「下がりなさい!下郎の分際で!」
私はそう言って、平伏する男に櫛を投げつけた。櫛が当たってもその男は動じず、ただ頭を伏せたままでいる。
「お父上の…道三様のお言葉はよくお聞き下さい。全ては貴女の為なのです」
「黙れ!」
立て続けに引き出しから筆を取り出し、投げつけた。それでもまだ、動かない。
「光秀…お前、自分が何を言っているのかわかっているの!?」
「主家に忠を尽くすは武士の勤め。君主の命あらば私は動きまする」
「…私には忠を尽くせないの?」
「否…貴女に尽くすは…」
「許される事なら…一生を尽くしとう御座いました」
「!!」
私はいても立ってもいられなくなり、寝屋に戻った。
「どうして…どうしてそんな事が言えるのよ…光秀…」
忘れたくても耳に残っていた。織田との縁談が決まったと。当然、父は私の想いを知らないだろう。まさか家臣に想いを寄せていたとは。
政略結婚と家臣を一族とする為の縁談は、政略結婚に重きが置かれる。それはわかっていた。ただ明智の活躍は近隣に広まる程だ。
あわよくば…と思っていた。
甘かった。何も知らぬ父は、使いをその明智にさせた。それがどれだけ大きな衝撃となるか、父は知る由も無い。
そして、光秀は思っていた以上に忠実な人間だった。それが私に更なる一撃を加えていた。
「光秀の馬鹿…私がわざわざ思いを寄せてやったのに…どうして…」
平坦な道では無かった。想っている事すら隠して、やっと成人が近づいた時、道は拓けたと思った。その全てが甘かった。
「こんな…こんな世でなければ…」
涙は止まらず、少しずつ日は沈んで行った。
今宵、光秀は泊まると言う。父は外出、主要武将を稲葉山に置けば、実質この屋敷には二人きりだ。
一夜だけでも…
私の心に、そんな言葉が浮かんでいた。
私の寝室には、質素な縁側があった。空虚な私は夜風と戯れたくなり、そこに座る。粗末な庭だったが…その真上に見えたのは、天上の世界。
月が綺麗だった。銀色に、蒼き夜空で唯一の存在として、燦然と輝く。既に目は離せない。
稲葉山から飽くほど見た筈の月が、今は特に美しく見える。
あの城下で私と濃姫様…かつての帰蝶様と、出会ったのだ。
「帰蝶よ。この男が光秀だ」
「はじめまして。帰蝶様」
「…」
帰蝶様は、黙っておられた。何の表情も出さない、ただ美しい顔がそこに有るだけで。視線だけをこちらに向けていた。
「光秀よすまぬ。帰蝶は儂にも無口でな。侍女に最低限、用向きのあるものを伝える外は口を開かんのじゃ。いつからかこんな偏屈者になりおって…」
「それで私を?」
「そうじゃ。貴様は文武に秀で、将来は斎藤の柱石」
「もったいないお言葉に御座います」
「よい。あらゆる物のに達者な貴様だからこそ頼むのじゃ」
私がここに来た理由はただ一つ。姫様の教育係だった。
偏屈、寡黙。色々と女子として良い噂の立たない姫を教育する為の係。この頃は美濃に人材が充実し、私をその程度の任務に割く事も可能だった。
私はただ一礼して、一言。
「どうか宜しくお願いします」
無言が返答だった。
「これからの女子は賢くあらねばありません」
「…」
「私が教授します故、姫様もしっかり学んで頂くよう」
抵抗はしない。しかし、言われた通りの事はこなしてみせた。上級の問題、特級の問題などを当ててみるも、表情を崩さず解き上げる。
私は、姫様がただの少女では無いと確信した。
しかし、褒めてみても、
「姫様、素晴らしい出来です!」
「…」
私に似つかわしくない大袈裟な反応をしても、ただ窓の方を見て、目を細めただけだった。
そんな姫様に変化が起きたのは、ある夜の晩だった。私はいつものように姫の寝室の前に立ち、夜番をしていた。
これも任務だった。四六時中姫を守る事も命令の内に入っていた。
月と夜空を見つつ、番をしていると、背後から物音がする。
私は振り向いた。