月の明かりに照らされて浮かび上がった綾崎家の蔵の白壁を僕は必死によじ登った。
(そういえば……)
唐突に在りし日の記憶が甦る。既視感ではない。
そうだ。確かにずっと前にもこんな風にしてこの蔵の中に忍び込んだ事があった。
今と同じように、自分の手作りのおむすびを携えて。
明り取りの小さな窓に手が掛かった。腕の力で身体を引き上げて頭を突っ込み、
あの頃よりもずっと広くなった肩幅を精一杯に縮めて窓を潜り抜ける。
「だ……誰ですか?」
誰何する彼女の声が聞こえた。
「若菜!……やっぱり此処に……僕だよ」
彼女を安心させるためにそう呼びかけながら窓から上半身を乗り出した。
「……そんな……本当に、本当に来て下さるなんて……」
彼女の声は聞こえるものの、一体何処にいるのだろうか? あの長持ちの陰? どうして顔を見せてくれないんだ?
蔵の外に脚だけを出しているこんな所を誰かに見られる訳にはいかない。
訝しみながらも、逸る気持ちを抑えきれずに僕はさっさと蔵の中に隠れてしまおうと思った。
「うわあっ!?」
「だっ、大丈夫ですかッ?!」
窓を潜り抜ける瞬間、僕はバランスを崩して蔵の床に背中をしたたかに打ちつけた。一瞬、呼吸が止まった。
何年もの間に溜まった埃が舞い上がる。僕はゴホンゴホンと咳き込みながらも上体を起こして周囲を見回した。
「……若菜?……」
「こ……此処です……」
僕は持って来ていた懐中電灯を取り出し、周囲を見回した。声はすれども姿は見え……ん?
すらりと伸びた白いふくらはぎが光の輪の中を通り過ぎた。
「若菜っ!」
僕は背中の痛みも忘れて彼女の元へいざり寄った。あの柱の向こうに若菜が!
「若……!」
彼女の姿を見た瞬間、息が止まった。
「は、早く……これを解いて下さい……」
若菜の身体は太い縄で幾重にも縛められて自由を奪われていたのだ。腰を下ろした状態で柱を背負わされて麻縄が巻き付いている。
躾だかお仕置きだか知らないがあの爺さん、なんて酷い事を……
などと頭の中で憤りながらも、僕は目の前の光景に完全に心を奪われてしまっていた。これが縄の魔力か。
只でさえ超が付く程の美少女が荒縄で拘束されている姿というものはこれ程までに壮絶で凄惨な美を醸し出すものなのか。
とりわけ僕の視線を惹きつけて止まないのが彼女の胸元だった。
麻縄で不自然に縊り出された二つの膨らみはいまにもブラウスのボタンを弾き飛ばしてしまいかねない程だった。
「そっ……そんなに見詰めないで下さいっ……」
懐中電灯の光がずっと胸元に当てられているのを若菜がそれとなく嗜めた。
「ごっ、ごめん」
……だが、僕は自分の内側で目覚め始めた獣性を抑える事が出来なかった。
「……今、解いてあげるよ」
立ち上がり、月に光に照らされた僕の顔を見上げた若菜の瞳に一瞬、怯えの色が浮かんだ。
若菜は勘が良い。僕の目の中に普段とは違う何かを見てしまったのだろうか。
彼女にとっては残念な事に、その勘は当たっていた。
救いの王子様だった筈の僕の手から逃げるようにして若菜が脚でいざろうとする。だが縄の縛めは強固でびくともしなかった。
「い……嫌ッ……止めて下さいッ……」
月の光を浴びて、僕の中の狼が若菜に牙を剥いた。