琥珀川の主、ニギハヤミコハクヌシはその日いつになく上機嫌であった。
やはりさっきの一件が関係しているのであろう、
と川に住むフナは思いながらさっきの一件思い出した。
小さな女の子が一人、溺れて水底に沈んできた。とても小さくてだいたい3歳くらいだろうか。
うちの川の主はその子を救い上げ、川岸へと送り届けたのだ。
多分、自分はいいことをしたのだという優越感にでも酔っているのか。
フナはそんなことを考えながら下流へと気の向くままに泳いでいった。
その時、向こうから一匹の竜がやってきた。
「これはセラトウカコクショウヌシ様、何か御用でございますか?」
「我が友に話があってやってきた、取り次いでくれぬか」
「はい、かしこまりました」
「で、話というのは一体何だ」コハクヌシが聞いた。
「うむ、最近気になるうわさを耳にしてのお」
「気になるうわさとは?」
「何でも人間どもの”政府”とやらが宅地造成というものを推し進めておっての、
森や山を削り出しておるのらしいじゃ」コクショウヌシは重々しげにしゃべった。
「そんなことは前々からあったはずだが」
「確かにそうじゃが、今度は今までとは比べ物にならんほど大規模のようじゃぞ、
現に高名な山や森の神の何人かも住んでいた土地を奪われたそうじゃ。」
「・・・・・」ニギハヤミコハクヌシは言葉に詰まった。
「まあ、今日きたのはおぬしにこのことを伝えるためじゃ、
我々川の主にとってはまだたいしたことではなかろうかも知れぬが、
十分注意してくれ」
そういうとセラトウカコクショウヌシは長い体をくねらすと川の流れへと姿を消した。
が、この時ニギハヤミコハクヌシはことの重大性をほとんど理解していなかった。
(いざとなったら人間くらい私の手でどうにかできよう)
『ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分は少し不安であったが、とにかく自分は共産主義者では
なかった。だから何も行動に出なかった。』
それから約二年の月日が流れた。
近頃はめっきり川を訪れる人も減ってしまった
それはいいのだが、どうもここ最近上流からやたらとゴミが流れてくる
暇を見てはその都度掃除をしているのだが、一向に数が減らない
ニギハヤミコハクヌシはそんなことを思いながら川を散歩していた。
と、その時上流から一枚の紙が流れてきた。
彼は、ふと興味を覚えてその紙を口にくわえて書かれていた文字に目を通した。
それは新聞だった。記事にはこう書かれていた。
「進む宅地開発、政府がさらに税金を投入して後押し」
一通り読むとニギハヤミコハクヌシは記事のことを特に気にも留めず、
新聞を水に溶けやすいように細かく引き裂いて川へと流した。
それはゆっくりと川下へ流れていった。
『次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を増したが、社会主義者ではなかったから、
何も行動に出なかった。』
それからまた一年が過ぎた。
ある日、ニギハヤミコハクヌシがのんびり昼寝をしているとフナが血相を変えてやってきた。
「たいへんです、セラトウカコクショウヌシ様がやってきました!!」
「来客ごときで血相を変えるとはおぬしらしくも無いな」竜は瞳をゆっくりと開けながら呟いた。
「それが・・・セラトウカコクショウヌシ様はタタリガミになられています!!」
一気に眠気が吹っ飛んだ。
次の瞬間、ニギハヤミコハクヌシは猛スピードですっ飛んだ。
「セラトウカコクショウヌシよ、一体どうしたのだ」
ニギハヤミコハクヌシは下流から上流に上ろうとしてきているセラトウカコクショウヌシを見つけ、
大声で問いただした。
「ウウウ・・・・カワ・・ナイ・・・トラレタ・・・・」
セラトウカコクショウヌシの体はすでにぼろぼろに朽ち果て、かろうじて竜の体型は維持しているも
のの、
もうどこからどう見てもゾンビに近い状態になっていた。
「カワ・・ホシイ・・・・・クレ・・・ニギハヤミ・・オマエノカワ・・・クレ・・・」
次の瞬間、タタリガミになったセラトウカコクショウヌシはハクに襲い掛かってきた。
間一髪で交わしたニギハヤミコハクヌシはそれでもセラトウカコクショウヌシを静めようと必死に問
い掛けた。
「セラトウカコクショウヌシよ、そちの川をとられた苦しみはわかる、だが私にはそちの川を取り返
すことはできない、静まれよ!」
「カワ・・・ヨコセ・・ニギハヤミ・・・カワヲ・・・カワヲ・・ヨコセ・・・」
完全にタタリガミと化している
ニギハヤミコハクヌシは決心した。
殺るしかない
一度決心したら殺るのは簡単だった。
セラトウカコクショウヌシは動かなくなり、静かに下流へと流れていった。
ニギハヤミコハクヌシは流れてゆくセラトウカコクショウヌシだった物体を見つめながら思った。
セラトウカコクショウヌシは川を奪われた、だが私はセラトウカコクショウヌシとは違う
絶対に川を守りきってみせる
それに私の川だってまだ工事の手が及ぶと決まったわけではない
余裕はまだある
『それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等々をどんどん攻撃し、自分はその度ごとにいつも不安を
増したが、それでもなお行動に出ることは無かった。』
それから半年後、それは突然やってきた。
朝早く、ニギハヤミコハクヌシが眠っていると、突然
ドガガガガガというものすごい音が川中に響き渡った。
慌ててニギハヤミコハクヌシが飛び起きて川岸を見ると、
そこには川の死神達がいた。
ショベルカー ブルドーザー 大型ダンプカー そして作業員
ニギハヤミコハクヌシは全てを悟り、猛烈な怒りに駆られた。
オノレニンゲンドモメ、スベテオシナガシテクレヨウゾ
ニギハヤミコハクヌシは洪水を起こそうと精神を集中し、一声高く吼えた。
しかし来るべき洪水は一向にやってこない。いや、やってくる気配すらない。
おかしい、一体何故だ?
そう思うとニギハヤミコハクヌシは川の源であり、自分の神通力の源でもある一番上流の水源にまで
行ってみた。
水源まで行く必要は無かった。あっけにとられた。
水源へと続く川は今、コンクリートミキサー車から流れる生コンによって埋め立てられつつあった。
実は、人間達はもし工事中に洪水が起きたらかなりの被害が出るとあらかじめ予想しており、洪水を
防ぐために、一番手っ取り早い方法、つまりコンクリートで川をせき止める方法に出たのだ。
水神たちは川の源から神通力を川の流れを通してもらっているため、川をふさがれてしまえば
もはや神通力は無くしたも同然になってしまう。ニギハヤミコハクヌシも例外では無かった。
彼はその日の夕方、無くなりつつある川の岸に座り、いろいろなことを考えていた。
(自然神は通常人間の目には見えない)
かつての自分の川のこと セラトウカコクショウヌシのこと あの子のこと
そしてふと目をやると、水もほとんど無くなり大きなキャタピラの跡のついた川の底の土に何かが
半分埋もれているのを見つけ、近づいてそれを見た。
あの時のフナだった。
キャタピラに踏み潰されたためか体はぺちゃんこにつぶれ、まるで干物のようになっていた。
ニギハヤミコハクヌシは静かにそれを見つめ、やがて涙を静かに流した。
『それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だから立って行動に出たが、そのときは
すでに遅すぎた。』