昔むかし、あるところにお姫様がいました。  
お姫様は一人っ子だったので、まだ小さいにもかかわらず、たくさん勉強を教わります。  
しかし、お勉強ばかりのお姫様は毎日ご本に向かってばかり。  
お城の外の世界に目を向ける機会はめったにありません。  
 
そんなお姫さまがある日、お城を離れてピクニックに出かけることになりました。  
着いたのは一面のお花畑。  
今まで本の中でしか見たことの無かった風景に、お姫様ははしゃぎっぱなしです。  
お花畑の端っこまできたお姫様は、ふと日陰に咲く一輪のお花を見つけました。  
 
そのお花は紫色で、ところどころが黄色で、とても良い香りがしました。  
あまりにも良い香りなので、お姫様はお花を摘み取り、その匂いをお腹の底まで吸い込みます。  
するとどうでしょう、お姫様はその場に座ったまま、たちまち眠りについてしまったではないですか。  
 
紫色のお花は、北の魔女のお花だったのです。  
 
お姫様は魔女の呪いにかけられてしまいました。  
お城で眠りから覚めたお姫様には、見るもの全てが正反対に見えます。  
白いカモメは黒いカラスに、晴れた空は雨空に、小さな子供は歳経た老人に。  
目にする世界が全部あべこべになってしまった姫様は、何を信じていいのかわかりません。  
自分のお部屋に閉じこもって誰とも話そうとしなくなってしまいました。  
 
北の魔女は強くて恐ろしい魔女です。お城の兵隊では魔女の呪いに太刀打ちすることも叶いません。  
北の魔女に打ち勝てるつわ者がどこかに居ないものか。王様は国中に速馬を走らせますが、そんな人がこの国にいるのでしょうか?  
そうしたある日、王様の従者が提案します。  
「王様、東の魔女ならば、北の魔女の呪いを解くことができるかもしれません」  
 
東の魔女は国の東の山に住む、北の魔女と同じくらい強くて怖い魔女です。  
でも、北の魔女とはとても仲が悪いと言われているので、もしかしたら味方をしてくれるかもしれません。  
王様は悩みました。あんなに恐ろしい魔女にお姫様を任せても良いものか。  
しかし他に良い方法も見つかりません。王様は煮え湯を飲む思いで、東の魔女に頼ることにしたのでした。  
 
………  
……  
…  
 
(また窓の外を見てる…)  
 
昼休み、給食を食べた後。  
三澤鼎は窓際の席に座る同じクラスの少女を見、ため息を吐いた。  
 
少女――支倉志乃は鼎の見つめる先、今日も休み時間の喧騒の中で窓辺に座っていた。  
昼食を食べ終わった彼女は何をするでもなく、自分の席から校庭を眺めて休み時間を過ごす。  
予鈴が鳴ったらお手洗いに席を立つ。本鈴の最低二分前には教室に戻り、そのまま午後の授業を受ける。  
全ての授業が終わると直ぐに教科書をランドセルにまとめ、誰とも口を交わさないまま二分以内に教室を出る。  
そしてそのまま帰宅。他大勢の生徒と違い、習い事に通っている訳ではないようだ。  
 
…以上が鼎の観察による、日毎に寸分の狂いも無い支倉志乃のスケジュールだった。  
彼女が支倉志乃にここまで詳しいのは他でもない―  
 
鼎は彼女と話がしたかった。  
 
否、正確には彼女に頼みがあった。  
他ならぬ支倉志乃、その本人にしか言えない願いだ。  
担任の高屋敷先生は勿論、キララおねーさんにも言えない、支倉志乃ただ一人が叶える事のできる願い。  
 
しかし人並み以上に羞恥心の強い鼎にとって、それは多分に切り出し辛い頼みだった。  
そもそも、こちらから彼女に話しかけること自体が躊躇われる。  
 
 
基本、彼女は能動的にコミュニケーションを取ることが無い。  
授業で指名されれば淀みなく答えを返すし、回ってきた当番日誌をクラスメートに渡されれば素直に礼も言う。  
だが、それだけだ。  
 
今までに彼女と楽しくお喋りしようと向かっていった生徒が校内に何人いるだろうか?  
そんな果敢な生徒が何人いようと、もちろん勝ちを取った人数はゼロに決まっているだろうが。  
 
(まるで、猫みたい)  
 
それが彼女と同じクラスになり、しばらく経った頃に持った鼎のイメージだった。  
それも部屋のコタツで丸くなるような飼い猫ではない。  
自らの力で獲物を狩り、人間達に蔑まれて尚機敏に生きる、気高きノラの黒猫だ。  
 
他のクラスメートも鼎と同じ思いなのだろう、まるで猫に駆逐される鼠のごとく、  
クラス換えから一ヶ月で支倉志乃に話しかけようとする人物はめっきり見なくなった。  
 
しかしどうだろう、夏休みを過ぎた頃から事情は変わったようだ。  
 
支倉志乃は何というか… 丸くなった。  
猫のような精悍さは全く失われていないものの、まるで底なし沼の如くだった瞳には僅かだが光が射し、  
目の前の人間にピントを結ぶようになった… 気がする。  
クラスメートと交わす言葉も心なしか増えたようだ。  
まるでノラ猫に飼い主が出来たみたい、と冗談半分に考えたことすら鼎にはあった。  
 
 
そして夜の校舎での、あの出来事――  
 
 
そこまで想いを巡らせたところで、予鈴が鳴る。  
次の授業は英語。昨日出された課題を日直が集めて回っていた。  
 
…今日も話せなかった。鼎は教科書を用意しながら、また一つ大きなため息を吐いた。  
 
 
 
