私・・・荻野千尋が『千』になってから、どのくらいの時間が経ったんだろう。
相変わらず続く雑用の仕事と、豚になったまま戻らないお父さん、お母さん。
この時が永遠に続くなんて保障はどこにもないけれど、
この日々が断ち切れる保障もおんなじようにない。
そんな風に思ったら、体が苦団子を食べたときの様に苦しくなって、お風呂の釜を擦る手が震えた。
「千・・・せーん?」
リンさんの声がした。おんなじ風呂釜を洗っているのだからすぐ近くにいるはずなのに、
やけにぼんやりと遠くの方で聞こえる。
「せーん!どうした?手がとまってるぞ?!」
これでもか、ってくらいに大きな声で名前を呼ばれて、ようやく私ははっとする。
「ご、ごめんなさいリンさん!私、ちょっと考え事してて、それで・・・っごほっ!」
わたわたとごまかしの言葉を口から出していたら、
巧く息継ぎかできなくて途中でむせこんでしまった。
でも、それでちょっぴり出ていた涙をごまかす事ができたから、良かったかもしれない。
「ったく、大丈夫かー?こっちは大分綺麗になったし、お前はちょっと休憩してていーよ。」
え、でも、と反論しようとする前に、
リンさんは私をひょいっと持ち上げて大風呂の釜の外に放り出した。
それで戻るに戻れなくなった私は・・・少し早すぎる、昼休みをもらってしまった。
休んでいいと言われても、みんなはまだ働いているし、お昼ご飯もまだ先のこと。
どうしよう・・・とそわそわしながら、私はとりあえず皆の迷惑にならないよう、
女部屋(女子従業員の部屋)に戻る事にした。
薄暗い廊下を一人で歩いていると、またさっきみたいな鬱々しい気分になってきて、
私はきゅっと唇をかんだ。
と、その時。
「きゃっ!?」
廊下と廊下をはさむ部屋の障子からにゅっと手が伸びてきて、
その手が私をその部屋の中に引っ張りこんだの。
驚いて一瞬声をあげたけど、次の瞬間その手の主が視界に入って、私の体から力が抜けた。
「・・・・・ハク。」
見上げた先には私より頭一つ背の高い、綺麗に切りそろえた薄緑の髪が印象的な少年が立っていた。
ハク、だ。
この摩訶不思議な世界で私が今こうやって何事も無く(でもないけれど・・・)生活できてるのは、
全部この人のおかげだって言ってもいいと思う。そのくらい、私はハクに感謝してるの。
ハクへの気持ちは、感謝・・・だけではないけれど。
「千、今は勤務時間中だが、ここで何をしてるんだ?」
ハクが私を千と呼ぶときは、仕事をしている時間の時。今のハクは完全に、
「上司」の顔になっていた。
「あ、えと・・・ね。大風呂で私がぼーっとしていたら、リンさんがもう休憩にしていいって。だから・・」
あいかわらず、私はあんまりはきはきとしゃべれない。
特に仕事中のハクはとっても厳しいから、少しだけビクビクしながらしどろもどろに答えてしまった。
「そう、休憩中だったのか。・・・でも、仕事中呆けていてはいけないよ、千尋」
そう言うと、ハクは掴んでいた私の手首をやさしくほどいた。とたんに声色も優しくなる。
私の名前が『千』から『千尋』に変わった。
今の世界ではハクだけが呼んでくれる、
私の本当の名前・・・・。
「ひろ・・・千尋?どうかしたのか?!」
気がつくと、私はハクの服のそでをおもいっきり掴んで抱きついていた。
目からはさっきお風呂場で我慢した涙がいっぱいあふれて、どうしても止まらない。
「ハ・・クぅ・・・ふぇぇ・・・ハクっ・・・」
こわれてしまったように泣きつづける私の肩に、ハクは何も言わずに腕をまわしてきた。
なにがなんだかわからない世界で、なにがなんだかわからないままここに居る私。
不安で不安で、腕も足もガクガクと震えた。
しがみ付いているハクの体温が優しくて、よけいに涙が止まらない。
おにぎりの時みたい。
・・・きっと私、今またすっごくかっこわるい顔してるんだろうなぁ。