左肩に強い痛みを感じて目を開けると暗闇が見えた。  
しばらく目を開けていると、その暗がりに目が慣れてきた。  
どうやら納屋のような所らしく、自分は藁の上に寝ているらしい。  
外では雨の音がしている。  
身体のあちこちが痛んだが、その痛みを堪えて身体を起こすと、  
身体の上に掛けられていたものが落ちた。  
反射的にそれに手を伸ばすと、肩に激痛が走った。  
どうやら左の肩から胸まで傷があるらしく、そこがひときわ酷く痛む。  
しかし、手当てがしてあり、胸には布が巻きつけられている。  
暗がりの中で良く見ると、身体に掛けられていたものは自分の着物だということが分かったが、  
同時に白い筈のそれは半分が黒く染まり、硬くなっていた。  
どうやら血が固まってそうなっているようだったけれど、稲は片手でそれをどうにか肩に羽織り、  
再度辺りに注意を配った。  
人の気配はない。  
どういうことだろう?  
不思議に思いながらも用心深く視線を巡らせて自分の武器を探したが、視界に入る範囲には見当たらない。  
どこかに隠されたのだろうか?  
助けてくれたのが味方であれば、武器も一緒に持ってきてくれているはずだが、  
それがないとすると、ここに連れてきたのは近くに住む農民だろうか?  
それとも……敵?  
ならばなぜ手当てなどしたのだろう?  
そして、なぜ自分をこんな場所に連れてきたのだろう?  
そう言えば、戦は……関ヶ原での戦はどうなったのだ。  
稲は次第に自分の意識が無くなる直前のことを思い出してきた。  
殿は?父上は?  
こんな所で悠長に寝ている場合ではない。  
弓を見つけて、殿の元へ行かなくては……!  
痛む左肩を押さえて立ち上がろうとしたところで、からりと戸が開いた。  
「何者っ!」  
稲が膝をついて身構えると、戸を開けた人間はそこに立ち止まり、声を発した。  
「稲殿。気がつかれたか」  
 
「立花…様……?」  
よく知った声に稲の身体から緊張が抜けた。  
ァ千代はちらりと後ろを振り返ると、すぐに中に入って戸を閉め、稲の前に膝をついた。  
「水を貰ってきた。飲むといい。  
 食べる物も、少しだがある」  
低い声で囁かれ、稲は身体が熱くなるのを感じた。  
自分が焦れている人が自分を救ってくれた。  
そして、怪我の手当てまでしてくれた。  
稲は肌を見られたであろうことに思い当たり、ァ千代が同性であるにもかかわらず顔を熱くした。  
「ありがとう……ございます」  
暗がりで表情は見えないが、どうやらァ千代は頷いたらしく、竹筒と竹皮で包まれたものを稲の足元に置くと、  
少し離れた位置で刀を外した。  
鎧を外す音がする。  
稲がしばらくの間、ァ千代が鎧を脱ぐ影を見つめていると、ァ千代に声をかけられた。  
「稲殿。少し食べた方がいい。  
 せめて水を……ああ、毒など入っていないから心配は無用だ」  
ァ千代は笑ったようだったが、そんな気遣いをァ千代にさせてしまい、稲は慌てた。  
「あっ……は、はい。  
 いえ、そんな毒など……疑ってはおりません」  
「丸二日、意識を失っていたのだ。  
 その間、二度ほど飲ませはしたが、身体が乾いているだろう」  
水を飲んだ記憶は全くなかったが、どうにかして口に運んでくれたのだろう。  
一瞬不埒な想像が頭をよぎったが、愛しい人が手拭いで身体を拭いているらしい影を見るうちに、  
そんなことを考えてはならないと、稲は慌てて視線を逸らし、  
「……いっ、いただきます」  
と竹筒の栓を抜いてそれに口を当てた。  
 
水を口に含んで初めて気付いたが、ァ千代に言われた通り、喉はからからに乾いていた。  
無駄に水を飲んではいけないと思うのに、身体が水を欲して、稲は竹筒をほぼ空にしてしまった。  
「身体は思ったほど、悪くはないようだな」  
ァ千代は帷子を身に付け、明るい声でそう言いながら傍に寄ってきた。  
「……も、申し訳ありません」  
どう返していいか分からず、見当違いなことを言うと、彼女は隣に腰を下ろしながら笑った。  
「何も謝るようなことではない。  
 斬ったのは私だが……、無事で良かった」  
ァ千代の方に顔を向けると、外からのわずかな明かりで彼女の憂いを含んだ表情が半分だけうっすらと見えた。  
「立花様……」  
稲はァ千代と刃を交えた光景を思い出していた。  
 
