「かいはね、おあかたさまが、だいすきなの。」  
「へぇ。そいつぁありがてぇこった」  
「うん。だからね、かいはね、おあかたさまのおくがたさまになるの。」  
「そうか。そんなら俺ァ、えれぇ長ェこと待ってねェとなぁ」  
「………へいき。かいは、すーーーぐにおっきくなるもの。」  
 
 
「だから」  
 
 
*****  
 
 
随分以前、視察の名目で小田原の支城・忍城へ北条氏康が直々に出向いた事があった。  
 
この年の二年前、利根川の大規模な氾濫でこの地域は農作物に甚大な被害を被り、  
その報を受けた氏康は急遽、特例的な減税策を施した。  
氾濫直後の現状視察に一度来て以来になるのだが、  
供のもの数名と馬上から見た田畑(でんぱた)は  
作物のことごとくを泥水に押し流されてしまった無残な姿を晒した一昨年とは違い、  
豊穣の黄金に所狭しと彩られ、それは美しい光景であった。  
 
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」  
小田原には遠く及びはいたしませぬが、どうぞごゆるりと、と  
城内の者たち総出での出迎えを受けた後に、城主・成田氏長の案内で天守へと向かった。  
 
「…今年も利根川は穏やかなもので、  
百姓たちは皆、一昨年のあの大凶作が嘘のようだと大層喜んでおりました」  
「そうか。そいつぁ何よりだ」  
「これもみな、お館様の御慈悲あってこそ」  
「俺ァ何もしてねぇさ。百姓たちを労ってやれ」  
 
丁度これから氏康が通りすぎようとする足が差し掛かった部屋の襖が、  
突然左右両側に勢いよく、爽快な音を立ててスパン!と開いた。  
 
氏康は突然開いた襖の先へと視線を向けるが、  
その先には「も、申し訳ございませんっ!」と、慌てて平伏する女中たちの姿しか見当たらない。  
部屋自体の大きさはそれほど広いわけでもなく。  
しかしそこは小さな子どもが持てるだけの玩具を散らかしたというより敷き詰めたかのような惨状。  
 
つい半刻ほど前、氏康がこの城にまもなく到着するという報を受けた時は  
ごくごく普通の部屋であったはずなのに。  
思わぬ惨状を目の当たりにして顔を青くした氏長も  
女中たちに続いて「とんだご無礼をつかまつり…!」と  
平伏しかけたのを面倒そうに「構いやしねぇよ」と止めようとしたとき。  
 
ちょうど腰のあたりに何かがぎゅう、としがみついてきた感触。  
見下ろすと、そこにはちいさく茶色い頭。  
 
「これっ!!」と氏長の青い顔が今度はみるみる赤くなる。  
頭は氏長を軽く一瞥してからふたたび氏康にぎゅうとしがみついた。  
 
「お館様に何たるご無礼を!!これっ!!」  
「子どものやるこった。構いやしねぇって」  
 
氏長を制止してから、ふたたび見下ろしてみる。  
髪は背格好の割には短い。  
軽くさらさらの髪をかき混ぜてやれば、こちらにそのかんばせを向け  
にっかりと、まぶしいほどの子どもの笑みが花咲いた。  
 
一際目を惹いたのは、こぼれ落ちそうなほどのおおきな目。  
どのような理由で斯様な彩を得たかなど氏康には知る由もない。  
それは、黄金と見紛うほどに美しく透き通った琥珀色であった。  
 
 
「おいコラ、小僧」  
 
足に絡みつく子どもの細い腕を解いておもむろに抱き上げてやると  
子どもは柔らかそうな白い頬をぷうっと膨らませて  
 
「かいは、こぞうじゃないもん。」  
 
「『かい』?」  
「そうよ。わたしは『かい』。『こぞう』じゃないもの。」  
「あぁそういう事か。悪かったな、かい」  
 
髪が短かった所為で一瞬男の子かと思ったが、  
おそらくいやいや着せられているであろう上物の着物も  
幼いながら端整な顔立ちも、間違いなく女の子のものだ。  
父御(ててご)の金切り声とはまるで違う氏康の低く響く声が気に入ったのか、  
かいと呼ばれた幼子は嬉しそうに氏康に抱きついてきた。  
 
