佐吉は昏い夜空に瞬く数多の星を仰ぎ見る為、屋敷の敷地内を特にあてなどなく歩いていた。  
 
近江国・長浜。  
大きなる水瓶・琵琶湖畔に腰を据える長浜城の主・羽柴秀吉が  
長浜から山をひとつ越えた東の観音寺の寺小姓であった佐吉を気に入って  
長浜城に迎えてから幾月かの時間を経る。  
 
 
 佐吉は地元・石田村の土豪の三男である。  
 しかし生まれつき病弱である長兄に母がつきっきりであった為、  
 それを理由に隣村の観音寺へ住み込みで寺小姓として暮らしていた。  
 
 勉学と作法を身につけるという名目での体のいい口べらし。  
 口べらしをせねばならないほど逼迫している家計でもないが、  
 次男三男ともなると行儀見習いや勉学教養を身につけるために  
 寺小姓に出されるのは至極普通の事であったし、  
 自らという頭数を減らすことで母が少しでも楽になれるのならば、と  
 佐吉は不平不満を言うつもりは毛頭なかった。  
 
 ある日、羽柴秀吉が鷹狩りの帰りに観音寺へ立ち寄った際、  
 秀吉を出迎えた佐吉に一服の茶を求めた。  
 その時の佐吉の機転の利いた細やかなもてなしと  
 寺の者たちには余りにも過ぎると嫌われたその利発さを秀吉は大層気に入り  
 その場で佐吉をおのが居城・長浜城で小姓として働いてはくれぬか、と誘ったのである。  
 
 この石田佐吉こそが『豊家最後の忠臣』として  
 日ノ本を二分する大戦(おおいくさ)・関ヶ原の戦いの立役者となる石田三成その人であった。  
 
 
まだ秀吉の屋敷へ移り住んできて日が浅い所為か  
他の小姓たちといまひとつ馴染めずにいたが、それはいずれ時間が解決する事だろうし  
それ以前に無理に仲良しを演じる必要もない。そう思っていた。  
 
ふう、と息をつくと、ついた分だけ白く息が染まる。  
湖北と呼ばれるこの地域は畿内でも冬が格段に早い。  
城から見える伊吹山の山頂もうっすらと雪化粧を始めていた。  
 
昼は小姓としての雑用や慣れない武道にも励み、  
夜になると灯を節約しながら山積みにされた書物の紐を解く。  
最近は源氏と平氏の壮絶な戦いを綴った書物の文字を夢中になって追っている。  
その合間に軽く頭を冷やす程度のつもりで出てきたから身なりも軽装なままで、  
内包する体温が空気へ溶け出してしまうかのよう。  
 
しかし、こういう日であるからこそ星空は麗しい。  
寒さに硬さすらも覚えるような両の手に懸命に息を吹きかけていたが、  
さすがに限界と悟った佐吉は、身をかがめながらさっさと部屋へ戻ろうと踵を返した。  
 
すると。  
 
ばたん、ごそごそごそっ。  
 
背後でなにやらが蠢くな音がする。  
蠢く影はふたつ。動物にしては大きい。  
けれど曲者ではない。曲者にしては小さい。  
訝しげに振り向くと……。  
 
「……あたたたたたた、………って何だ、佐吉か」  
「何してんだよぅ、だいじょぶか虎?」  
「俺は平気。つぅか、お前こそほんとに………」  
「ちゃんと見た。絶対間違いねぇ!」  
「しっ!声が大きいんだよ馬鹿!」  
 
「『何だ』とはなんだおまえら。何をしているのだ、このような時間に」  
 
背の低い『虎』と呼ばれたのは、佐吉と同じく秀吉の小姓として暮らす加藤虎之助。  
もう一人のやたら声の大きい方はこちらも同じく秀吉の小姓、福島市松。  
二人とも秀吉やその妻・ねねの遠縁にあたる。  
 
「っつーか、佐吉こそこんな時間にこんなトコで何してんだよ?」  
「俺がそんな問いに答える義務はない。それよりも俺の質問に答えろ」  
「……それじゃあワリにあわねぇじゃねーか」  
 
