「俺はあんたが欲しいんだよ」
あの男がそう言ったのは、いつのことだったか。
女たらしの戯言としか思っていなかったのに、
男は、不思議なほどの執念で濃を追いかけ、あの手この手で
濃に近づこうとした。
濃は初め、彼をの行動を鼻で笑い、相手にしなかった。
それが、どういう経緯で、部屋に忍んで来るようにまでなったのか。
思い出そうとするのに、男の指が体中を這って、
考えがひとつにまとまらない。
男は雑賀衆の頭領。名を孫市といった。
濃は、自身が信長という男の妻であることに、強い誇りを持っていて、
信長以外の男なんて眼中にもなかったのに、
何故自分がこの男を部屋に招きいれ、人払いをしてまで
抱かれているのか、自分でもわかっていない。
男はいつも飄々として、真意が掴めない。濃に執着する理由もわからない。
それが濃には、ひどくもどかしい気がするのだが、いつも
憎たらしく笑っているこの男にそれを問うのも癪に障る。
大体、魔王の妻の自分が、そんなことを問いただしてどうするのか…。
男の表情は、こうしてまぐわっているときも変わらない。
小憎たらしい、余裕の表情で、濃を弄ぶ。
しかし濃はそれを怒ることも出来ない。男に体中にくちづけられ、
甘い言葉で囁かれ、激しく突き上げられ、濃は息も出来ない。
汗も、吐息も、男の揺れる後れ毛も、全部が小さな灯りに融けて、
あとは快感だけが濃を貫く…。
「信長は、今夜は側室のところ?濃姫様」
煙管を吹かしながら、孫市が訊いた。
濃は、結局何度も絶頂を迎えてしまった自分の浅ましさに
静かに怒っていたから、答えもぶっきらぼうになる。
「…そうよ。だからこうしてあなたが居られるんじゃない」
孫市はクス、と笑う。
「じゃあ夜明け前まで居られるな。今度はまた3日後に来るよ」
「3日後にはいつもより見張りの兵を多くしておくわ」
「つれないなあ」
孫市はまた笑って、濃の唇を吸った。突然のことで、抵抗も出来ない。
香しい体臭が濃の鼻腔をついて、濃は腰が砕けそうになった。
「…3日後に、あの人が私の部屋に来ていたらどうするつもりなの?」
長い口付けののち、濃はやっと呼吸を整えて、尋ねる。
「さあ?姫が俺をかばってくれない限り、殺されるだろうな」
「かばうわけ無いでしょう。私はあの人の妻だわ。
あなたのものになんかならないわ」
孫市は、相変わらず表情を変えない。にやにや笑って、
張り倒してやりたくなる。
「覚えていてくれたんだ?俺が姫を手に入れたいって言ったの。
随分前のことなのに」
濃は答えなかった。孫市は言葉を重ねる。
「あんたが信長の妻でいたいのなら、それはそれで構わないぜ?姫。
俺は、たまの逢瀬で充分だしね」
「呆れたわね。手に入れたいというのは、その程度の望みなのかしら?」
濃が笑顔を作って言うと、孫市は小さく笑って言った。
「だって姫はさっき、夜具の中であんなに悦んで、俺のことだけを考えていたろ?
信長のことなんか、忘れていたろ?」
痛いところをつかれ、濃ともあろう者が、咄嗟に反論できなかった。
「俺には、あんたに魔王を妻を辞めろ、なんて言う資格はない。
でもこれからもこうやってあんたの元へ忍んで来る。
姫、もしあんたが魔王の供をして地獄へ堕ちるんだったら、
俺も地獄へ行って、また姫を抱くよ」
「…あなた、気は確か?」
それだけ言うのがやっとだった。
「確かさ。言ったろ?俺は姫が欲しいんだ。
やっと手に入ったのに…逃がしたくないからね」
END