自分が守っていた砦にァ千代は護衛一人のみを連れ、突入してきた。  
周りの雑兵たちを木の葉でも払うかのように切り捨てて、彼女はあっという間に自分と対峙した。  
自分の焦がれた人は本当に強く美しいと、見惚れていたような記憶がある。  
見惚れてはいたけれど、ァ千代に名乗りをあげられ、稲はすぐさま弓を構えた。  
自分の弓は刀と打ち合うだけの強さを備えたものではあるけれど、それでも所詮弓は弓。  
しかも相手は立花ァ千代だ。  
間合いに入られたらこちらの方が分が悪い。  
幾度か間合いに入られかけたが、それでも払いのけ、打ち返し、矢を放って、一進一退の攻防を繰り返した。  
しかし、ついには間合いを詰められ、競り合いはしたものの、最後には弓が真ん中から真っ二つに折られた。  
 
覚えているのはそこまでだが、おそらくその直後に斬られたのだろう。  
しばらく沈黙があったが、稲はその時の彼女の強さを思い出し、口を開いた。  
「立花様はやはりお強かった。  
 稲はまだ修行が足りません」  
ァ千代は静かに微笑んだようだったが、その表情ははっきりとは見えず、稲はこの暗がりを恨めしく思った。  
 
「……立花様」  
またしばらくの沈黙の後、稲は自分の中に浮かぶ疑問に対する答えが見つけられず、口を開いた。  
「何か」  
「その……何故、稲を助けて下さったのでしょう?」  
ァ千代は、ああ、と呟いてからその時のことを教えてくれた。  
 
ァ千代は勝負がついた後、家康の元へと向かおうとした。  
しかし、彼女が馬を駆ろうとしたその時、本陣が陥落したとの知らせがァ千代の元へと届いた。  
それでも家康を討ちに行くことも考えたが、三成が居なくなった今、家康を斬ろうとしたという事実だけを残し、  
万が一自分が死んでしまったら立花家が潰されてしまう可能性は高い。  
死ぬ訳にはいかないと、道を引き返そうとした時、ァ千代の頭に稲の顔がよぎった。  
斬った敵に情けを掛けるなど本来すべきではない。  
しかし、どうしても稲を放っておくことが出来ず、ァ千代は彼女の元へと舞い戻った。  
戻ったァ千代が見たものは血まみれの稲を囲む男たちだったという。  
今にも死にそうな程に血を流して気を失っている女を囲む男たちを見た瞬間、頭に血が上ったァ千代は  
男たちが西軍の兵であるにもかかわらず、その場で切り捨てた。  
そしてそのまま稲を連れ、戦場からさほど遠くないこの納屋に身を隠した。  
 
「すぐそこの百姓が食べ物を分けてくれたのだ。  
 密告しないでいてくれると助かるのだが、……まあ、その時はその時だ」  
ァ千代は竹皮の包みを解くと、握り飯のようなものを一つこちらに渡してくれた。  
「ありがとう、ございます……」  
礼を言わなくてはいけないことが多すぎて、何に対しての礼なのか分からないまま、稲はそれを受け取った。  
「礼など要らぬ。晴れたらすぐにでも近くの領地へ行き、医者に傷を見てもらうといい。  
 血止めの薬は塗ったが、しょせんその場しのぎだ」  
ァ千代はいつもと変わらない調子でそう言ったが、稲はそれを聞いてはっとした。  
二日前に戦が終ったということは、西軍はもう引き返し始めているはずだ。  
それなのにァ千代は自軍に戻らず、自分についていてくれた。  
彼女は安全に戻ることができるのだろうか?  
 
「立花様は……?」  
恐る恐る尋ねるとァ千代は口に入れた米を飲み込んでから、  
「兵たちは夫……宗茂がまとめて連れ帰ってくれるだろうから、心配は無用だ。  
 気にくわない男だが、兵たちを粗末に扱うようなことはしない」  
ァ千代はそう言うと、また握り飯を口にした。  
しかし、それは稲の求めている答えではない。  
「そうではなく、立花様ご自身はいかがなされるおつもりですか?」  
「私は一人ならどうにでもなる」  
「ですが、お一人で帰るには九州は遠っ……ツッッ!」  
自分が感じた不安など彼女にとっては大したことではないのだろうが、  
ァ千代が一人、敵の目を潜り抜けながら遥か九州の地まで帰っていくことを考えただけで、  
稲は胸が締め付けられて、思わず身体を乗り出し、薄らいでいた痛みが稲の身体を貫いた。  
「稲殿!」  
ァ千代がとっさに腕を伸ばして、身体を支えてくれた。  
彼女の手は冷たかった。  
にもかかわらず、触れられている場所が熱を帯びる。  
「心配してくれて……ありがとう。  
 私は大丈夫だ。無事に帰ると約束しよう」  
彼女は優しい声でそう言ってくれたけれど、その優しさと自分の不甲斐なさが相まって、稲は目頭が熱くなるのを感じた。  
「申し訳……ありません。  
 この稲が弱いせいで……」  
ァ千代に泣いている姿など見せたくないのに、声が震えてしまう。  
「そんなことはない」  
そう言ってくれる彼女に首を振ってしか否定を示すことができない。  
「稲殿……。  
 こんなことを言うと稲殿を侮辱しているように取られてしまうかもしれないが、  
 稲殿は今、怪我をしているから少しだけ気持ちが弱くなっているように感じるのだと思う。  
 怪我が治ればそのような気持ちなど」  
「違うのです!」  
稲は堪えきれずにァ千代の言葉を遮ってしまった。  
 
