月明かりの眩しい夜だった。  
 こんな夜は奇襲に向かない。  
 明日はもう少し曇るといい、と市は思った。  
 隣にどっかりと腰を下ろす兄も、おそらく同じ事を考えているだろう。  
 
 いったいいつから自分は、血にまみれた戦場の事ばかりを考えるようになったのか。  
 ふぅとため息をついたところで、目の前に盃が差し出される。  
 酌をせい、と無言の命に従って、手にしたどぶろくの徳利を傾けると、とっと軽い音を立てて強い酒が盃へと注がれた。  
 皆から鬼と恐れられる兄は、ぺろりと舐めた後にぐいとそれを一気に煽って月を見上げた。  
 市もそれに倣って、少し欠けたそれを見上げる。  
 なぜか見覚えのある月だった。  
 
 ――お月さまはまるでお義姉さまのよう。  
 
 気まぐれに夜道を照らすそれに、人は魅せられ惑わされる。  
 美しくて艶やかな、義姉のようだ。  
 そして今、おそらく濃姫と行動を共にする光秀も、月夜のようにどこか寂しげだ。  
   
 信長は闇だ。  
 月や月夜と似て非なる、完全な闇。  
 相容れずに脱離をしたのも無理からぬ事実かもしれない。  
 
 また盃が目の前に差し出される。  
 本来なら、戦の前夜に兄へ酌をするのは濃姫の役目だったはずなのだ。  
 だけどここに濃姫はいない。  
 いないどころか、明日はきっと明智の陣営に彼女はいる。  
 妻をも打つ覚悟を、兄は決めているに違いない。  
 その決断は、おそらく容易だったろう。彼は鬼であるのだから。  
 
「お兄さまは……」  
 それでも聞いてみたくて、恐る恐る口にする。  
「お義姉さまを、」  
 
 ――斬るの?  
 
 ――……愛して、いるの?  
 
 どちらを先にたずねようか、逡巡をした隙にぐいと手首を引かれて上体が傾いた。  
 大きな手のひらが、市の細く白い首にかかる。  
 ぎし、と骨の軋む音が脳髄に響いてぎくりとする。  
 ぎりぎりとその手で持ち上げられ、頚部が圧迫されて血の巡りが止まった。  
 目の前が白く濁る。  
「お、に……さま?」  
 空気のような細い声を絞り出し、恐ろしいほど冴え冴えと光る兄の眼を見つめる。  
 雄々しい眉が何か言いたげにひそめられ、触れてはならなかったのだ、鬼の怒りを買ったと理解し、ぞっと背筋が凍った。  
 
 片腕一本で、このままここで殺される。  
 こんなにも容易く、この命は終わるのだと、半ば諦めかけたところで、乱暴に床に叩きつけられた。  
 息を吸う暇もなく、ずしりと下半身が圧迫される。  
 ぼやける視界を懸命に凝らせば、細い腰の上に馬乗りになった兄が、にやりと口元を歪めていた。  
「……のう、市よ」  
 息苦しさに返答ができぬ市を無視して、信長は淡々と言を続ける。  
「長政は、よい夫であったか?」  
 見開いた両目に映ったのは、信長のつめたい嘲笑だった。  
 
   
 長政は間違ってなどいなかった。  
 今でも市はそう信じている。  
 鬼である兄に、まっすぐに生きた長政を嘲る資格などありはしない。  
 ありったけの敵意を込めて、市は信長を睨んだ。  
 
 実兄の手で愛しい夫を殺され、自ら果てる事も許されず濃姫に生かされた。  
 その後幾度となく自害を試みても叶わず、死に場を求めて戦場へと舞い戻った。  
 いつか何処かのつわものが、自分を長政の元へ送ってくれる。  
 それだけを夢見て、戦場で舞った。  
 同時に、信長を守り助く事だけが生き甲斐となった。  
 
