「愛しているわ。殺したいほど」
と言ってお濃は唇を塞いできた。
命を狙われている自覚はあったし、同時に愛されていることも知っていた。
だから本能寺に影武者を置いてきたのだ。
本当に愛しているなら、殺したいと思っているなら、岐阜まで来い、と。
来ないのであれば、おまえの愛も殺意もその程度かと笑ってやるつもりだった。
だが、お濃は来た。
そして、美しい身体を己の血と道を塞いだ敵の血で染め、この信長の前にたどり着いた。
彼女の血に塗れた姿を見たとき、初めてこの女に欲情した。
肉体のみの欲求ではなく、心の底からこの女を征服したいと思ったのだ。
だからそうするために、彼女を服従させるために、信長はお濃に刀を向けた。
自分の刃が彼女の着物を、彼女の皮膚を掠める度に信長の中の征服欲は増大した。
だが、それが敗因となった。
自分で征服したいがために刀を振るう人間と、自分のものにするためだけに相手を殺すつもりで戦う人間とでは
圧倒的に力が違った。
お濃は体力を消耗し、身体中傷だらけであったにも関わらず、自分を地にひれ伏せさせた。
魔王と呼ばれた自分が、目的のためならば手段など選ばなかった自分が、
一人の女を欲したがために地を舐めることとなった。
自分に跨がり、自分の武器ではなく、小刀を高く構えたお濃を見たとき、こんな結末も悪くはないと思ってしまった。
だが、お濃は何を思ったか、小刀を捨て、口づけてきた。
殺したいほど愛していると言って。
「どうした、お濃。
この信長を殺さぬのか」
「そうね。それも悪くはないけれど、まだあなたの全てを手に入れていないもの。
あなたを殺すのはその後でも遅くはないわ」
額から口元へと流れ落ちる血を舐めて、お濃は再度唇を重ねてきた。
息が荒い。
自分との戦いを終え、彼女の身体はこの天守に現れたとき以上に赤く染まっている。
血を流しすぎているという自覚がないのだろうか。
死ぬ、ぞ。
心の中で告げてはみるが、口には出さない。
ただ、唇に這わされる舌の感触を味わい、お濃の全てを感じることが、今自分が成すべきことだ。
唇を割って侵入してきた舌にこちらの舌を添わせると、お濃が顔を離した。
その顔を見上げると平手で頬をぴしゃりと打たれた。
「分かっているの?
あなたはもう私のもの……」
そうだった、な。
無言のまま胸の中でそう答えると、お濃は満足したらしく、目を細めて、また唇を重ねてきた。
細い腕が蛇が這うかのように首に巻き付いてくる。
しかし、腕はもう冷たい。
艶かしくぬるりと口内を探ってくる舌にも熱が感じられない。
ただ、狂おしいほどの殺意と愛が身体を取り巻いている。
唇が僅かに離れた。
「愛しているわ……」
お濃はそう言って微笑むと信長の肩に頬を預けた。
もう自分を抱き締める力は残っていないらしい。
微かに上下する肩だけが、まだお濃の命がここにあることを伝えている。
その呼吸も次第にゆっくりと、間隔が長くなっていく。
信長は腕をお濃の背中に廻し、そっと抱き締めた。
こんなことをする自分をお濃は許さないかもしれないと思ったけれど、
せめて命が果てるまでは、自分が生まれて初めて全てを欲した女を繋ぎ止めておきたかった。
腕の中の身体はもう冷たい。
息ももう感じられない。
けれど、彼女の想いは自分の命が果てるまで自分と共にあるだろう。
信長はゆっくりとお濃の身体を離すと、小さな笑みを作ったままの唇に自分の唇を重ねた。
(了)