「違うのです、立花様。……怪我のせいでは、ないのです」  
稲は自分の身体からァ千代を離そうと、彼女の手に自分の手を重ね、その手を引いた。  
「稲殿?」  
されるままァ千代は手を離しはしたが、腰を下ろすことはせず、膝をついたまま自分を見つめているようだった。  
たったそれだけのことなのに、胸が痛い。  
想い人と二人きりで居るというのに、それが苦しくて仕方がない。  
いっそ見捨ててくれたらどれだけ楽になれるだろう。  
こんな自分は見捨てて、早く九州へ、少しでも安全な場所へ戻ってほしい。  
「稲は、立花様に……ずっと……想いを寄せていました。  
 叶う筈もない想いです。  
 想いが叶わなくとも、立花様に侮蔑されないように、心を強く持ち、弓の腕を磨いてきたつもりです。  
 立花様と渡り合う度に貴女と対等に渡り合えていると自負してきました。  
 そして、それでも奢らぬようにと鍛錬を重ねてきました。  
 貴女を想いながら己を磨く、それだけで稲は十分に幸せだった。  
 けれど、今回は負けてしまった。  
 負けてしまっただけなら、今まで以上に腕を磨こうと省みることができたでしょう。  
 ですが、男たちに囲まれたことにも気付かず、立花様に助けられ、そして今、  
 立花様の帰路を塞いでいるのは東軍の誰でもない。  
 稲の弱さです。  
 肉体も心も弱いせいで、立花様を危険に追い込もうとしている。  
 それが悔しい……そしてまた、こんなことを立花様に打ち明けている自分にももう……」  
今まで隠してきた想いを一度口にしてしまうと、稲は半ば自暴自棄で全てを吐露してしまった。  
呆れてくれて構わない。  
こんな自分など見放して、軽蔑して、放っておいて、まだ東軍が西軍の残党を追う準備を整える前に  
九州の地へと戻ってほしい。  
稲は一度唇を噛むと、声が震えないよう自分に言い聞かせ、  
「立花様、今ならまだ東軍も軍を整えているところでしょう。  
 今のうちに、九州へお戻り下さい」  
とァ千代に告げた。  
 
しかしァ千代は、  
「稲殿を置いて行ける筈などないであろう」  
と言った。  
「立花様!  
 稲を……稲をこれ以上、弱い人間にしないで下さい!」  
優しい言葉をかけられたら期待してしまう。  
縋りついてももいいのかと、想いを寄せたままでもいいのかと、浅ましい勘違いをしてしまう。  
「稲殿。  
 今ここで貴女を置いて行けるくらいなら、私はあの場で貴女の元へ戻ったりはしなかった。  
 けれど私はあの時、どうしても稲殿のことが気にかかり、そして戻った。  
 ……私が男たちに怒りを感じたのは抵抗できない女を取り囲んでいたからでは、……ない。  
 それだけなら斬り殺したりなどしなかった」  
死んでしまうのではないかと思うほどに胸を締め付けていた痛みに甘美な香りが絡みつく。  
「立花様……」  
「稲殿。  
 私がここに居ては迷惑だと言うのなら、私は去ろう。  
 だが、そうではないのなら、今しばらくここに居ても構わないだろうか?」  
「立花様……。  
 そんな優しいお言葉をかけられたら、稲は……稲は……」  
勘違いをしてしまう。  
この人も自分を少なからず想ってくれているのではないのかと。  
だからあまり優しくしないで下さい。  
そう告げたいのに言葉にできず、稲が俯くと、冷たい手のひらが頬に触れた。  
どきりとして思わず顔を上げると、ァ千代の顔が先程より近くにあった。  
「稲殿。まだ熱がある。  
 しばらく休まれよ」  
「……立花様……もしやお身体が冷えていらっしゃるのではありませんか?」  
鼓動が速くなっている癖にァ千代が触れてくれた手が離れていくのが切なくて、  
頬に寄せられた手に自分の手を重ね、そう問ううと、  
「雨に降られることなど良くあることだ」  
と返ってきた。  
 
