小松姫は脇腹の酷い激痛で目が覚めた。
辺りは真っ暗。布団ではなく、藁敷きの上に寝ていたようだ。
外では虫が鳴いている。
体を起こそうとするが具合がおかしい、全く力が入らないのだ。
自分が置かれる状況を整理する。
「起きたのか、しかし起き上がれまい?」
ふと近くから聞き慣れた声がした。全く気配に気付かなかったが、声の主はすぐ横にいたようだ。
しかし、その聞き慣れた声の主の存在は、小松の状況整理をさらに混乱させた。
「な……ぜ……あなた様……が?」
小松の声は体の異常のせいか、それとも声の主の存在への恐怖のせいか震えた
「親愛なる我が犬の世話のためだ……」
声の主とは、徳川家を支配する忍、風魔小太郎その人であった。
「脇腹を刺されては動けまい……功に焦ってまんまと敵の罠に嵌まってくれるからな……馬鹿め」
ようやく小松は前後の記憶が戻り始めた。
その記憶が正しければ、自分は上田城を攻めていたはずだった。
「私…は……上田……城……攻め……ていた……はず……」
やはり声が出にくい、また震えている
「そしてお前は真田の計略で傷を受けて部隊も敗走したわけだ」
小太郎はそう言うとまた気配を消した。
「餌と薬を取って来る。逃げる逃げぬは貴様の勝手だ、好きにしろ」
自分に怯える小松に、そう言い残すと、引き戸から外に出ていった。
小松は下手に動かず、そのまま眠った。小太郎を下手に怒らせないためであった。
小松、いや、徳川家にとっては、風魔小太郎と言う男はそれほどに恐れられていたのだ。
次に気が付いた時は日が昇っていた。辺りはそれでも薄暗く埃っぽい。
小松が寝かされていたのは古びた小屋だった。居間の真ん中には囲炉裏があり、入口は土間になって釜戸もある。
とりあえず、小松は体を起こし痛む脇腹の様子を見た。布で巻かれているが、痛みとその血の染み具合から傷は深いと思われた。
小松はそのまま外に出るためにと立ち上がろうとした、その時である。
ヒュッと風を斬る音がしたと思えば、体が藁敷きの上に寝かされていた。
「……動くな」
小太郎がまたも突如として現れ、小松の上にまたがっている。
「……ちょっと……水を飲もうと……」
昨日は逃げるも勝手と言いながら、今日になっては動くなと言う。徳川家の者にとってはいつもの事である。
小太郎はとかく気まぐれに物を言うのだ。そしてその気まぐれに合わせねば酷い仕打ちを受ける。
風魔の犬としてのありかたを徳川家の者は心得ていた。
「水ならばある。餌も持って来た…食うが良い」
と、小太郎は竹筒と筍の皮に包まれた握り飯を小松の枕元に置いた。
どう見てもどこかから奪ったようにしか見えない。
「なぜ、私などを……」
「貴様は人が犬を世話をする事に疑問を持つのか?……それと同じだ」
小松は、小太郎が犬の世話をする男などには思わなかったが言う勇気は無かった。
「あの……食べても良いですか?」
「良いと言っておる……」
「小太郎様が上におられるので……」
「なら我が喰わせてやろう」
小松は色々と疑問などを持ったが、やはり言う勇気が無かった。
この状況で言った場合、どうなるかは本能的に分かっていた。
「口を開けろ……」
言われるがままに口を開く。握り飯が丸々一つ、口の中に無理矢理ねじ込まれた。
「もふ……っがほっ……」
今吹き出したら確実命は無い、小太郎の顔がそう言っている気がした。
「うまいか?犬よ?」
小太郎は、息を詰まらせて半泣きの小松に聞く。小松は首をとにかく縦に振っている。
小松はどうにか食べ切った。と、そこで大泣きを始めたのだった……
「五月蠅い……いい歳をこいて泣くな……」
「ごほっ……でも……ゲホっ…だって……グフッ……」
「殺すぞ……水をやるから泣くな……」
と、竹筒を小松の口に当てた。その瞬間、水が一気に小松の顔面を襲う。
「す……スマン……許せ」
と、小太郎はなぜか謝ってしまっていた。
それに対し小松は顔を横に背けてシカトをきめている。
「……こっちを見ろ」
