『結婚というのはね、ウナギをつかもうとして蛇の入ってる袋に手を突っ込むことさ』
〜阿刀田 高著 ブラックユーモア入門〜
今、一人の青年がゆっくりと赤い屋根と白いモルタルで作られた門から出てきた。
束ねた長髪と翡翠色の瞳を持った元川の神。
青年はあたりを見回すと過去の自分を振り返った。
長かった
あの日以来、一度も千尋の顔を忘れたことは無かった
千尋が去って以来、私は一心不乱に働いた
彼女のあの顔だけを心の支えにして
しかし、私の予想以上にそれは長かった
千尋達の世界ではすでに6年が経過している
千尋もかなり成長しているだろう、そして私も成長した
今、湯婆婆の契約という支配からようやく解き放たれ、わたしはここにやってくることが出来たのだ
本当に長かった
青年は思いにふけるのをやめ、しっかりとした足取りで歩き始めた。
季節は8月、周囲からは蝉の大合唱が聞こえる。
魔法はというものは便利だ
今更ながらも青年はそう感じた。
今、彼は萩野と書かれた表札のついた門の前に立っている。
歩き出したのはよかったのだが、”肝心の千尋が今どこにいるのか分からない”ということに
気がついた青年は向こうの世界にいたときに会得した魔法を使った。
もし魔法が無かったらこの炎天下の中を汗水たらして歩き回らねばならなかったのだが、
魔法を使ったおかげで彼女の実家を見つけることが出来た。
千尋に会える
はやる気持ちを抑えながら青年は門のインターホンのボタンを押した。
チャイムの電子音が鳴り、
「・・どなたですか・・?」
と少し間を開けて中年の女性の声がした。
おそらく彼女の母親だろう
「萩野千尋さんはいらっしゃるでしょうか?」
青年はやはり気持ちを抑えることが出来なかった。
どなたですかと聞かれているのにいきなり用件を述べてしまっている。
が、そんなことをどうでも良いようにする答えがインターホンから
暗く、重い声で帰ってきた。
「・・・警察の方ですか・・・・?」
青年は歩きながら考えた。
一体何故・・・あの千尋がそんな風に・・・
あの後、千尋の母親からすべて聞かせてもらった
千尋は中学生の頃から悪い友人と付き合うようになり、家にもろくに帰っていない
そのうち、髪も染めて毎日ふらふら遊びまわってるらしい
警察の厄介になることも一度や二度ではなく、ついつい尋ねてしまったという
千尋・・・そなたに一体何が起こったというのだ・・・
そんなことを考えているうちに青年の心の中にひとつの恐ろしい考えが浮かんできた。
もし、千尋が私のことを忘れていたとしたら・・・
それまでの自分の苦労は一体なんだったのか、それはただの無駄骨に終わってしまうのではないか
青年はそんな考えを振り払うかのように、いや振り払おうと頭を振った。
今は千尋に直接会う、すべてはそれからだ
青年は彼女の居場所を探す為の魔法の呪文を唱えた。
「ここか・・・」
青年は思わず呟いた。
ついた先は繁華街のとある建物。看板には「GAME CENTER」と書かれている。
店内は自然神の青年にとってはあまりにも毒々しい光と音で溢れている。
だが、青年はとうの昔に覚悟を決めていた。
私は今まで6年間耐えてきた、千尋に会うためならこんなもの平気だ
青年は意を決すとその光と音の洪水の中へ歩を進めた。
それは青年にとって修羅への入り口
それは彼女にとって六道への入り口
とんとん
いきなり背後から肩を叩かれ、彼女はおそろしく機嫌の悪い顔をして振り向いた。
こんなところで肩を叩かれるとしたら相手は決まっている
あの憎たらしい補導員、40過ぎの大木ボンド似のババア
考えてみればこのところ全然面白いことなんかない
先月に”売り”して稼いだ金もほとんど無くなっちゃったし、一週間前なんか
原チャリをパクろうとしたところをサツに見つかって危うく捕まりそうになった
まったく、何でこうもツキがないんだろ
そう考えながら彼女が振り向いた先には、彼女の予想に反して一人の青年がいた。
「だれ、あんた?」
青年はほんの一瞬、瞳を曇らせた。彼女にはわからないほどの一瞬だったが。
「千尋、ようやく会えたね。」
彼女はその声で誰なのかを察した。
「もしかしてハク?」
案の定というかなんというか
千尋は昔と随分変わってしまった
髪は金色、耳には鋲(びょう)を打ち、
服もだぶだぶの物を着て、一目で荒れているとわかった。
覚悟はしていたがまさかこれほどとは
