「信之様・・・・・・・・・」
真田亭、そして信之の寝室である六畳半ほどの一室。信之の妻、稲姫は夫、信之のことを思っていた。
徳川家の猛将、徳川四天王の一人でもある本多忠勝の娘、そして今は
真田信之の妻である小松、通称稲姫は、信之の腕の中で一夜を過ごしていた。
真田信之。元々は武田家の名臣、真田昌幸の長男であり、名将が多い真田家に
恥じない温厚な性格の持ち主である。その真田家の長男、信之が何故徳川家の
武将、本多忠勝の娘を娶ったかといえば、ある経緯がある。
1590年、豊臣家の天下統一によって、全国は平定。戦乱の世は終わったかのように思えた。その
せいもあり、当時はまだ戦争中だった徳川、真田家もともに同盟を結ぶことに
なった。その時、稲姫の父、本多忠勝と、夫、真田信之は謁見。同盟の契りとして
家康の養女、稲姫を娶る事になったのである。
温厚で誰からも好かれる存在であり、それでいて戦場では人一倍の働きをする真田信之に、
若き日の己の姿を忠勝は見ていたのかもしれない。
しかし、秀吉死後、再び戦乱の世は舞い戻ってきた。家康の豊臣家謀反、そして新たな天下
への挑戦であった。そのため再び徳川家と真田家は交戦状態となり、徳川家の家臣となった
信之は、父、昌幸。そして弟、幸村と刃を交える事となってしまっているのである。
当然父兄弟と刃を交える事なんてしたくない。ましてや人一倍温厚な正確を持つ信之なら
そう思うはずである。しかし、信之は徳川家を選んだ。
先年、徳川家の上田城攻めが行なわれた。多勢に無勢、歴然とした兵力を持つ徳川家に、
上田城は簡単に落とされると皆は思った。しかし、名将ぞろいの真田家に、徳川家の
上田城攻めは敗北となり終わってしまった。
当然、信之の肩身も狭くなる。そんな信之を思い、稲姫はつい声が出てしまったのである。
「どうした・・・・?松・・・・・」
「・・・・・・・・!!信之様・・・・!」
驚いたのも無理はない。ずっと寝ていると思っていた信之が起きていたのである。
さっきの独り言もたぶん聞いていたであろう。
「起きていらしたのですか・・・・・・・・・」
「起きているもなにも、おまえの体が震えているからな・・・・・・・」
稲姫はドキッとした。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
そう言えば確かに震えている。しかし、何故震えているのかはおおよそ見当がつく。
「寒いのか?」
「いえ・・・・・・・・・・・・」
稲姫は迷った。今、自分が思っていることを夫に話すかどうか・・・・・・。
しかし、夫にもプライドがあるはずだ。たとえ自分が思っていることと
夫の考え、苦しみが合致したとしても、しょせん自分は女。ましてや
この戦国時代に自分の妻から同情を買われては、夫のプライドは多いに
傷つくはずである。
「どうした?心配事があるなら話した方がいい。」
「いえ!何でもありませぬ、少々考え事をしていただけです・・・・・」
「そうか・・・・・・・・・・」
稲姫は焦った。もともと勘の鋭い信之である。もっとも、感の鋭いといっても
嫌な意味ではなく、機転が利きやすく、周りの状況に応じて対応し易い性格と
言う意味である。実際今まで信之と共に暮らしてきたが、稲姫が困っている時は
駆けつけ手伝ってくれ、逆に信之が困っている時は、稲姫が相談に乗る。
そんな感じの家庭を作っていたのが真田家であり、また、そんな性格の持主で
ある信之を稲姫は大好きだった。しかし、今回の考え事は流石に口にしてはなら
ないと稲姫は考えていた。
「申し訳ありませぬ・・・こんな夜中に心配をかけさせてしまい・・・・・」
「いや・・なら良いんだ。」
「はい・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・松よ・・・・・」
「は・・・・・・・・・・・?」
「良いか・・・・?わしとお前は夫婦なんだ。何も遠慮することはない。
お互いを助け合ってこそ、家族というものを築く事ができる。」
「は・・はい。」
「ではもう寝よう。そろそろ丑三つ時を回る頃だろう。」
稲姫は嬉しかった。しかし、この問題だけはどうしてもいえない。
いったところで女の身である自分に何ができるだろう。それを考えると
胸が苦しくなった。
翌日も、いつもと同じような朝で始まった。信之は城に出社してあり、
飯の用意、館内の片付けなどは召使が行なう事になっているため、
稲姫は何もすることはなくなるのである。それでも昨夜のような悩み事を
抱える前までは、侍女と町へ出かけに行ったり、弓の稽古などをしていた
為、悩むべきことは1つもなかった。しかしこのような悩みを抱えてから
それ以降、町へ駆り出す気にもならないし、稽古をしても身につかなくなる。
忠勝に相談しようと思ったこともあったが別の城内に住んでいるから行きたくても
行けない。だから仕方なく毎日毎日を、「自分はどのようにすべきか。」
考えていたのである。
「・・・・・・姫様・・・」
「・・・・・・・・!?」
後ろを見ると、侍女のお満が障子の前で座っていた。
「・・・・おお、お満か・・・・」
彼女の名はお満。稲姫が信之に嫁いでから、稲姫の身の回りの世話は一通り
彼女がしている。齢はすでに40を過ぎているが、稲姫とは気が合い、町へ
駆り出す時もいつも彼女がそばにいる。ちょっとした悩みもいつも彼女に相談しに
行って、そのたびに良いアドバイスをくれるのである。
「姫様・・・・・最近の姫様は何か重大な悩み事を抱えているように思えます。
いつもは姫様自らお満に相談しにいらっしゃいますが、今回は何故?」
「・・・いや、今回はお満とて、簡単には解決できるような悩みではないのです・・・・・。」
確かにそうである。今回の悩みは一武将の妻や、ましてその侍女なんかでは
解決できそうな問題ではない。今回の問題とは夫、信之の元の大名、真田家と
その信之が現在仕えている大名、徳川家との険悪が作り出した問題なのである。
その問題を解決するにはどちらかがどちらかを取り潰すか、和平を提唱し、
同盟関係を取り戻すか・・・・・・・・そうでなければ他の大名が天下を一統
するしかない。そのような重大な問題をどうして稲姫やお満なんかに解決できようか・・・・。
「・・・・・信之様の事でござりまするか・・・・・・?」
「・・・・・・・・!どうして分かるのですか?」
「姫様・・・・・。このお満とて普段ただ単に姫様の跡をついていたのでは
ござりませぬ。普段の姫様と比べてからも多少のことは大体見当がつきまする。」
「そうか・・・・・・・ではお聞きしますが、私はどうすればよいのでしょうか・・・・。
夫の問題はすなわち天下の問題でもあります。このような悩み事を解決する方法が、
一武将の妻である私に思いつけるでありましょうか。」
「・・・・・・やはり信之様の事でござりましたか・・・・・。確かに私達では
解決できるような問題ではありませぬが・・・・。いっそのこと信之様本人にお聞きしてみては
いかがでしょう。信之様は温厚なお人柄ゆえ、きっとお答えしてくれると思いまする。」
「そうでしょうか・・・・・・」
決めた。稲姫は夫に直接聞く事にした。悩んでいても何も始まらない。
聞くのは夫が帰って、一段楽した今晩、稲姫は自分の思いを信之に
伝える事に・・・・・・・・。