「ではこれを」  
稲が肩に羽織っていた着物を渡そうとすると、ァ千代は稲の頬から手を引いて首を横に振った。  
「熱がある時は身体が傷を癒そうとしている時と聞く。  
 熱が苦痛ならば別だが、少しでも温めていた方が治癒の助けになるのではないか」  
ァ千代の言っていることは正しい。  
けれど、熱のせいか、あさはかな期待が理性のたがを外したのか、稲は気づくと、  
「けれど、冷えた身体は熱のある身体以上に温める必要があると思うのです。  
 ……立花様、稲の熱を使っては下さいませんか」  
と告げていた。  
顔がひときわ熱くなったが、口にしてしまった言葉は元には戻せない。  
稲は醜い言い訳をいくつも思い浮かべながらも口を閉ざし、ァ千代の言葉を待った。  
「……だが、それでは稲殿を冷やしてしまう」  
沈黙に耐えきれなくなってきた頃、ァ千代から返ってきたのは拒絶の言葉ではなかった。  
むしろどこかァ千代も触れ合うことを望んでくれているような、そんな気さえしてしまい、  
稲は己の中にあるァ千代に対する想いが急速に自制を失っていくのを強く感じていた。  
「稲の身体は、そのくらいでは冷めません」  
それどころかもしァ千代と触れ合うようなことになったとしたら、いくらでも熱を帯びるだろう。  
暗くて表情は分からないけれど、ァ千代は返答に窮しているのか、稲の視線から逃れるかのように横を向いている。  
彼女を困らせてしまった。  
自分には想い人でも彼女にとっては、剣を幾度か交えただけの敵でしかない。  
そんな相手と肌で触れるなど、ァ千代には思いつきもしなかったことだろう。  
それなのに自分ときたら……。  
「申し訳ありません。立花様を困らせて」  
「いや、違う……違うのだ」  
ァ千代が稲の言葉を遮った。  
「立花様?」  
「稲殿のせいではない。私が……」  
彼女にしては珍しく歯切れの悪い物言いをする。  
「稲のせいではないとおっしゃって下さるのですか?」  
「そうだ。稲殿のせいではない。  
 稲殿の申し出を……嬉しく思ってしまった自分に戸惑っているのだ」  
ァ千代が再びこちらを向いた。  
 
くらくらとめまいがするが、熱のせいばかりではない筈だ。  
「すまない」  
「謝罪など……」  
謝罪など要らない。  
嬉しいと思ってくれたのなら、求めて欲しい。  
たとえそれが体温のみを求めるものだったとしても構わない。  
自分の熱が尽きるとは思えないけれど、もし望んでくれるのなら自分の熱を全て奪い尽くしてくれて構わない。  
どう伝えたら、ァ千代に分かってもらえるのだろう。  
何を言ってもァ千代は首を縦に振らない気がする。  
胸の苦しさがその強さを増す。  
自分は彼女を困らせることしかできないのだろうか?  
稲は堪らずに右手をァ千代に伸ばし、彼女の腕を掴んだ。  
布に鎖が編み込まれた帷子は冷たく濡れていて、稲は火照った身体にぞくりと寒気が走るのを感じた。  
「立花様!こんなものを着ていては身体は冷える一方です!  
 ……これをお使い下さい。  
 稲には立花様のお心遣いだけで十分です」  
「……だが」  
「立花様は頑固です。  
 稲は大丈夫だと申し上げているのですから、少しはご自分のことを心配なさって下さい」  
稲が着物を押し付けて言うと、さすがに諦めたらしく、ァ千代は、  
「分かった。ありがたく使わせてもらう」  
と頭を下げて、稲の隣に座り直して、帷子を脱いだ。  
ほっとしたと同時に、暗がりに浮かび上がったァ千代の白い腕にどきりとする。  
普段は鎧に覆われて分からないけれど、戦人のそれらしく、無駄な肉など微塵もなく美しい線を描いている。  
ァ千代は稲の着物を肩から羽織ると、藁の上に帷子を広げて置いた。  
「稲殿の熱が残っているせいかな。やはり温かい」  
彼女は座り直すと着物の襟を頬に寄せるようにしてそう言った。  
そんな仕草にも鼓動が速くなる。  
稲は身体が触れそうになるくらいまで彼女の傍に身を寄せた。  
触れ合うことなどしなくとも、これだけ近くに居られたらそれでいいではないか。  
「……お役に立てて、嬉しいです」  
稲は小さく呟いた。  
 