青年はため息をついた。自分にしかわからない小さいため息を。
いつの間にか二人の周りには千尋とよく似た格好の女達が取り巻いていた。
良く言えば千尋の友人、悪く言えば千尋とつるんでいる不良ども。
口々に二人について勝手気ままなことをしゃべっている。
「ねー、こいつだれー?」
「千尋のモト彼じゃないー?」
↑100%はずれというワケではない。
そのうちに女の一人が千尋に声を掛けた。
「それより千尋さー、今夜みんなで飲みにいくって言ってたでしょー、
あたしら全然金ないんだけださー、どうするのー?」
ハクは次の千尋の言葉に我が耳を疑った。
「あーそれー?売りして作った金も消えちゃったしねー、どうしよっか?」
「ち、千尋・・・今、”売り”って言ったけど・・・・・・?」
青年は震える声で彼女に問い掛けた。
「え?あー、売りのこと、ホテル行って中年オヤジと一緒に寝ればさー、
一回5〜6万くれるのよ、みんなやってるし」
青年は何かで頭を殴られた(あくまで”様な気”であるが)。
実を申せば、青年は彼女とまぐわいをしたかった。
6年ぶりに再開した男女がお互いを見つめあいながら一夜を共にする
というロマンスチックみたいな物ではないが、
青年が彼女に対して本能的な欲望を抱いていなかったといえば嘘になる。
そんなこともあって青年のショックはことさら大きかった。
未通女でないことはまだいい
しかし・・・・・・まさか娼婦になっていたとは・・・・・・
そんな青年の思いを他所に
彼女達は今夜の金をどう工面するかについて話し合っていた。
「やっぱさー狩るしかないじゃん?」
「だよねー、じゃ早めにやっちゃおっか?」
「じゃ、そーしよ」
彼女達はバラバラになると一人は店内の奥へ、
もう一人は外に出て行った。
「じゃーハク、ちょっとここで待っててくんない?
すぐに戻ってくるから。」
そう言うと彼女はどこかへと姿をくらました。
青年はただ呆然とその場に立っていた。
頭の中は空虚が、心の中は絶望が支配していた。
「「「「「カンパーーーーイ」」」」」
飲み屋の座敷の一室でグラスをぶつけ合う音がした。
店が未成年に酒を飲ませることはない、と人々は思いがちだが
実はこの飲み屋は割増料金を払えば未成年にも酒を飲ませるという
闇行為をこっそりと行なっているのだ。
「いやー、それにしてもあんなガキが10万も持ってるなんてさー、マジびっくりしたよー。」
「まさに獲り放題出血大サービスーって感じだよねー。」
「言えてる言えてる。確かそんな名前の女優がいなかったっけ?」
「パクリマ・クリスティー?」
「それそれ。」
彼女達はカツアゲした金で一杯やりながら他愛もないことを駄喋っていた。
そんな中、彼女の昔のダチということで
いっしょに連れられてこられた青年はただ一人、コップに口をつけず、
じっと畳の目を見ていた。
あの昔、あの時に私の助けた千尋は何故この様になったんだろう
「はあー、かなり飲んじゃったなあ」
飲み会も終わり、一緒だった面々とも別れ、
暗い路地裏を青年と彼女は二人きりで歩いていた。
「ねえ、ハク、これからどうしよっか?」
歩きながら彼女は後ろにいる青年に尋ねた。
ワタシノアイシテイタチヒロハイッタイドウシテコンナフウニナッテシマッタノカ
「Hしよっか」
唐突に彼女は言った。
「6年ぶりにあったんだしさー、普通なら5万は取るけどサービスして
ただでヤラせてあげるから、ね?」
イヤ、コノオンナハホントウニワタシノアイシテイタチヒロナノカ
「何シカト決めこんでんのよー?あ、もしかしてさー、ハクって・・・童貞?」
ソウダ、コンナオンナハチヒロデハナイ、タダノショウフダ
「しょーがない、この千尋様がハクを立派な男にしてあげよう」
コロスベキダ、コンナアバズレノショウフナドコノヨニイナイホウガイイ
青年の目は翡翠の瞳から赤い血走った目へと変わっていった。
過ぎたるは希望を絶望に変え、絶望は怒りへと姿を変え、怒りは殺意へと
なり、やがてその人間を六道、すなわち冥府へと送り込む
それの発端はあの及ばざる遠い昔の出来事
コロセ、コロセ、コロセ、コノアバズレノタマシイヲジゴクニタタキコメ
彼女の後ろから足音がぴたりとやんだ。
彼女は変に思って後ろを振り返った。
彼女は鬼を見た。
それから3日たった頃
かつてコハク川と言う名前の川が流れていた所。
そこで一人の女の死体が発見された。
名前は萩野千尋。
死因は溺死だった。