強い風が吹いた。舞い込んできた桜の花びらを見て、市はふと外を眺める。
あれから一年が経とうとしている。
また藤の季節が近づいていた。
自分の腕の中で冷たくなっていく愛しい人。
いくら抱きしめても涙を流しても、その体が温かさを取り戻す事はなかった。
どれだけ焦がれようとも、もう二度とあの腕に抱かれる事も、穏やかな笑みを向けられる事も、
優しい声で自分の名が呼ばれる事もない。
それでも忘れる事などできはしなかった。
――詮無き事。
かつて自分が口にした言葉が、今度は自分の心を責め苛む。
そんな一言で割り切れるものではない。
気付いた時には全てが遅かった。
(…長政様)
思い出すたびに市の眦にはじわりと涙が滲む。
それが流れ落ちる前に急いで目元に袖口を当てて拭い取った。
書物に気がついたのはそれから数日後のことだった。
長政の一件以来、すっかり意気消沈し引っ込みがちな市を心配して、
侍女や下男が町に出るついでに色々な物を見繕ってくるのだ。
その書物もおそらくその一つだったのだろう。
手をつけないまま放っておくのも悪い気がして、市は書物を読み始めた。
夫婦となった男女が若くして死に別れるが、嘆き悲しむ夫の前に怪しげな老人が現れ、ある方法を夫に教える。
夫が教えられたとおりにすると、死んだ妻が夫の前に姿を現し
一夜限りの契りを交わして子を成した、というものだ。
おそらく大陸のものと思われる冥婚譚だった。
「これは…」
読み進めると、書物の終わりにその方法が事細かに記されていた。
市の心の中で何かが弾けた。
(やっぱり、こんな都合のいい事が起こるはずがない…)
夜な夜な城を抜け出しては書物に書かれていたことを忠実に再現してみた市だったが、
一向に何かが起こる気配はなかった。
藁にもすがる思いだったとはいえ、元々諦め半分だったのだ。落ち込むこともないだろう。
春とはいえ、夜はまだ少し肌寒い。
自らの体をかき抱くようにしながら、市は目の前に立つ桜の樹を眺めた。
空には満月が輝き、その光で桜が浮かび上がる様子はこの世のものとは思えないほど美しかった。
(桜が終われば、次は…)
市がそう心で呟いた時、急にざあ、と強い風が吹き、桜の花びらがはらはらと散った。
次の瞬間、空気が一変した。
先ほどまで輝いていた月がいつの間にか消え、周りから音が消えた。
市は突然の変化に戸惑い辺りを見回すが、人の気配一つしない。
「!?」
風に遊ばれ舞っていた薄桃色の花びらが、薄紫色に変わる。
馥郁と香り始めたこの匂いは。
「これは…藤の」
――市。
背後から掛けられた声に、市の全身がびくりと震えた。
まさか。でもそんなはずは。
今すぐにでも振り返ってしまいたいのに、震える体は言う事を聞かない。
やがて後ろから伸びてきた腕に優しく抱きすくめられる。
『またそなたをこの腕に抱けるとは思わなかった…』
「ああ、あ…」
忘れもしない声、見覚えのある籠手。包むように自分を抱く腕に、ぎこちない動きで手を添える。
視界が滲んだ。
「ながまさ、さま…」
市は身を翻すと長政の胸に縋り付いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…!」
伝えたい事は山ほどあるのに、言葉がつかえて出てこない。
顔を見たいと思うのに、次々と溢れる涙が視界を霞ませる。
声を上げて泣きじゃくる市の頭を、長政の手があやすように撫でた。
『斯様に泣くな、市…折角また逢えたのだ、某に顔をよく見せてくれ』
まだ僅かにしゃくり上げている市の頬に手が添えられ、そっと上向かせられる。
長政の唇に涙を拭われようやく目にしたその姿は、青白い燐光を放っている事を除けば
生前と何一つ変わらなかった。
唇も胸も腕も、全てが温かかった。
身に着けた衣服を脱いでも、不思議と肌寒さは感じなかった。