二人は膝を抱えたまましばらくの間、話をした。  
自分の暮らす土地のこと、戦のこと、父親のこと。  
左肩の傷はずきずきと痛んでいたけれど、稲はァ千代とこうして話が出来るだけで満たされるものを感じていた。  
そのうちに、雲が薄くなったのか、雨の音が弱くなり、外がわずかに明るさを増してきた。  
少し寒さを感じて身体を小さくすると、不意に右腕が重くなった。  
彼女の方に顔を向けると、彼女の腕が自分の腕に押し付けられている。  
着物越しにァ千代の腕が押し付けられている。  
「たち……ばな、さま?」  
「こうすれば少しは暖かいかな」  
ァ千代がこちらを向いて笑った。  
「はっ、はいっ!」  
今までで一番近い距離に顔がある。  
せっかく普通に話を出来るようになってきていたというのに、また動悸が強くなってきた。  
いつも敵をまっすぐに見据える目が今は優しく自分を見ている。  
凛として誇り高く立花を名乗る唇が自分に微笑みかけている。  
稲の思考力は目の前のァ千代に完全に取り払われ、己を自制するということさえ思いつかなかった。  
言えたのは、  
「立花様、お許し下さい」  
ということだけで、稲は目の前のァ千代に口づけた。  
 
すぐだったのか、それともかなり時間があったのか、稲には分からなかったけれど、  
稲が顔を引くまでァ千代が顔を引くことはなかった。  
ただ、稲が目を開くと、ァ千代は黙ったまま前を向いてしまった。  
何も言えず、稲も前を向くと、右腕から彼女の温度が離れていってしまい、稲はァ千代を視界に入れることさえ  
申し訳なく思って目を強く瞑った。  
しかし、すぐに肩に腕が廻ってきた。  
空気に晒されていた肌に着物の裾が触れ、直に触れた肌はまだ冷たかった。  
「……っ!?」  
訳が分からずにァ千代の方を向くと、  
「この方がきっと暖かいだろう。  
 ……いや、稲殿には私はまだ冷たいか?」  
と、彼女は笑いかけてくれた。  
 
「立花様……」  
彼女の行動をどう解釈していいか分からないまま、それでももう一度彼女に触れたいとほんの僅か顎を上げると、  
ァ千代の顔も僅かにこちらに寄せられた。  
右腕に粗いさらしの感触とその布を通じて柔らかい乳房の感触が伝わってくる。  
もう少し動作を大きくすると、再び唇が触れ合った。  
ァ千代は逃げるようなことはなく、唇が押し付けられた。  
右手を藁の上について、隙間を塞ごうと唇を密着させる。  
身体中のありとあらゆる場所が熱を発している。  
ァ千代と触れ合っている部分だけがひんやりとして心地よく、彼女が自分に触れていることを感じさせてくれる。  
稲は今までに感じたことのない想いに戸惑いを感じ始めていた。  
ァ千代と二人きりで、肌が触れあい、口づけまで交わしている。  
幸せという以外に今の気持ちを表現する言葉などない筈なのに、本当にこの状況が正しいことなのか、  
この後どうなってしまうのか、という不安が次々に浮かんでくる。  
しかもそういう不安を抱いているにもかかわらず、もっとしっかりと触れ合いたいと思ってしまう。  
左肩さえまともに動くのであれば、両腕でァ千代を抱きしめたいと思ってしまう。  
せめて手で触れるだけでも、と肘から先を動かすと、肌の上を何かが滑る感触がして、  
ぱさりと着物が落ちる音がした。  
火照った身体に湿った空気が触れて、稲は夢から覚めたようにァ千代から顔を離した。  
幸福感と不安感を行き来していた思考がその振れ幅をゆっくりと縮めていく。  
唇に残るァ千代の柔らかい唇の感触は、触れ合っていた時よりむしろはっきりとしている。  
今までに感じたことのない疼きが身体を取り巻いている。  
もっとァ千代と密に触れ合いたいと望む一方、三度触れ合ってしまったら、疼きに支配されてしまいそうで、  
どうしていいか分からないままただァ千代の端正な顔を見つめていると、目の前の瞼がゆっくりと開かれた。  
「稲殿、身体は大丈夫か?」  
自分は自分のことだけで目一杯だというのに、彼女は自分を気遣ってくれる。  
胸が締め付けられるのに、その痛さを心地よく思ってしまう。  
「……はい」  
稲が頷くと、ァ千代は、  
「良かった」  
と言って、髪を梳いてくれた。  
 
