思い、立ち上がろうとした瞬間にからりと戸が開いた。  
とっさに着物を押さえて顔を上げると、片手に桶を持った誾千代が立っていいた。  
しっかりと鎧を身に付けた誾千代は、稲の顔を見ると、目を細めた。  
「稲殿、起きられたか」  
「立花様……」  
ほっとしてまた座り直すと、誾千代は片手に桶を持ったまま、後ろ手で戸を閉め、  
「湯を貰ってきた。身体を拭こう」  
と言ってくれた。  
「ありがとうございます」  
「礼を言われるようなことではない」  
誾千代は傍に膝をつくと、腰に下げていた竹筒を渡してくれた。  
「水も貰ってきた」  
稲がそれを受け取ると、誾千代は湯の中の手拭いをたたんでそれをきっちりと絞り、  
「腕を」  
と手を差し出した。  
「あの……立花様は?」  
稲が尋ねると、誾千代は稲の腕を取りながら、  
「稲殿が寝ている間に」  
と言った。  
 
そんなことにも気付かずに眠りこけていたのかと思ったら、稲は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。  
「もっ、申し訳ありません!  
 あの、稲は自分で拭けますから」  
「怪我人は黙って人の言うことを聞くものだ」  
誾千代は穏やかな笑顔でそう言うと、水を飲むようにと竹筒を指してから、また手拭いを湯につけた。  
言われたまま水を飲み、言われた通り黙って背を拭いてもらう。  
稲は誾千代の手が肌に触れるたびに稲は鼓動が速くなっていくのを感じていた。  
けれど誾千代は何も言わない。  
昨夜のことは夢だったのだろうか?  
そう思えるほど涼しい表情で身体を拭いてくれる。  
だから稲は何も聞けなかった。  
さすがに胸や腹は自分でやると言い張って自分で拭いていると、誾千代が胸元をじっと見つめているのに気がついた。  
夢だったのではと思い始めていたせいで、稲が思わず胸元を隠すと、誾千代は、  
「今更隠すこともないだろう?」  
と稲の手をどけさせ、傷口のすぐ下を辿りながら、  
「やはり残ってしまうな」  
と表情を曇らせた。  
その表情に胸が痛む。  
「……立花様」  
昨夜のことが夢でないなら、傷を付けたことで稲を自分のものと思ってくれた筈なのに。  
立花様に付けられた傷なら消えてほしくありません、と言えない。  
「もう一度薬を塗っておくといい。  
 それから、私が使っていたもので悪いが、これを使え。  
 ゆうべ使っていたのは血塗れだったからな、それよりはいいだろう」  
とさらしを差し出してくれた。  
「……ありがとうございます」  
それ以外に何も言えず、稲が誾千代から受け取った薬を傷口に塗ると、誾千代は丁寧にさらしを巻いてくれた。  
彼女がさらしを巻いていた姿も、さらし越しに触れた乳房の感触も、その後、直に触れた肌の感触も全て覚えている。  
唇にだってまだはっきりと誾千代の唇と、舌で嬲られた時の感触が残っている。  
なのに、稲にはそれらが全て幻に思えて仕方がなかった。  
 