何とも見事な平行線。  
特に物事を熟慮する前に手足が出てしまう市松は  
佐吉のこういう上から冷静に見下ろすような口調や態度が大嫌いだった。  
 
だから自分たちよりも年上なのにも関わらず、自分たちよりも後から小姓として長浜城に入ったとして  
『兄分』とは思っていないと思い知らせる為に呼び捨てで呼んでいる。  
現に彼らよりも後に小姓として召された大谷紀之介(おおたにきのすけ・のちの大谷吉継)などは、  
その大らかな性格と気さくな人柄であにさん、あにさんと皆に好かれて  
あっという間に小姓たちの兄貴分になってしまった。  
 
 
「……さてはおまえたち、何か企んでいるな?」  
頭の回転の速い佐吉はそれを敏感に察知し、市松と虎之助を交互ににらみ付ける。  
図星をつかれて思わず顔を見合わせた二人は………。  
 
何かを思いついたらしい虎之助から市松に、ごにょごにょと何か耳打ちしている。  
市松は最初は眉をひそめながらそれを聞いていたのだが  
ある程度聞き及ぶと口元がゆるゆると緩んできて、しまいには晴れやかな笑顔まで浮かべる始末。  
 
「……なんだ、いきなりへらへらしおって」  
一部始終を見ていた佐吉が気味悪がって怯んだのを好機と見、  
市松は佐吉の右の手首を、虎之助は左の手首を同時にがっちりと掴んで全速力で駆け出した。  
 
 ここで『計画』が佐吉にばれてしまえば、それこそ一巻の終わり。  
 ならば佐吉も巻き込んで『共犯者』にしてしまえばよい。  
 文殊の知恵には一人足りない上に、内容そのものが遠く及ばないが  
 子どもの浅知恵にしては上出来だろう。  
 
「なっ!!!! こらっ!市松!虎っ!ええい、離さぬか!」  
佐吉も年上ではあるけれどどちらかというと男としては華奢な方であるから、  
わんぱく盛りの暴れん坊の市松と虎之助に力で押し切られてしまえば到底太刀打ちできない。  
ざくざくざくざくと中庭の砂を踏みしめて走る3人分の足音が静かな夜の空気を踏み荒らす。  
 
「いーからっ!黙ってついて来いよ頭でっかちっ!」  
「馬鹿市松!事情が分からぬのに黙ってついてなどゆけるかっ!」  
「しっ!おまえらうるさいっ!」  
 
 
*****  
 
 
市松、虎之助、そして佐吉の3人の足が止まったのは、丁度屋敷の裏手側。  
しかも中庭を突破して屋敷の外をぐるりとわざわざ遠回りしてからたどり着いた。  
佐吉は勿論、さすがの市松と虎之助も息が上がって  
ぜえぜえと吐き出される呼気はその場で白く舞い上がる。  
 
まずは市松がしっ!と唇に人差し指を当てて静かにしろと示してから意外な行動に出た。  
 
 
「おねねさまぁ、おねねさまぁ!」  
 
一番驚いたのは、勿論佐吉。  
 
「あれ、今日の風呂当番は市松なの?」  
「はぁい!さっきから薪くべておいたんスけど、お湯加減どうですかぁ?」  
「…………ん〜、ちょっと熱いかなぁ。もうちょっと加減しておくれよ」  
「はぁい!」  
 
ばしゃん、ばしゃんと湯に水を足す音が聞こえる。  
佐吉はこれですべてを悟った。悟ったから固まったまま動けない。  
この壁の向こうは湯殿。湯煙がふんわりと格子の窓から溢れて出ているのにようやく気づいた。  
そして今現在、湯殿に居るのはねね。  
 
薪の番をしている市松がこっちに来い、と手招きしたのを確認した虎之助は  
佐吉の方を振り向いたが、こっちはこっちで表情も何も固まったままで、  
動けもしないし、自慢の達者な口さえも全く出てこない。  
この寒い中にもかかわらず冷や汗までたらりと落としている。  
 
とりあえず佐吉も巻き込んでおかない事には後々面倒な事になるであろうから  
佐吉の手をぐっと握ったまま、虎之助はゆっくりゆっくりと慎重に歩を進める。  
ちょうど、薪がぱちん、ぱちんと弾ける音が大きく響くお陰で  
思考停止してしまった佐吉が無造作に歩く音も隠し通す事ができ、  
ごうごうと燃える火のそばにまで近寄るのに成功した。  
 