そうされてから初めて稲は髪が解かれていたことに気づいた。  
そんなことにも気付かないとは不甲斐ないどころの話ではない。  
そう思ったが、そんな稲には気付かないのか、気付かないふりをしてくれているのか、  
ァ千代は稲の髪を一房掬うとそれに口づけて、  
「稲殿は美しい」  
と言った。  
また顔が熱くなる。  
「髪も、身体も……。  
 それなのに、私はそんな稲殿を傷つけてしまった。  
 きっとその傷は消えない。  
 雷切はそういう刀だ」  
傷口がずきりとした。  
「だが、私は……稲殿に消えぬ傷を付けたのが自分であることに、優越を感じてしまった」  
ァ千代は髪を撫でるように唇を滑らせながら僅かに自嘲を含んだ笑みを作った。  
「ゆう……えつ?」  
「稲殿は私に会うたびに、私と刃を交えることを誇りだと言ってくれた。  
 そして、いつでも全力で己の誇りを徳川の武将である誇りをかけて戦っていた。  
 私はいつしかそんな稲殿と戦うことだけでなく、会えることが楽しみになっていた。  
 いつか、友人として語らえたら、と思っていたこともあった」  
ァ千代の自分に対する評価の高さに稲は驚きを隠せなかった。  
同時に、自分が自分を磨いてきたことは間違っていなかったとも思うことができた。  
「立花様にそう言っていただけて、稲は嬉しいです」  
ァ千代は静かに首を横に振って、髪から手を離すと、今度は頬を手のひらで包んできた。  
「だが、違ったのだ」  
「何が……でしょう?」  
「私は自分が男どもとは違う、かといってただの女ではない、立花ァ千代である、  
 ということを誇りに思ってきた。  
 しかし、私もそこいらの男どもと変わらなかったようだ。  
 稲殿に消えない傷を付けたことに優越を感じ、……この人は、……これは自分のものだと」  
身体を取り巻いていた疼きが稲の身体を侵食し始めた。  
 
「傲慢なことだ。  
 男どもを笑えない。  
 いつの間にか、良き敵であることも、いつかは共に戦いたいという想いも飛び越えていた」  
そんなことを言われたら、貴女のものにしてくれと、もっと傷を付けてくれと、言いたくなってしまう。  
いや、いっそのこともう言ってしまいたい。  
後悔など絶対にしない。  
「立花様!稲は」  
もう告げてしまおうと口を開いたが、ァ千代がその口にそっと指を当ててそれを遮った。  
「稲殿」  
ァ千代がまた首を振る。  
自分の想いを知っていながら、彼女自身の想いを告げておきながら、自分を受け入れてくれないァ千代に  
苛立ちを感じて、稲は右手で彼女の手首を掴んだ。  
「立花様!稲は、稲は後悔などいたしません!  
 立花様が稲を望んで下さるなら、たとえこのひとときでも構いません!  
 稲を立花様のものに……して、下さい……」  
「稲殿……」  
まだ躊躇いを見せるァ千代の態度に耐えかねて、稲はァ千代に抱きつくとそのまま藁の上に倒れ込んだ。  
「稲殿!?」  
倒れ込んだ衝撃で左肩を痛みが貫いたが、稲はそれを極力顔には出さず、右腕で身体を支えると顔を上げて  
ァ千代を見据えた。  
「立花様はおずるい。  
 そこまで教えて下さりながら、稲が立花様を望むことは許さないとおっしゃるのですか?  
 ならば何故、先ほど拒んで下さらなかったのです。  
 何故、想いを告げた私を放り、帰って下さらなかったのです」  
息が詰まりそうになって、言葉を切ったが返答はない。  
稲は続けた。  
「……それでも、やはり駄目だとおっしゃるのであれば、ここで稲をお斬り下さい」  
 
「稲殿!落ち着け!」  
ァ千代が目を見開き、身体を起こそうとしたが、稲はそんなァ千代を見つめた。  
「稲は自分が無礼を働いていることも、勝手を言っていることも承知しております。  
 ですが、もう自分の力では己を抑えきれない。  
 立花様ならば、今の私など簡単に押しのけることが出来るでしょう?  
 ふざけるなと私を押しのけ、私を斬って、そして九州の地へお帰り下さい。  
 想いを告げた方がここに居るのに、その方も私に戦友を通り越した想いを抱いて下さっているのに、  
 触れることを拒まれる……。  
 それならば、斬られた方がどれだけいいか分かりません」   
ァ千代の気持ちが分からない訳ではない。  
不仲が有名とは言え、彼女には夫がいる。  
そして何より彼女と自分は同じ性だ。  
じゃれ合いを通り越えて睦み合うことは互いを傷つけることになるだろう。  
そしておそらく、彼女は彼女自身の体面より、彼女に盲目的になって判断力を欠いている自分のことを  
気遣ってくれているのだろう。  
ある一線を越えてしまったらもう戻れない。  
だから越えさせまいとしてくれているのだろう。  
頭では理解できる。  
だが、もう遅い。  
一度目の、自分からの口づけを受け入れられた時点で、心だけでなく身体もァ千代と触れ合うことを  
覚えてしまった。  
そして、彼女の自分に対する独占欲を教えられた時、心は確実に彼女の虜となってしまった。  
残っているのは身体だけだ。  
その身体は怪我のせいで熱を持ち、彼女のせいで熱を増し、今は抗いがたい衝動に支配されている。  
水を浴びせられても、殴られても、この身体はきっと冷めない。  
冷静になれと言うのなら、身体を流れるこの熱い血を全て捨て去るために首の一つも刎ねてほしい。  
「……立花様に斬られるのでしたら、本望です」  
 