誾千代はさらしを巻き終えると、稲が着物や鎧を身に付けるのを待ち、手の届かないところは手伝ってくれた。  
稲の鎧は弓を引きやすいように、他の武将のもの程硬い作りはしていない。  
けれど、簡単に刀を通すようなものでもない筈なのに、左肩の肩当ては見事に割られていた。  
「さすがです。立花様。  
 この肩当てが無かったら、稲の左腕は身体と離れていたかもしれません」  
稲が無理に笑顔を作ってそう言うと、誾千代は、  
「物騒なことは言わないでくれ。  
 いや、もちろん、それが出来たらそれはそれで誉ではあるだろうが……。  
 そんなことにならなくて良かった」  
と刀傷の残る胸当てに指を滑らせながらため息をついた。  
やはり夢だったのか現実だったのかが分からないまま、稲が誾千代を見つめていると、  
誾千代は今度はそこに座れと言ってきた。  
言われるまま藁の上に腰を下ろすと、誾千代は後ろに立って、髪を梳いてくれた。  
「すまんな。櫛などという気の利いたものを持っていないのだ」  
そう言いながら何度も丁寧に指を通して、  
「このあたりでいいか?」  
と、いつも稲がしているように、髪を高く結いあげてくれた。  
「あの、本当に何から何まで……」  
髪を撫でられただけで、こんなに胸が高鳴るのは幸せでいながら悪い夢を見たせいなのだろうか?  
彼女の顔を正視できないまま稲が頭を下げると、誾千代は、  
「どうした稲殿。今日はやけに殊勝だな。  
 ゆうべ、この立花を押し倒し、自分を斬れと言った御仁とは思えん」  
と笑った。  
一瞬の間をおいて、顔がかぁっと熱くなる。  
夢ではなかったのだと嬉しく思うのだと同時に、そんなことまでしでかした自分が恥ずかしくてたまらない。  
「あのっ、そ、その節はっ、申し訳ありませんでしたっ!」  
稲が思い切り頭を下げると、誾千代はまた笑った。  
「何も謝るようなことはない。  
 謝るのだとしたら、私の方だ」  
顔を上げると、するりと頬を撫でられ、誾千代の指が滑った後を追うように頬がまた熱くなる。  
「立花様が?」  
「稲殿を拒むことも、受け入れることも決められず、あそこまで言わせてしまった。  
 ……不甲斐ないことだ」  
「そんなことは」  
最後はちゃんと自分を受け入れてくれたではないか、稲はそう言いたかったけれど、  
誾千代は頬に添えていた指で稲の唇をそっと閉ざした。  
「稲殿。ありがとう」  
何に対しての礼なのか、稲には分からなかったけれど、誾千代が昨夜のことを後悔してはいないのだ  
ということは伝わってきた。  
稲は誾千代の手を取り、自分の口元からそっとその手を遠ざけると、  
「立花様も……ありがとうございました」  
と告げた。  
 
納屋の外に出ると、空はよく晴れていた。  
青い空の所々に雲が浮かんでいる。  
「また会う時は戦場かな。  
 東軍の勝利となったが、そう簡単に徳川殿の天下を認める者ばかりでもあるまい」  
誾千代は馬に鞍を乗せながら言った。  
「その際は東軍にご加勢下さい」  
「さて、どうなるか。  
 西には反骨精神を持つ輩が多い」  
「……では、もしまた戦でお会いしたならば、次こそは絶対に負けません。  
 いえ、勝ちます!」  
稲がこぶしを作ってそう言うと、誾千代はこちらを向いて、  
「立花が簡単に勝ちを譲るとでも?」  
と目を細めて不敵な笑みを作った。  
「そうでなくては鍛錬をする甲斐がないというもの」  
「楽しみにしていよう」  
誾千代はそう言うと、稲に手を差し出した。  
その手を取って馬に乗せてもらう。  
ここで別れてしまったら、次はいつ会えるか本当に分からない。  
鍛え直した自分を見てもらいたいと思う反面、戦場などではなく、どこか穏やかな場所で会い、  
今度はもっとゆっくりと語り合えたらと思わずにはいられない。  
けれど、自分たち二人の間にそんな女々しい期待は不要だ。  
稲は胸の痛みを封じ込め、  
「立花様……ご無事で」  
と、誾千代に出来る限りの笑顔を向けた。  
誾千代も笑みを返してくれる。  
「稲殿も、息災で」  
稲は頷くと、馬の腹を蹴った。  
馬が走り出し、誾千代が遠くなっていく。  
左肩の傷が酷く痛む。  
この傷がいつまでも消えないことを願いながら、稲は東へ向けて馬を走らせた。  
 
(了)  
 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円~!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル