『釈迦はいい人だったから』
油屋の従業員にとって、もっとも有難い日がある。
それがこの物忌みの日だ。普通、物忌みというと行動を慎んでいないと
何か不吉なことや災いが起きると言われているが、この物忌みの日には客である八百万の神々は
確実に来ないので、実質油屋は休業になる。
従業員達にはこの日は唯一の休みの日であるため、ほとんどの従業員は油屋を出払ってしまう。
休日の過ごし方は、各自勝手気ままだが大抵はもらった給料で買い食いするものがほとんどである。
特にこの前の物忌みの日には青蛙が”蛙はどんなものでも食べれるのか”という疑念を基にゲテモノ類を
食べ歩き、終いには道のど真ん中で仰向けにひっくり返って気絶してしまったという珍事が発生している。
だが、それだけ羽目をはずせるということは、この物忌みの日が従業員達にとってよほど大切な日なの
であるということをうかがえさせるのである。
閑話休題
さて、千尋とハクも例外ではない。
「いい天気だね、ハク」
今、千尋とハクは休日を利用してピクニック(実質デート)に来ていた。
「ああ、そうだね」
空には雲がゆったりと流れ、心地よい日差しがさんさんと降り注ぐ。
柔らかな風が吹く草原に二人は大の字に寝転び、ぼんやりと雲を眺めながらいろんなことを話していた。
この世界のこと、銭婆のこと、坊のこと
そしてあっちの世界のこと。
小学校の授業の様子や友達、千尋にとっては古いようで新しく、新しいようで古い記憶。
「仕事には慣れたかい?」
唐突にハクが聞いた。
「え?うん、だいぶ慣れたけどまだちょっときついって感じかな」
竜の子は不意にあの時のことを思いだした。
この人の子がここへ迷い込んできた時のことを。
(ここへ来てはいけない、すぐに戻れ!)
あの時何故あんな中途半端にしか追い返せなかったのだろう。
本当に彼女のことを思うなら力ずくで門にまでつれてゆけば良かった。
否、手っ取り早く魔法を使うべきであった。
何故だろう。
湯婆婆の虫のせい?いや違う
自分のどす黒い支配欲という名の欲望のせいだ。
この娘を自分のものにしたい、あっちの世界に返したくない
それが全てとは言えないが、
心の中にそれが無かったといえばそれは嘘だ。
「すまない」
今更何を
自分でもわかっていた。
それでもハクは言わずには出来なかった。
「そんなのハクがることじゃないよ」
少し微笑みながら千尋は呟いた。
「いや・・・そうじゃないんだ」
ハクは急に寝返りをうつと急に千尋に覆い被さった。
「ハク・・・?」
事態がうまく飲み込めずにきょとんとする千尋。
「そうじゃない・・・そうじゃないんだ・・・」
ハクは苦しそうに目を瞑った。
「そんな苦しそうな顔、しないで・・・」
千尋がやハクの顔を優しくなでながら呟いた。
「ハクがそんな顔してるの、わたしすごくつらいよ。
仕事の時だってむっつりした顔のハク見るときなんかすごく緊張して
どんな風に声掛けていいのかわかんない時があるもん。
だから仕事じゃないときはもう少し笑って、ね?」
ポチャ
液体が千尋の頬に落ちた。
「泣かないで・・・ハク・・・」
ハクの両の瞳からは大きな涙がいくつも流れ落ちた。
「ありがとう・・・」
そう言うとハクはやさしく千尋の顔を抱き寄せ、その唇を自分の唇に近づけた。
「ハク・・・大好き」
千尋は体の力を抜き、ハクに身を任せなすがままの状態になった。
二人の唇が重なった。
いつのまにか眠ってしまったらしい。
太陽は赤く染まり始め、地平線に傾き始めている。
「どうしよう、夜までに帰れるかな」
千尋が不安げな声をもらした。それを聞くとハクは微笑んで
「大丈夫、私の背中に乗っていけばすぐにつくから」
と言うと、ハクの体はは真っ白な竜へと変わった。
と、そのとき千尋が何かを見つけて声を上げた。
「あ、きれいな花」
見るとすぐ近くの崖の上に頂上に一輪のきれいな花が
小ぢんまりと咲いていた。
「リンさんにあげたらよろこぶかもなあ」
そこはやはり10歳の子供であった。
「ねえハク、あの花とってきてくれない?」
千尋がそう言うとハク(竜形態)は小さく頷き、フワッと空に舞い上がったかと思うまもなく
あっという間に崖の頂上に音もなく着陸した。
下を見ると千尋が心配そうに上を見上げて叫んだ。
「落ちてきたら受け止めてあげるからねー」
冗談なのか本気なのか竜にはわからなかったが、とにかく早く目的を達成しようと
目の前の花に手を伸ばした。
その時だった。
ビュオオオオッッ
一陣の突風がハクをたたきつけた。
さすがのハクもまったくの予想外で思わずバランスが崩れ、よろけてしまった。
よろけた足の片方に地面の感触は無かった。
体はバランスを失い、ハクはそのまま地面へと落下していった。
いつもなら空中で体勢を立て直すことも出来たのだが、この場合は完全に”隙を突かれた”格好になり、
なす術もなく万有引力に従っていった。
ドサッ
どうやら気を失ってしまったらしい。
意識が徐々に戻るのを感じ、ハクは頭を起こした。
落ちたときの衝撃が予想より軽い
どうやら何かが緩衝材の代わりになったらしい
ん?緩衝材の代わり・・・代わり?
ハクは恐ろしい予感にとらわれた。
まさか・・・?
体を起こし、自分の落ちた跡を見た。
そして固まった。
予感は的中した。
地面から出ている座布団ほどの大きさ石
そこに血を流した頭を乗せた人間
紛れも無く千尋だった。
あれは本気だったのか
ハクの頭はぼんやりと、そんなことを考えていた。
だがそれもつかの間、だんだんと正常な思考が蘇りかけていた。
私は崖から落ちた
気が付けば千尋は頭から血を流して倒れている
ということはこれは私のせいなのか!?
ハクの頭は凄まじいパニック状態に陥った。
千尋千尋TI尋千尋千尋千HIRO血広血広血広TIHIROT千HIROTIHI・・・・
約四半刻(30分)が過ぎ、ようやく彼の頭はパニック状態から脱した。
竜のままの状態で動かない千尋の体を持ち上げた。
心臓の鼓動は停止し、息もしていなかった。
それでも、まだ彼女の体は温かった。
とそのとき、千尋の頭から何かがズルッと落ちてきた。
ハクは彼女の体を地面に静かに置き、それを見た。
まごうことなき彼女の脳髄だった。
やけに彼の頭は冷静だった。何故かは自分でもわからない。
彼女のその割れた頭を舐めてみた。
怪我をしたとき、傷を舐めるとその傷が早く癒えるのを彼は経験していたからだ。
だがやはり割れた頭は元に戻らず彼女も動かず
代わりに口の中が鉄臭くなるだけだった。
すると頭のどこかから声がしてきた。
クッテシマエ
ヒトツニナッテシマエ
ハクの中で何かが吹っ切れた。
涙が止まらなかった。
体を傷つけないように注意して彼女を丸呑みにした。
だが一緒になったという実感は湧かず、むしろ凄まじい罪悪感に襲われた
人喰い
今の自分にぴったりだ
ハクはそう思うと一声高く叫び、
いつの間にか暗くなった空へと飛んでいった。
どこへいったのか誰も知る術はない。
『結構良い人だったから恋してあげてもよかった、
結構良い人だったから好きになってもよかったけどね』