真田信之は本多忠勝が娘夫婦のためにと与えてくれた部屋で、一人で悶々と悩んでいた。  
今日は稲姫と初めて共にする夜なのである。普通ならば婚姻のその日に行うものであるが、  
昨日は義父忠勝に異常と言える程に祝盃を飲まされたため  
酔いに酔ってフラフラとなってしまい、稲姫に連れられて寝所に着いた時には即刻にブッ倒れてしまった。  
それ故に、今日の夜がいわゆる初夜となってしまったのだが、信之はその所作について悩んでいるのだ。  
なにせ相手は徳川四天王の本多忠勝の御息女で、自分は徳川に敵対する真田の長男だ。その稲姫を抱いてしまっても  
大丈夫なのだろうか……延々と一人、頭の中を巡るのは稲姫を抱ける事への歓喜と不安、だった。  
そもそもは信之が忠勝に気に入られた上、稲姫と信之が互いに好き合っている事を忠勝が気付き、二人の祝言へと働いてくれた。  
しかし、真田昌幸が豊臣側についたため、立場が同盟国の跡取り息子から、徳川についているが敵対国の跡取り息子へと一転したのだ  
 
そんなこんなと悩むうちに、襖が開いて稲姫と年増の女中が夕餉を運んできた。  
その女中は食事を運ぶと、早々に部屋を出て行ったのだが、出て行く際に信之達に対してわざとらしく含み笑いを見せて部屋を後にした。  
この若い夫婦は、その女中の含み笑いを女中の意図どうりに受け止めたためか、二人の間に妙な距離が生まれていた。  
「あ……あの……昨夜はありがとうございました。」  
緊硬を破ったのは信之だった。  
「え……いや、謝るのはこちらです……父があんなにお酒を無理矢理お勧めしてしまって」  
稲姫も受け答えるが、なにかぎこちない。  
その後は二人とも何も言わずに黙々と食事をとり続けた。  
先に信之が食事をとり終わったので、稲姫も箸を置いた  
「あの、御気になさらず……」  
信之は亭主には思えぬ気の遣い方だ。  
「いえ……元々あまり食べぬ方ですから……」  
その後また沈黙が続いた。  
「あの……」  
この状況に耐え兼ねた信之が言葉を発した。  
「え?あっ……はい」  
 
「風呂に行こうと思うのですが……」  
 
「あっ、じゃあ私、服を着替えてまいりますから……」  
 
「いえ……場所を聞こうと思ったわけで……」  
 
稲姫は、自分が風呂の世話をするのかと思ったようだった。  
「くっ……」  
顔を赤らめた彼女を見て、信之はつい吹き出してしまった。稲姫は一層顔を赤くして、下をうつむく。  
「母屋の隣りにある厠の裏手にあります。」  
信之は笑いながらにして部屋を出た。  
「信之殿、湯は厠の裏手を左でなく右を真っ直ぐ行かれなされ」  
廊下で出会い頭に忠勝が言った。  
「はぁ」  
 
(何故に母屋にいたはずの義父殿が私が風呂に行くと知ってるのだ?)  
と思いながらも、あまり気にせずに風呂へ向かった。  
「これ稲、信之殿の風呂を御手伝いせよ」  
忠勝が、今だに顔を火照らしながら食事を取っている稲姫に言う  
「はぁ……分かりました」  
(なんで母屋のはずの父上が離れのここにいるのかしら?)  
疑念を抱きながらも父に言われるまま風呂の仕度をして部屋を後にした。  
「うむ、我が血筋は安泰かのぅ」  
稲姫が部屋を後にすると忠勝は布団を引き始めた、馴れない手付きで丁寧に布団を一つ引くと、  
もう一つの布団をそそくさと自分の寝所に運び出した。  
(早く孫を見してもらわねば。)  
猛将、本多忠勝がこれである……寝所にいた正妻も呆気にとられた。  
「まったく……」  
彼女はまったく……という顔で笑っていた  
「なんじゃ?」  
 
「昨日は稲を渡したくないと無理矢理に婿殿に飲ませて酔い倒しておいた上、寝所で泣きに泣いたくせに……」  
 
「それを言うでない……手塩にかけた娘をいくら信之殿とはいえ渡したくないものじゃ」  
武勇にて功をたてた、忠勝の意外な一面である。  
「稲と信之殿の子を見る事が、このワシの新たな楽しみじゃからのぅ」  
 
所変わってここは本多忠勝の屋敷内の風呂場  
忠勝程の位になれば、風呂も一般的なサウナ式ではなく今の様な浴槽を備えた上に広いものだ。  
「一体全体……」  
湯に入った第一声までがこれだ。  
(どうしたら良いのやら……)  
悩むうちに、だんだん上田への哀愁の気持ちが沸いてきた。  
ふと思い出したように、水鉄砲を手で作りピュッと飛ばした。  
(昔、源二郎とよくやったものだが……今となっては弟、父とも敵同士なのか……)  
と、信之が上田城や信濃の地への思い出に浸っていると、なにやら脱衣所に人気がある。  
家中が着衣を変えにと、風呂の世話に来だろうか。と、思い信之は脱衣所に背を向けて、いかにも威風堂々と構えた。  
(多少は家中にも貫禄を示さねばな……)  
信之の予想どうりに、脱衣所の扉が開いた。「父に申し付けられたために風呂の世話をさせていただきとうございます」  
稲姫が言う。  
「うむ」  
と貫禄を持って答えながらも、彼の賢明な頭はフル回転をして気が付いた  
(父?女?この声?)  
結論は一つだ。  
「えっ……まさ……か……」  
今の貫禄を吹き飛ばすマヌケな返答。立ち上がり、振り向きかけるも、やはり賢明な彼はその動作に移らなかった。隠すべきものが隠せない……  
腰を捻って振り向くと、自分の妻がいるではないか  
 