これ以上、自分の気持ちをぶつけないようにと精一杯笑って見せると、ァ千代は目を瞑り、  
ふう、と大きなため息をついた。  
我が強く、人の言葉に耳を貸そうとしない自分に呆れているのだろう。  
胸が締め付けられたが、そのくらいの方がちょうどいい。  
そう思っていると、ァ千代が目を開けて両手を伸ばしてきた。  
頬を打たれるかと思わず目を瞑ると、両頬を冷たい手が包み込んだ。  
その手に導かれるままに顔がゆっくりと降りていく。  
恐る恐る目を開けると、目の前にァ千代の目があった。  
戦場で対峙した時のような強い眼差しだった。  
「立花様……?」  
「立花と共に堕ちてもらうぞ」  
言葉の意味を解する間もなく、唇の間に何かが滑り込んできた。  
そしてそのまま口を塞がれ、頭を押さえこまれた。  
「んうっ!?」  
口の中を何かが這い回る。  
内から頬をえぐられ、口の中に唾液が溢れてきた。  
顔を引こうと思っても、両手で頭を捉えられてそれがかなわない。  
身体ごと引こうとしても右腕だけではどうにもならない。  
口内を犯される初めての感触に恐怖に近いものを感じていると、舌を絡め取られた。  
ざらりとしたものがまとわりついて、稲はようやくそれがァ千代の舌だと気がついた。  
自分に侵入してきたものの正体が分かり、僅かに冷静さは取り戻せたが、今度はァ千代と舌を絡め合っている  
という事実と、与えられる得体の知れない感覚にめまいがしてきた。  
彼女が舌を動かすたびに口内を満たす唾液が水音を立て、外から内から稲の耳を刺激する。  
「んっ!……ん、くっ…ふ……ン…ぅうっ」  
自分からも彼女を求めたいのにそんな余裕はどこにもなく、舌を嬲られるままに声を漏らす。  
時折僅かに出来る隙間から流れ込んでくる空気を胸に吸い込む他に出来ることがない。  
自分が望んだことの筈なのに、自分では何をどうしていいか分からないでいると、膝の間にァ千代の脚が入り込んできた。  
 
知らぬ間に身体の中心が痺れていたことに気付かされ、稲は慌てて脚を閉じようとしたが、  
それより先にァ千代の脚が稲の身体の中心へと昇ってきた。  
「たちっ……ふぁっ!」  
待ってくれ、と言おうとしたが、ァ千代はそれを許してはくれず、改めて頭を押さえこまれ、  
身体がぐいと押し上げられた。  
「んううッッ!」  
容赦なく太ももが脚の間に押し付けられ、初めて感じる快感が稲の身体を翻弄し始めた。  
「うっ!んんッ!んー!!うくっ!」  
情欲に支配されることなど初めてで、抗い方が分からない。  
けれどそれを高めるようなァ千代の動きは一向に止む様子はなく、むしろ強さを増してさえいるようだった。  
身体を支えきれずに、稲がァ千代の上に崩れ落ちると、ようやく頭を押さえこんでいた手が離れ、唇も離れた。  
「アッ!……い、んうっ!」  
溜まっていた唾液が一度にあふれ出し、ァ千代の顎まで濡らす。  
それが視界に入っているのにどうにもできないまま、稲はァ千代の肩に額を擦り付け、空気を貪り、  
それと同時に高く喘いだ。  
それでもァ千代は動くことをやめてくれなかったが、頭から離れた両腕で稲を抱きしめてくれた。  
身体を支えていた右手でァ千代の腕にすがりつく。  
「…っち……ばな、っっ…さ、……ぁあッ!……くっ!」  
悲鳴にも似た嬌声を上げそうになって、稲はとっさに唇を噛んだ。  
そうでもしていないと、もう意識がどこかに飛んでいきそうだ。  
だが、ァ千代はそれも分かっているらしく、朦朧とァ千代の横顔を見つめていた目には小さく笑んだ  
彼女の口元が映った。  
「どうした、稲殿……堪えることなど、ない」  
彼女の声も少し上ずっている。  
そうは言われてもこんな状況になったことが無いからどうしていいか分からない。  
自分がどうなってしまうか分からないから怖くて仕方がない。  
稲が唇を噛んだまま首を横に振ると、身体に与えられる力がほんの少し弱くなり、  
「ならば、私に歯を立てよ。  
 そうすれば……私が稲殿の苦痛を少しは引き受けられる」  
と言われた。  
そんなことが出来る筈がない、していい筈がない、とどこかで思いはしたようだったが、  
稲は言われるままに口を開き、ァ千代の肩に歯を当てた。  
ァ千代の手が背中を撫でてくれたけれど、稲を揺さぶる動きはまた強くなった。  
「あっ、くッ!」  
思わずァ千代に歯を立てたが、それを歓迎するかのようにァ千代は身体の芯を圧迫してくる。  
「んっ、んー!」  
これ以上はもう無理だと抗議の声を上げたつもりだったのに、ァ千代はそんな声には構うことなく  
稲の身体を突き上げ、稲は全身でァ千代にしがみつき、果てた。  
 