「それよりもなぁ、かい」  
「??」  
「せっかくこんだけ可愛くおめかししてもらってるのによ、ありゃあ無ェだろ?」  
「だって、かい、おへやにとじこめられるの、きらいっ。」  
「だからってあそこまで散らかしていいってモンでも無ェじゃねぇか」  
 
「後で誰が片付けると思ってんだ?おまえか?」と、  
ちいさな唇をアヒルのように尖らせてむくれるかいのちいさな額を軽く小突く。  
すると、むうぅと小さく唸ってからしばらくして  
「…………ごめんなさい」とこぼした声は明らかに湿っていて。  
 
氏康は浅く息を吐いて苦笑して、ちいさな背を数度ぽんぽんと叩いてあやしながら  
「いい子だから、父上母上を困らすんじゃねぇぞ?」  
低い声に呼応にするように何度も頷くかいの頭。  
 
普段は父や母にどんなに叱られてもどこ吹く風。  
常に城内のどこかを走り回っているようなどうしようもないお転婆娘のかいが  
ここまでしおらしく、むすめらしさを見せたのは記憶に無い。  
氏長はわが目に映る光景を半ば疑っていたが、  
その代わり氏康が小田原への帰途につくまで、かいは氏康の許を離れようとはしなかった。  
 
 
*****  
 
 
「……………ってぇな事があったっけなぁ。  
あの後もてめぇ『いっしょにおだわらにいく!』とか云ってぎゃーぎゃー泣くわ喚くわ暴れるわ…」  
「ちょっ……!私、そんなことッ……!」  
「…ンなこたァどうでもいいんだ。それよりてめぇ、何でココに居やがる」  
 
外はすっかり夜の帳の落ちたころ。  
『ココ』とは、氏康の寝所。  
『てめぇ』とは、忍城のお転婆娘『かい』こと甲斐姫。  
 
はぁーあ、と盛大な溜息をついてから氏康は煙管の火皿に溜まった灰を煙草盆に落とした。  
落とした傍からまた火皿に刻みを詰めようとするが  
きつくこねすぎたのか、部屋が乾燥でもしているのか。  
刻みがいやにぽろぽろと指からこぼれおちていく。  
 
 
「本当はもうちょっと忍んでこようと思ってたんですよ。  
でもすぐに風魔さまに見つかっちゃって。  
そしたら「お館様の寝所なら三階の突き当たりを左ではなく  
右に入ってその奥を更に右だ」とおっしゃったので、云うとおりに来たら着きました。  
……って、お館様っ?!」  
「だぁあっっちぃ!!! こンのド阿呆がっ!!!!!」  
 
ブハッ、と煙管が破損するのではないかという勢いで氏康が噴き出してしまった所為で  
ようやっと刻みを詰めた火皿を煙草盆の炭火に近づけて火を点けてから  
さぁ至福の一口めを、と吸いかけたのに。  
詰めてあった刻みは固まったまま周囲に火の粉を飛び散らせて火皿を飛び上がり、  
それはまるごと氏康の足の上にぽとりと降り落ちてきた。  
 
まったく、どいつもこいつもどうしようもないド阿呆だ。  
主の寝所に忍び込もうと堂々と正面から入ってくるド阿呆に  
それを見つけてあっさり場所を教えてしまうド阿呆。  
後者のド阿呆はその後にどう展開するかを愉しんでいるだけに過ぎないだろうが、  
始末が悪いのは前者のド阿呆。  
こっちのド阿呆は不退転の『決意』を忍ばせているに違いない。  
 
「あ、あの、私、下でお水……」  
「うるせぇ。とっとと帰れ」  
「でも」  
「やかましい。でももへったくれも無ぇ」  
 
「おやか……」  
「俺の命令が聞けねぇってのか、てめぇは!」  
 
いつになく厳しい語調。  
これ以上の口ごたえを赦さない、という意味を含んだ最後通告。  
そう受け取った甲斐姫はそれ以上は何もことばを発することも出来ず、  
正座した腿の上にやり場無く置く両手をぎゅっと握り締めていた。  
 
 
 夜の帳というものは、『ひと』をあらゆる意味で脆くする。  
 
 所詮はけものの一味であると。  
 闇を畏れるこころは潜在的に刻まれたものであると。  
 
 
「………………ん」  
「……ぁあ?」  
「…………わたし、帰りません」  
 
勝気なはずの甲斐姫の声が柄にも無く湿っている事には当然気づかない振りをする。  
世にも珍しい蛇腹剣を駆使して並の男では到底叶わぬ戦働きをしてみせるじゃじゃ馬姫の白い手。  
あの頃と比べればおおきくなりもしたが、氏康からしたらちいさい事にはなんら変わりなかった。  
それが細かく震えている事にも勿論気づいてやってはいけない。  
 
燭台のあかりが、どこからかの風にゆらりと揺れた。  
握り締めたふたつのこぶしに、しずくがぽとりと落ちるその前に。  
姿勢を正し、甲斐姫は改めて「お館様」と氏康へ深々と平伏する。  
 
 
「…………甲斐は今宵、お館様のお情けをいただきたく、参上いたしました」  
 
 
言った。言ってしまった。  
ひとつの澱みもない声で。  
口から出てしまったからには、もう飲み込むことは出来ないし、後戻りも出来ない。  
 
氏康は眼前で平伏した甲斐姫を苦虫を噛み潰したような顔でただ見つめていた。  
「餓鬼の分際でお情け頂戴とは、よく云えたモンだな」と  
いつものように軽口で返すことも出来なかった。  
 
こんなじゃじゃ馬のはねっかえりでも『東国随一の美姫』と  
もっぱらの評判だという話をどこからか聞いた事がある。  
しかしそれは本人の耳には入っていないらしい。  
確かに黙ってつっ立っているだけならば遠目にはそう見えるかも知れねぇな、と  
鼻先で笑い飛ばしていたが、まさかこんな状況で認識させられようとはゆめにも思わなかった。  
 
 
 
 目蓋の裏に不意に浮かぶのは、幼いままの『かい』。  
 
 小田原への帰途につく前。  
 散々泣いて叫んで暴れ回り、ようやく疲れた頃合いを見計らって  
 相変わらず氏康にしがみついて一向に離れる気配のないかいを抱き上げる。  
 
 白いはずの頬も泣き過ぎて上気し、透明な琥珀色の目と一緒に真っ赤に染まり、  
 加減なしにごしごしこするものだから目の周りも痛々しく腫れあがっている。  
 それでも尚、何度もしゃくりあげながら氏康の顔を見てはまだぽろぽろとしずくをこぼし続ける。  
 このちいさな身体のどこから利根川が暴れ狂う先触れの稲妻かのような叫び声やら、  
 大雨の振り落ちるがごとくのしずくがあふれてくるのか不思議で仕方ない。  
 
 「かい」と呼んでやると  
 何度もまばたきしながらぎゅうと氏康にしがみついてきた。  
 
 「お、あ、か……た、さ、まぁ」  
 氏康にあやされてようやく落ち着いてきた舌足らずの幼い声だが  
 問答無用に泣き叫んだ所為で潤いをすっかり失ってしまっていた。  
 
 「かいはね、おあかたさまが、だいすきなの。」  
 「へぇ。そいつぁありがてぇこった」  
 小田原へ出立する刻限が迫っているというのに  
 なかなか氏康から離れようとしないかいを遠目からおろおろしながら見守る事しか出来ない氏長。  
 
 「うん。だからね、かいはね、おあかたさまのおくがたさまになるの。」  
 抱き上げた幼子のちいさな手のかたちの温度が頸に触れる。  
 やわらかい感触。そして日なたの匂いが鼻腔をくすぐる。  
 
 「そうか。そんなら俺ァ、えれぇ長ェこと待ってねェとなぁ」  
 「………へいき。かいは、すーーーぐにおっきくなるもの。」  
 ようやく機嫌そのものが上向きになってきたのか、  
 かいの声に本来の快活さが少しだけ、戻ってきた。  
 
 
 「だから」  
 
 
残り少なかった刻みをありったけ、火皿が山盛りになるほど詰め込んで。  
改めて吸う最初の一口は至福とは云いがたい複雑な味。  
 
その先を今頃になってようやく思い出した。  
言った本人さえも覚えていないであろう、その先。  
 
 
 「まっててね、『うじやすさま』」  
 
 
『おやかたさま』とは云えなかったくせに『うじやすさま』とはきちんと告げた幼い声。  
肺まで煙をゆったりと吸い込んで、外していた視線を甲斐姫にへと戻すと  
記憶の中のちいさな彼女は、いまの彼女にへとゆるやかに重なってゆく。  
 
 
 言わせてしまった。  
 眼前に平伏する『甲斐姫』にも。  
 記憶の中の『かい』にも。  
 
 
火皿いっぱいに盛ってあった刻みはあっさりと燃え尽きて。  
口の中には刻みの香ばしい風味は消えて苦味だけが残るようになった。  
カツン!と一際大きく煙草盆のふちに煙管の雁首を叩きつけて灰を落とす。  
 
今まで音の渡っていなかった寝所を裂くかのように高く響いた音に  
平伏したままの甲斐姫の肩がびくりと大きく震えた。  
 
だん、だん、と堅城と謳われる小田原城そのものさえもが  
ぐらぐらと揺れているような錯覚を起こしそうなほど大きく聞こえる氏康の足音。  
怒気のような熱が痛みを伴ってこちらへと向けられているようで、  
両手の震えを隠すために、  
そして主に対してこれほどの無礼をはたらいた罪に於いて手討ちにされるのも覚悟して  
甲斐姫はぐっと奥歯を強く噛みしめた。  
 
 
きつく、きつく、目蓋を塞いで光と色をさえぎり。  
きつく、きつく、耳鳴りが止まらないほど奥歯を噛んでいたから。  
氏康の足音などとっくに鳴りを潜めたのにも気づけない。  
 
 
急に上へと吊り上げられるようにして右腕を取られた甲斐姫は、声のひとつもあげられなかった。  
「……ッ?!」  
「来い」  
強引に甲斐姫を立ち上がらせて反論する隙も与えずに部屋の奥の襖を開けると  
既に褥の準備が整っていた。当然、甲斐姫が忍んで来ようと来るまいと、  
一服吸ったのちにはさっさと床につく筈だったのだから。  
 
「クソ餓鬼が。何が『お館様のお情け』だ、生意気に」  
こンの色ボケが、と吐き棄てて褥の上にへと甲斐姫を放り出した。  
 
氏康はまた盛大な溜息をつきながら、襖をぴしゃりと閉める。  
甲斐姫は「いったた……」とつぶやきながらようよう身体を起こしたらしい。  
 
「……ったくよぉ」  
 
ぺったりと褥に座り込んでしまった甲斐姫との距離が一歩また一歩と縮まる。  
せわしない瞬きは、あふれ出てしまいそうな何かを懸命に隠すため。  
 
「てめぇで待っとけとか抜かしといて、いつまで俺を待たせる気だ?  
あんまり待たせてっと、先にくたばっちまうぞ」  
 
あまり見慣れた種類ではない氏康の不敵な笑みなのに理由も解らず懐かしく感じる。  
遠い遠い記憶の底に眠っていたものを掘り起こされたような。  
それに気を取られていて、氏康の云ったことを飲み込むのにひどく時間がかかった。  
 
「…………嫌っ、いやっ…!」  
「ったく、ナリばっかりでかくなっただけで、なーんも変わってねぇなぁ…」  
 
うつむいて何度も首を横に振る。次にその透明な琥珀色が露に濡れる。  
あの時はそのまま城を揺るがすほどの大嵐が忍城に吹き荒れた。  
けれどここは堅城・小田原。多少の嵐ではびくともしない。  
 
氏康の在ることを示す熱気が近くなったのを感じて顔を上げると  
何度か頭を撫でられてからそっと彼の領域にへと導かれていった。  
他人の熱やら肌の感触やら、あまり身近にあるものではなかったので、  
心の臓が否が応にも早鐘を打ち始める。  
 
「お、や、か……た、さま…」  
「ド阿呆。この状況で『お館様』なんて呼ぶ莫迦があるか」  
 
 
 
「氏康…さま…」  
「上出来だ」  
 
耳に吹き込まれた、熱く掠れて、まとわりつく濃厚な蜜のような声。  
腰に沈むような余韻と心の臓と子宮に締め付けるような痛みを残して霧散した。  
同時に味覚で受け取る苦い味。  
これはきっと、さっきまで氏康が愉しんでいた刻みの味。  
 
苦い。苦い。 なのに、甘い。  
 

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