近くまで来ると、今は湯船の中に浸かっているのだろうか、  
ねねの甘やかな艶を滴るほどに含んだ艶かしい吐息が、いやに耳に絡み付いてくる。  
たまにぱしゃん、と湯を身体に軽くかけているらしき音も聞こえてきた。  
 
ぱちん、とまた薪が大きく爆ぜた。  
火のそばにまで近寄って分かったが、3人とも顔がこれでもかというほど紅潮している。  
3人とも顔を見合わせたまま、ひとこともことばを交わそうとはしない。  
 
そのまま幾分か時間が過ぎて。  
急にざばあっと大量の湯を振り切った音が響き、3人とも同じように肩をびくんと震わせた。  
おそらくねねが湯船から出て洗い場に上がったのだ。  
 
「市松〜?」  
「は、はぁいっ!」  
不必要に裏返っている声を虎之助が肘で以って「落ち着け」と無言で指摘する。  
 
「お湯がぬるくなっちゃったから、ちょっと熱くしておくれ」  
「はぁいっ!!!」  
新しい薪を2、3本まとめて火の中へくべる。  
少しだけ小さくなっていた火が再び大きくなると、辺りが少しだけ明るくなった。  
明るくなったのはいいが、また周囲には薪の弾ける音以外の音が失われる。  
 
そこにごくり、とやけに大きく生唾を飲み込む音が響いた。  
今度は佐吉と虎之助の両方から肘を喰らい、同時にしぃっ!と唇の前に人差し指を立てる。  
市松がそろりそろりと木製の壁の張り合わせの悪かったであろう隙間のところへ  
にじりより、中を覗こうと意を決して右目を近づけ神経を右目に集中させた。  
 
……………が、市松の右目の視線の先にねねの姿はない。  
ついさっきまで、確かに肌色の塊があったのに。  
「………あれ?」と小さく呻いて、板張りの壁に顔をくっつけて覗こうとすると…。  
 
 
 
 
「こーら、あんたたち!なぁにやってんのっ!」  
 
 
背後から聞きなれた、けれど今この時は一番聞きたくない声が聞こえてきて、  
3人が3人揃って「ひいっ!」と竦みあがった。  
恐る恐る振り向いてみると………。  
 
佐吉は「お、お、お、お、」と「おねねさま」ともまともに云えないくらい口ごもる。  
市松は目を丸くしたまま、何度もばちばちと瞬きを繰り返し。  
虎之助は言葉を失ったまま顔が茹で蛸のように真っ赤に染まって、ぴくりとも動けなかった。  
 
 
それもそのはず。  
一糸もまとわぬ素っ裸のねねが目の前で腰に手を当てて仁王立ちしていたのだから。  
 
白い肌には水滴がきらきらと月の明かりに照らされて輝き、  
女性の特権である美しい曲線は見事の一言なのだが、  
まったく隠していないのだから、豊満な乳房どころか叢も秘所も文字通り丸見え。  
こそこそと隙間から覗きみてこその匂い立つような色香など全くもって皆無。  
銀色の月明かりを背後に纏ったその姿は天女というよりはむしろ鬼子母神。  
 
「…………ぅううっ、寒いっ!」  
ぶるるっとねねは肩を抱えてひとつ震えた。当然である。  
 
「ほらっ、あんたたちも風邪引くといけないから。一緒にお風呂入ろっ」  
「「はぁ?」」  
 
普段はまったくソリの合わない市松と佐吉も、この時ばかりは見事に同調。  
ちなみに虎之助は、先ほどからまったく反応していない。  
 
「ちょ、お、お、おねねさまっ!」  
「なぁに佐吉っ?…ってもう、あんたたちも冷え切ってるじゃないの!ほら、入ろ入ろ。  
……え?お虎が動かないの? お虎?ちょっと、お虎っ?おーとーらーっ?」  
薪を数本、火の中へ無造作に放り込んでからねねは市松と佐吉を連れて、  
動けない虎之助は仕方ないから市松に一緒に連れてきてやって、と  
虎之助は市松が手を取ってやり半ば引きずりながら、湯殿へと強制収用されてしまった。  
 
 
*****  
 
 
湯殿の中はあたたかい湯気が充満していて、ねねは「寒い寒いっ!」と云いながら、  
とぽんっと勢いはすさまじかったのにほとんど飛沫を上げずに湯船に飛び込んだ。  
 
「ほらっ!あんたたちも早く入りなさいっ!風邪引いちゃうよっ!」と、  
覗かれていたという事実はすっかり寒さの前に打ち消されてしまっているねねは笑顔で手招き。  
ようやくまともな意識が回復した虎之助以下3人は意を決して湯船にへとそろそろと足を入れた。  
冷えた身体の感覚を揉み解すようにして甦らせてくれる湯のあたたかさ。  
それに誘導されるように3人は湯船の中に身を沈めた。  
 
もともと大きめにあつらえてあった湯船だったから  
身を縮めれば4人でも入れない事もないのだが、手狭な感は否めない。  
3人の中では最初に肩まで浸かりきってしまった市松は頑として出てこないだろう。  
それを見たねねは「じゃああたしは一度出ようかね」と湯船から上がろうとすると…。  
 
「おねねさま、あがっちゃだめですよっ!」  
「さっきまで寒い寒いって云ってたのにっ!」  
「おねねさまが風邪が引いちゃうじゃないですかっ!」  
 
普段はそれほど仲がよいという訳でもない3人が  
自分を介して同じ方向へ思考が向く、というのはねねにしてみればとても嬉しい誤算であって。  
 
「ありがとね、市松、佐吉、お虎。  
でもあたしは平気だから、あんたたちはちゃんと浸かっていなさい」  
ね?と笑顔で云われてしまうと反論など出来るわけがない。  
それにねねはそのままあがってしまうわけではなく、これから洗い場で身体を洗う準備をしている。  
手ぬぐいを固く絞ってからパン、と大きく広げて一度水気をきり使いやすい大きさに畳みなおす。  
 
たったコレだけの動作だったにも関わらず  
湯船に浸かっている3人の視線はあからさまにねねの全身に突き刺さるように集中している。  
 
 ぐっと力を入れて手ぬぐいを絞った時に軽くひねった脇から腰、尻へ至る曲線。  
 大きく手ぬぐいを広げたときにぷるんと揺れた豊満な乳房。  
 それを小さく畳みなおす手ぬぐいは柔らかさとハリを丁度よく両立させていそうな腿の上。  
 そして、腿の付け根は………。  
 
元服を済ませていないとはいえ、彼らも立派な男子。  
湯船の中ですっかり反応してしまっている股間を手ぬぐいで隠すのに精一杯。  
 
しかし彼らには余りにも刺激的過ぎるねねの湯に煙る艶姿に、  
佐吉は早くも湯中り寸前で身体がゆらゆらと左右に揺れている。  
市松はとりあえず上を向いて、今ここで天井から冷たいしずくが落ちてこないかと待ちわびる。  
虎之助は再びの思考停止も時間の問題。すでに焦点が定まっていない様子。  
 
そして、ねねがそういう『うぶ』な反応を示すであろう事を解っていて、  
わざと彼らには艶かしく映るような動作をしているとは、  
いかな佐吉の怜悧な頭脳であろうとも察知する事は出来なかった。  
 
 
「で、あんたたち?」  
 
ねねの口許に浮かぶ、昼陽の許ではあまり見る種類ではない  
一個の『くノ一』として壮絶かつ妖艶な本性を端々に見せる艶めいた笑み。  
 
「あたしに云わなきゃいけない事があるんじゃないのかい?」  
「「「ごめんなざ…………」」」  
 
その後に続いたのは、がつ、ごつ、ごんと順番に湯船の角に頭をぶつける音3つ。  
湯船の中で思わず頭を下げようとして湯の中に顔を突っ込んだ挙句、角が額に直撃した。  
 
 
顔を上げると3人揃って額を赤くしていたのにねねも小さくクスクスと笑い出し。  
 
「しょうがないねぇ。でもあの人にはナイショだからね。  
ほら、背中流してあげるから出てらっしゃい」  
 
 
釜茹で寸前にまで煮あがってしまった3人は何とか赦してもらい、  
無事に翌朝を迎える事が出来たのだが。  
翌朝、佐吉、市松、虎之助の3人が揃って目の下に大きなクマをこしらえて起き出してきたのを  
紀之介は訝しそうに見ていたが、クスリと笑ったのはねねだけであった。  
 

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