 兄は憎い。  
 憎いけれどこんなにも愛しいのだ。  
 たった一人残された、近しい肉親を、どうしても殺したいとは思えないのだ。  
 
 けれど兄は同じようになど市を見てはいない。  
 簡単に市を殺すだろう。  
 それを騙るかのように喉の奥でくっと笑うと、おもむろに夜着の袷に手を伸ばし乱暴にはぎとった。  
「お兄さま!?」  
「申してみよ。長政はうぬをどう愛でたのだ?」  
 こうか、と耳元で低く囁いて、兄の熱い舌が首筋をねっとりと舐めあげた。  
 身体がぞわりと震え、市は懸命にがっちりとした体駆を押し退けたが、つめたく痺れた身体はまったく言うことを聞かない。  
 もともとの体格差も手伝って、市はただ、信長に文字通り弄ばれる。  
「いやっ、やめて……お兄さま、許して……ッ!」  
 大きなてのひらに余る乳房も乱雑に揉みしだかれて、痛みを覚えて顔をしかめた。  
「こう、か?」  
 骨ばった手が無遠慮に下肢へと延びて、何の準備も整わぬ秘壺へと強引に入り込んだ。  
「いッ」  
 高く叫びだしそうになる声を何とか抑えた市を一別して、満足そうに信長が口を歪める。  
「うぬはいつ信長を裏切るのだ?」  
 ぴちゃり、と卑猥な音を立てて、桃色に淡く色付いた乳頭をきつく吸い上げられた。  
「あぁっ、……え?」  
「構わぬ、申せ。次はいつ、裏切るのだ?」  
 顔を必死に上げても、伏せられた兄の表情は窺えない。  
 
 光秀は、謀反を起こした。  
 濃姫は、信長を殺したがっている。  
 蘭丸ももういない。  
 鬼はどんどん孤独になっていく。  
 
 先端をきゅっと指の腹で押されて、市の背中がびくんと震えた。  
「ッは、あたしは……!」  
 もう裏切らない、など、思い浮かべただけで空々しい。  
 続きを待つように、兄が顔を上げた。  
 ゆるゆると、上体を起こして信長の下から華奢な身体を引きずり出す。  
 向き直って居住まいを正した。  
「あたしにも、」  
 ぐっと何かがこみ上げてきて言葉に詰まる。  
 熱い、熱い何かが。  
 兄は怪訝そうに顔を歪めた。  
 その首筋に、ふわりと縋り付く。  
「もう、お兄さましかいない……」  
 やっとそれだけを言って、返事などは聞きたくないとばかりに市は熱いくちびるを自ら重ねた。  
 
 
*  
 
 男のものを咥えるのは初めてだった。  
 予備知識は持っていたものの、いざ実践をしようとすると長政は頑なに拒んだ。  
 どんな事柄であれ理由であれ、拒まれるのは嫌いだった。  
 兄は市が突然に身をかがめても、片眉をちらりと上げただけで何も言わなかった。  
 恐る恐るぺろりと舐めても、兄もその身体も無表情を保ったままだ。  
 思い切ってぱくりと咥えると、思いがけず喉の奥に先端がぶつかり咳き込んだ。  
「ぅ……ごめ、なさい、……」  
 熱い大きな手のひらが、無言で市の背を撫でる。  
 
 
 幼い頃から兄が大好きだった。  
 一番目の兄よりも、三番目の兄よりも、その他沢山いる兄弟の誰よりも、この兄が大好きだった。  
 市に一番沢山のことを教えてくれたのは、信長だった。  
 誰よりも兄は賢いと信じていたから、父や家臣が信長をうつけ呼ばわりする理由が全く判らなかった。  
 信長が織田を継ぎ、ついに桶狭間で武勲を挙げたときには心が震えて、喜びでどうにかなってしまうのではと思ったほどだ。  
 それ以来、憂いてばかりだった市の心が、やっと単純な悦びを受け入れている。  
 兄の婚礼も、己の縁談も、嬉しいはずなのに心が重たかった。  
 なにか難しい事がいつも付いて回って、素直に悦ぶべきなのか図りかねた。  
 