だんだん立場が変わり始めている。
シカトをきめながら、小松は小太郎が女慣れしていないことが分かってきた。
「……じゃあもう少し優しくしてもらえますか?」
小松は無表情に言う
「わかった。わかったから」
小太郎はだいぶヤキが回って来た。
「あと……もう無理矢理はしませんか?」
「あぁ……分かった」
「じゃあ顔を拭いてください」
小松はうまく小太郎を手懐げたようだった
小太郎は、小松の上からどけると、小松の包帯のあまりで顔を拭ってやった。
それから布団に寝ている小松に、握り飯を少しづつ食べさせてやっている。
「小太郎様って優しい人ですね〜」
小松は小太郎が女に弱いと知って、わざとおちょくっている
「違う……我はただ……ただ……そう、愛犬家なのだ」
小太郎は、やっぱりヤキが回っていた。
そんな風に慌てる小太郎が、小松はなぜか可愛らしく、滑稽に感じて、クスクスと笑ってしまった。
「貴様……何がおかしい!!!」
またも小太郎は小松の上にまたがる。
「いえ別に?」
と、微笑しながら答えた。
「貴様……クソっ!!!」
小太郎は咄嗟に右手を喉元を狙って構えてしまった。
「あっ……」
小松は右手を見ながら言うと、またも顔を横に背けた。
「あっ……いや……ついクセでだ……」
小太郎は右手を戻す。
「………」
小松はまたもシカトをきめる。
「スマン……許せ……」
小太郎は彼なりに必死で詫びる。
「……」
「……スマンってば」
「………」
「……次は何だ……」
交渉開始である
「婀々豸惠俐韋」
「?」
「だから、あーちぇりーが欲しいんです」
「え?」
「南蛮の弓ですよ」
「いや……我に改めさせたい事じゃなくて……物?」
「だって欲しいんですもの」
小松は可愛らしく笑いながら言う
「……」
小太郎は、小松の上で俯きながら急に無表情になった。
「……小太郎様?」
小松は先程とは替わって、下に出る。
「……」
やはり小太郎は無表情である。
「私の上で何する気ですか?」
「……」
小太郎は何も言わない。
「小太郎様?」
と、小松は右手で小太郎の頬を引っ張った。「……」
やはり何も言わぬ。もう一度引っ張ってみる。
「……」
やはり何も言わないので、次は鼻と口を塞いでみた
「……」
顔色は薄い紫のまま
「………」
顔色は薄い紫のまま
「…………」
ちょっと紫が濃いめに
「……………」
だいぶ紫が濃いめに
「………………」
かなり紫が濃いめに
「…………………」
危ない位の紫色に
「……………………」毒々しい紫になり、小太郎がピクピクし始める
「………………っぷはぁっ……おい……」
小太郎は、限界が来たので小松の手を払った。
「なんですか?」
小松はまたクスクス笑っている
「我が貴様と同じ様に何も言わなかったのに、なんでこうなる……」
「え?そういう意味だったわけですか?」
小太郎は、小松のようにシカトをしていたようである。
「よく考えれば、我は貴様に何の見返りも受けて無いぞ?」
「だって……愛犬家でしょ?犬に見返りを求めないでしょ」
「いや……しかし……」
「そもそも何で助けてくれたんですか?」
「いや……だから……それは……やっぱり愛犬家だからだ」
「ふーん」
「もう知らぬ……薬を取りに行くから寝ておけ」
と言うと小太郎は小松の上からスッと消える、小太郎はとりあえず上田の城下へ向かった。
上田は徳川軍一万に攻められるも、城下はなんの支障もなく機能している。
とりあえず着物と薬、米などを奪っておいて小屋に戻る。戻れば小松は良く眠っていた。
一度はこいつを締めておかねば示しがつかんと思いながら盗んで来たものを居間に置いて風呂釜に水を張った。
元は農家であろうこの小屋には風呂や釜などが揃っている。
小松も半月あれば歩けるだろうからそれまではここに避難するつもりであった。
そもそもなぜ小松を助けたのかが自らにも理解できなかった。徳川など犬に同じもの、そんな下らぬものをわざわざ守っている自分が小太郎には理解できなかった。