ふと気づくと、肩を抱かれ、頭を優しく撫でられていた。  
しばらくはその手の心地よさに身を委ねていたが、次第に何故今自分がこういう状況にあるのかを思い出し、  
稲は慌てて身体を起こした。  
いつの間にか雲が晴れ、ァ千代の整った顔が月明かりに照らされている。  
ァ千代は少し驚いたような顔で見上げ、そしてふっと笑った。  
「気がつかれたか」  
「あ、あのっ、申し訳ありませんっ!」  
その場に座り直そうとすると腕を引っ張られて、稲は再びァ千代の胸に抱きしめられた。  
「何に対して?」  
「えっ、あの、その、わ、我が侭を言った、り……ええと、たっ、立花様の上で、ね……眠ってしまっていたり……」  
色々なことが頭の中をぐるぐると駆け巡り、何から言っていいのか分からない。  
恥ずかしさで顔が熱いのに、ァ千代は構うことなく頬を指でなぞってくる。  
その指はもう冷たくなかった。  
「なるほど……。だが、それは謝るようなことではないな」  
それは、ということは他に何かあるのだろうか?  
思い当たることがありすぎて稲は言葉を失っていると、答えはまだかというように指で唇をつつかれ、  
稲はァ千代の舌の感触を思い出してしまった。  
まだ身体でくすぶっていた火照りに小さく火がついたのを感じて、稲が身を小さくすると、  
「稲殿?」  
と尋ねられた。  
何かいい訳を、と言葉が落ちている訳でもないのに周囲に視線を巡らせると、自分がァ千代の肩に付けた  
歯の跡が目に入り、  
「あっ!あの……立花様を、かっ……噛んでしまって」  
と答えたが、うーん、と不満そうな声が返ってきた。  
「それも違う。  
 だいたいそれは私がしろと言ったことだ」  
そうなってくるとまるで思いつかない。  
稲はもう一度身体を起こして、  
「教えていただけますか?」  
顔を覗き込んだ。  
 
ァ千代は楽しそうに笑って稲の髪を一度梳くと、身体を起こした。  
「やはり稲殿は美しい。  
 そして可愛らしいな」  
冗談でもそんなことをァ千代に言われたら嬉しくなってしまう。  
「かっ、からかわないで下さい」  
稲が口を尖らせて視線を逸らすと、ァ千代の顔が近付いてきて柔らかく口づけられた。  
胸がきゅっと甘く痛む。  
「からかってなどいない。本心だ」  
もう一度口づけられて、稲は自分からも唇を返すと、  
「……教えて、下さらないのですか?」  
と問うてみた。  
ァ千代の唇が耳に近付いてきて、低く甘い声が耳に囁いた。  
「私はまだ……満足していないのだが」  
かあっと顔が熱くなる。  
そう言われると確かにそうだが、ということはこれからまた……。  
「耳が赤い」  
「はぅっ」  
想像していたら耳を噛まれ、胸に巻いてあった布に指がかかった。  
「立花様っ!?」  
するするとそれが解かれ、乳房と傷が月明かりの下に晒された。  
とっさに隠したが、ァ千代はその手を引きながら、傷口のすぐ下を指で辿り、  
「……良かった。血は止まったな」  
と愛おしそうに目を細めて呟いた。  
「立花様……」  
この人に傷を付けられたことを喜べばいいのか、己の弱さと悔やめばいいのか分からずに、  
ただァ千代を見つめていると、彼女の視線がこちらに向いた。  
この人は自分を美しいと言ってくれたけれど、この人は自分が知るものの中で一番美しい、と稲は思う。  
「稲殿……。薬を塗り直したら、また眠るといい」  
優しい言葉は嬉しかったけれど、稲は首を横に振り、ァ千代に顔を寄せた。  
「立花様。稲の熱は眠れるほどまだ冷めてはおりません」  
唇を押し当てて、ゆっくりと顔を引きながら、遠慮がちにァ千代の胸に巻かれたさらしに手をかけると、  
「ならば互いにしばらくは眠れんな」  
とァ千代は笑ってくれた。  
 
(了)  
 

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