「どう致しましたか?」  
信之の慌てぶりを見て稲姫が聞く  
「いえ。まさか稲殿がいらっしゃるとは思わず……」  
 
「父が行くようにと申し付けまして」  
 
「はぁ(いったいあの義父殿は何を御考えなのだ)」  
 
「では御体を流しますのでこちらに……」  
言われるがままに湯を出ようとしたが、手拭いが無いために隠すべきものが隠せないため出るに出られない。  
一人だから。と思い、手拭いを持って入っていないのだ。  
(まいった……これは正直に言うしか無いか……)  
 
この即興の判断力から見ても、彼はなかなかの将器を持っているようだ。  
「すみません……手拭いを持っていないんで……」  
稲姫も理解したらしく何も言わずに脱衣所へ向かった。  
ところが稲姫が脱衣所の扉を開こうとしたらどうも具合がおかしい。扉が開かないでは無いか。  
「あれ……扉が……」  
 
「どうしました?」  
 
「あの……開かぬのです」  
 
「え?」  
稲姫がいくら押しても引いても開きやしないのだ。  
「あの……候がやりますから、稲殿はあちらを向いていてもらえますか?」  
 
「あっ、はい……じゃあ」  
信之の言うように後ろを稲姫が向く……なんともウブな夫婦であろうか  
 
信之は立ち上がると扉を開こうとした。  
「グォォォっ……」  
しかし全く開かない……それもそのはず。扉の向こうでは、忠勝と榊原康政の猛将二人が、必死で押さえているからである。  
「こんな下らん事のために呼んだのか……」  
康政は軽く呆れていた。  
「よかろうが。孫が出来たら第一に見せてやるから」  
忠勝は未来の孫を考えると、にやけっ放しである。  
「ワシらも歳食ったな……平八郎」  
 
「世代は変わりつつあるわけだ……」  
 
「あの稲めも人の妻か……」  
康政はまるで我が娘のように哀愁交えて言う。  
「信之殿はなかなかの男ぞ?」  
 
「解っておるよ……あの父と兄弟には一度してやられたからな」  
 
年寄り二人は扉を押しながらぶつくさと語るのだった。  
 
 
浴室の信之と稲姫の間には沈黙が続いている。開かない扉を前に戸惑っていた。  
「あの……二人で押せば開くかも」  
稲姫が切り出した  
「え……しかし……」信之は全裸と言う事で躊躇した  
「むこうを向きますから」  
と、視線を床に向けながら稲姫が扉に近付く。  
「じゃあ、いちにのさんで……」  
稲姫はそう言うと、音頭をとった  
「いち……にの……えぃッ」  
 
「ふんッッ」  
信之も稲姫も必死で押す。  
扉の向こうでは忠勝と康政がこちらもまた必死で押している  
 
康政も忠勝も次第に押され始めた。やはり年齢には勝てないようだ  
「ヤバいな……逃げるぞ康政」  
 
「確実に二人にバレるな……」  
 
「康政、殿軍は任せる」  
と言い残し、忠勝は先に逃げた。  
「貴様ァァァッッ!!!」  
残された康政は半泣きで扉を押さえ続けた。が、寡勢では限界があった。  
(もう無理じゃあァァァ……)  
扉が開いた。稲姫と信之の目の前には、ゴツくデカいオッさんの走り去る光景が広がった。  
「あの開きましたね……」  
 
「えぇ(まさかあれは……康政様?)」  
と、稲姫は信之の方を振り返った。と、その瞬間  
「あっ……もっ……申し訳ありません!!!!!」  
稲姫は急いで手拭いを取りに脱衣所に走った  
「えっ……あ……」  
信之は赤面する。  
「これを……」  
稲姫が手拭いを差し出す。信之は急いで腰に巻いた。  
「もう大丈夫です。」信之は下を向いている稲姫に言った。  
「あっじゃあ御背中を……」  
 
「冷えてしまったのでもう一度、湯に浸かりたいのですが……」  
 
「わかりました……ではどうぞ、待ちますから……」  
 
信之は湯に入ると頭まで水を被る。そして稲姫を待たせているので、少し入ると直ぐに出た。  
 
 
「じゃあ御体を流します……」  
稲姫は、薄着に冬という事で寒さからか声が幾分震えていた。  
「いえ……私の事は良いので、湯に入って暖まってください……絶対に見ませんから」  
 
「はぁ……ではお言葉に甘えて……」  
流石の寒さに、我慢が続か無いようだった。小松は脱衣所に入ると、上に着ていた肌着を脱いだ  
信之は、律義にも目を瞑って体を拭いている。  
(チャプッ……)  
稲姫が、湯に入る音が聞こえる。決して目を開いてはならないと、信之は目を一層強く閉じる。  
またも二人の間に沈黙が流れていた。信之は、早く出ねばと思い、急いで体から垢を拭う。  
と、ここでまた問題が起きた。体を流す湯を浴槽にとりに行かねばならない。しかし、浴槽には稲姫が入っているではないか  
(またもしまった……)  
と、悩んでいる信之を、気立ての良い稲姫は気付いた  
「あの……私がお流ししましょうか」  
 
「え……あぁ……すみません……」  
稲姫の方から言ってくれたため、信之は随分気が楽になった。  
ヒタヒタと稲姫が近付く音がする、信之は体が堅くなる。  
「では……」  
稲姫が首筋から湯をながしてくれた。  
「あの……もう十分です……ありがとうございます。」  
三度程流してもらうと、信之は稲姫が湯に入ったのを音で確認してから脱衣所へ向かった  
 

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