 愛しい人はもう兄だけだ。  
 その事実が、皮肉にも心の箍を外している。  
 
 時折、歯が肉棒にぶつかり信長の身体がびくりと震えた。  
 叱られる、と身を硬くするものの、兄は何も言わなかった。  
 逆に不安になり、顔を上げる。  
「……お兄さま?」  
 珍しく楽しげに笑った兄に、ひょいと身体を抱き上げられて狼狽する。  
「えっ……なぁに?」  
 そのまま後ろから抱きすくめられて、身動きが取れなくなる。  
 熱い舌が肩から首筋を這い、耳たぶを甘く噛まれてびくびくと身体が震えた。  
「愛らしいものよな」  
 低い声が耳元から直接脳天へと響き、触れられてもいないのに市の身体は敏感に反応を示す。  
 兄は喉の奥でいつものように笑って、手を再び下肢へと伸ばした。  
「あっ、だめっ」  
 拒否の言など鼻にもかけず、長い足で市の細い足を固定して秘部へと触れる。  
 先ほどとは打って変わってあふれ出す蜜を、その指に絡めとって秘肉を弄る。  
「あっ、んぅ! やっ、やぁ……」  
 くちゅりという卑猥な水音と、堪えきれない嬌声が混じって己の耳に届く。  
 首を振ってせめて聞こえぬように、とかすかな抵抗を試みるが、兄の厚い胸板と、しっかりと筋肉のついた腕が暴れさせぬようにと力を込める。  
「やぁッ、おにい、さま……ふ、ああっ!」  
 細い悲鳴を漏らして、市の身体が弓なりに逸れる。  
 二・三度身体を震わせたのち、ぐったりと力を抜いて兄にもたれかかった。  
 汗ばんで身体が、ぴたりと兄の肌に吸い付くようで心地いい。  
 厚い胸板に、頬を摺り寄せる。  
 そんな妹の額を、兄がまるで幼子にするかのように優しく撫でる。  
 数回手のひらが往復したところで、そっと硬い床に寝かされた。  
 膝の裏を抱え上げられて、身体が強張ったが、その気配を敏感に察した兄が一瞥をよこしたた。  
 咎められた気がして、萎縮する。  
 ふうと息を吐いて、全身から力を抜いた、その瞬間、真ん中から引き裂かれるような痛みが訪れた。  
「ひっ……あ、ああッ」  
 それでも不思議と、奥まで貫かれて全身から汗が噴出した。  
 女の身体など、こうも都合よく出来ている。  
 兄が自分の上で動くたびに、今まで出した事もないような甘い声が口から漏れるのだ。  
 熱に浮かされながら、人形のように揺れる己の白い足をどこか冷静に見つめる。  
 背徳を感じながらも、禁忌を乗り越えるのはこんなにも簡単で、湧き上がる熱は夫婦の営みとなんら代わりはない事実を不思議に思う。  
 
 ずんと深く貫かれて足が揺れる度に、  
 
 普段は鎧に隠れている兄の胸板が想像以上に傷にまみれている、とか、  
 
 握るものもすがるものもなく置き場を失った両手の所在、とか、  
 
 遠い昔、たった一度だけ負ぶわれた時と同じ暖かさで、兄は鬼だけれども確かに生きているのだ、とか――。  
 
 脈絡もなく思いを巡らせた。  
 
*  
 
 少し身体が軋んだような気がして、意識が浮上した。  
 冷えた身体に先程はぎとられた夜着がふわりとかけてある。  
 顔を傾ければ間近に、月光を仰ぎながら酒を舐める兄の姿が目に入る。  
 兄ならば女を全裸で放置しそうなものなのに、意外な気遣いに少し驚いた。  
 しかし兄が何かするたびに、同じ事をされたかと、ここにはおらぬ義姉に問掛ける。  
 優しくされても、手ひどく扱われても、だ。  
 ああでもその前に、あの義姉なら情事の最中に気を失うことなどなさそうだ。  
 くすりと笑うと、兄がちらりとこちらを見た。  
 お互いの眼がぶつかりあったものの、発するべき言葉は何も見当たらなかった。  
 身を起こそうと上体をひねると、内腿をどろりと生暖かいものが伝った。  
「…………子種……」  
 身篭ったらと口にする前に、兄がいつものつめたい口調で一言、産めばよい、とこちらを見たまま呟いた。  
 鬼と呼ばれる兄の子を産むのは、この修羅からの脱却か、それとも更なる深みへの序章か。  
 
 どちらでも、兄の側にいられればそれでよい。  
 淡い月明かりのなか、市は小さく頷いた。  
 
 
 

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