自分と同じく全裸になった長政に組み敷かれ、市は藤の花びらの上に横たわる。
言葉を紡ごうとした唇が、長政のそれによって塞がれた。
「ん……」
『何も言わずともよい。某の子を産んでくれるのだろう?』
市はこくりと頷き、長政に身を委ねた。
長政とは幾度も夜伽を重ねていたが、結局子宝を授かる事はなかった。
書物に惹かれたのも、もしかしたら長政との間に子を成せるかもしれないという思いからだった。
「あぁっ…」
つんと立った桜色の乳首を唇で挟まれ、市の口から吐息混じりの声が漏れた。
同時に下腹部を優しく撫で回す手の動きに身悶える。
幼い市の体を気遣い決して荒々しいことはせず、だが確実に快感を引き出していく長政の優しい愛撫に、
市は懐かしさと切なさと歓喜の入り混じった涙を流した。
「ん、んぅ…っ、はぁ…」
『ふふ、もうこんなに濡らしているのか…』
秘所を指でなぞると、とろりと溢れた蜜が絡みつく。
「やぁ…そんな、言わないで…あ!」
つぷりと音を立て、長政の指が易々と秘所に潜り込んだ。
それらが蠢くのと同時に、別の指がぽってりと膨らんだ肉芽を刺激し、市を追い詰める。
「はあ、あぁんっ!」
軽い絶頂を迎え、市の秘所が長政の指を締め付けた。
指を引き抜き、快楽に潤んだ瞳で荒い呼吸を繰り返す市にそっと口付けると、長政は己のそそり立ったものを市の秘所にあてがった。
『入れるぞ』
「はい…」
指とは比べ物にならないものがずぶずぶと侵入してくる感触に、市は背を反らせた。
「ああぁぁぁっ…」
下腹部を満たす充足感。失ったものを取り戻したかのような錯覚。
膣内をかき回されるたびに背筋が震え、市はおとがいを反らせて歓喜にむせぶ。
「ああ…長政様、気持ちいいの、もっと、もっと…!」
結合部からお互いが絡み合う浅ましい音が響き、溢れた蜜が流れ落ちる。
細腰を掴まれいっそう深く突き入れられて、市は押し寄せる快感に爪先を硬直させた。
『…愛している、市』
耳元で囁かれる言葉に答えるかのように、市は長政の体にしがみつく。
藤の花の香りと、懐かしい長政の匂いがした。
「私も…っ、愛しています、長政様…ずっと…!」
上り詰めていくのを感じながら、うわ言のように繰り返す。
より激しくなる責めに、市は嬌声を上げて腰をくねらせ、ついに絶頂を迎えた。
「あっ、あっ、あっ、ああああぁぁぁ―――っ!」
体の奥に、熱い子種が注ぎ込まれる。
断続的に子種を注ぐ長政のものと、一滴残らず搾り取ろうと痙攣する自らの膣の動きを感じながら
市は絶頂の余韻に身を委ねて目を閉じた。
どのくらい時が経ったのかは分からない。
あれから幾度目かの交合を終え、身嗜みを整えた市はぐったりと脱力した体を長政に預けてまどろんでいた。
『市、某はそろそろ行かねばならぬ』
髪を撫でていた長政に告げられ、身を起こす。
「…はい」
分かっていた事とはいえ、やはり別れは辛かった。
目を伏せて俯く市を長政が抱き寄せる。
『辛いなら、一夜の夢だと思えばいい。だが某は、そなたがこんなにも想っていてくれた事を嬉しく思う』
「長政さま…」
再び溢れ出した市の涙を拭ってやりながら、長政は胸元から藤の花を取り出し市の髪に挿した。
『さらばだ、市』
その手で視界が塞がれ、少し強引に瞼を閉じられる。
「愛しています、長政様…」
呟いた市の唇に長政の唇が触れ、離れた。
藤の香りが強くなったかと思うと、直後、強風に吹き飛ばされたようにかき消えた。
そっと目を開けた時、すでに長政の姿はなく、藤の花びらも消えていた。
代わりに満月が煌々と輝き、その光に照らされた桜の花びらが宙に舞う。
もう辛くはない。確かな証を手に入れたのだから。
髪に挿された藤の花をそっと懐にしまい、何かを確かめるかのように下腹部をなでると、市は城に戻るべく歩き出した。
その足取りに迷いはなかった。