しかし神も見ていない訳では無いようで。  
 
その日の放課後、偶然に偶然を重ね、鼎は彼女とコンタクトを取る機会を得たのだった。  
 
 
「うぅ、何でこんな…」  
半ば夕陽となった、晩秋の太陽が照らす通学路。  
下校する生徒達とは逆方向へ、鼎は急ぎ歩いていた。  
 
英語のノートを忘れてしまった。  
困ったことに、あのノートが無いと月曜日に提出する課題を終わらせることができない。  
恐らくは机の中で置いてきぼりをくらっているのだろう。  
通学バスに乗る直前に気づくことができた小さな幸運に感謝しながら、鼎は駆け足で校舎へと入っていった。  
 
息を切らして階段を上る。注意する者のいない廊下を小走りで抜けた先はもう教室だ。  
誰を気にするでもなくドアを開けると、教室内はやはり誰も居なくなっていた。  
放課後に目一杯の習い事を詰め込まれているこの小学校の生徒達に、スケジュール上の余裕があるはずもなく。  
必然、生徒達の下校時刻は早い。ホームルーム(帰りの会ではない)が終わり次第、校庭で遊ぶこともせず  
なるべく早く帰ろうとする子供たちだ。  
 
鼎自身も、習いに行く先のピアノの先生が2日前からカゼをこじらせていたからこそ、今ここに居ることができるのだが。  
子供たちの居ない教室の中に、鼎は踏み込む。  
忘れ物のノートは果たして、机の中にあった。  
ため息を一つ吐き、ノートを回収。赤いランドセルの中に仕舞う。  
 
昼の主達を失くした教室は差し込む夕陽に照らされ、言い知れない不気味さを帯び始めていた。  
こんな場所は早く去ってしまおう。  
元通りランドセルを背負い、教室を後にしようとしたところで――鼎はこの部屋の異変に気づいた。  
 
それは彼女の席。昼間、鼎が穴の開くほど見つめていた支倉志乃の席に、  
ランドセルが一つ。  
ぽつねんと、置き去りにされていた。  
 
それが彼女のものだと気づいた鼎の背筋が一瞬、凍る。  
まるで異変がもう一度、この校舎で起こる前兆のように感じられたのだ。  
 
…まさか。  
束の間、頭によぎった思いを振り払い、恐る恐るランドセルへと近づいてみる。  
鼎が今背負っているものと同じ、赤いランドセル。  
キーホルダーも飾りも、個性をアピールする装飾が為されていないにも関わらず、  
その無味さが、却ってそれが彼女の物であることを主張しているようだった。  
 
(やっぱり、支倉さんのなのかな)  
そっと、触れてみる。堂々と手をつけるのは躊躇われる気がした。  
――名前を確認するだけだから。  
心の中で言い訳をしながらランドセルのタグに触れようとした、その瞬間――  
 
「それは、私のランドセルだけれど」  
背後から突然に声をかけられ、鼎は跳び跳ねんばかりに竦み上がる。  
恐る恐る振り返ると…案の定、そこには声の主が――鼻先同士が触れそうな距離に、立っていた。  
「ひゃっ! はせく…」  
思わず後ずさる。鼎の体にぶつかった彼女の机がガタリ、と音を立てた。  
 
「それに何か、問題が?」  
彼女が指をさして言う。それ、とはつまりランドセルの事のようだ。  
「あの、あのね? 名前を確認しようかな、って」  
どぎまぎしながら、何とか答えてみる。気の利いた言い訳をすることが出来る程、今の鼎に余裕は無かった。  
「それは最初から私の机の上にあったのでしょう? ならば名札を見ずとも、それが私の物であることは自明と言えるはず」  
「そう、そうだよね。 …ごめん」  
抑揚の無い声に、思わず謝ってしまった。ひょっとして結構怒っているのだろうか?  
やはりと言うか、彼女の瞳からは感情を読み取ることができない。  
 
「支倉さんは、こんな時間までどうしたの?」  
半ば強引に話題を変えてみる。このまま見つめ合うのはどうにもバツが悪かった。  
「……」  
しばし沈黙。  
(やっぱり怒って…) 鼎が内心焦り始めた頃、  
「…高屋敷先生に呼び出されていた」  
やっと答えを返してくれた。  
「高屋敷先生と?」  
鼎や志乃のクラスを担任している先生だ。クラス担任ならクラスの生徒に話があってもおかしくはないが…  
 
「先日の件について、話を聴かれた」  
――先日の件。  
鼎の心臓が、ドクンと跳ねる。先日の件とは、つまり…  
夜の校舎で起きた、“あの件”だ。  
「望むのなら、話してもいい。貴女もまた事件に無関係ではないのだから」  
そう、無関係ではない。自分もまた、あの“事件”に巻き込まれた一人だ。  
 
あの後深山先生が学校を辞職し、鼎はどうやら自分が事件の中心とは外れた所にいたらしい事を知った。  
らしい、と言うのは、事件の全容を教えてくれる人間が鼎の周りに居なかったためだ。  
深山先生が学校を辞めた理由も、キララおねーさんが自分を夜の学校に呼び出した理由も、鼎は未だ知らされていない。  
しかし鼎が事件の被害者の一人であることは間違いなかった。  
――だって、あれから私は…  
そして加害者は、言うなれば… 目の前にいる彼女かもしれない。  
 
「もし聴きたいのなら機会を見て…」  
彼女の話は続く。けれど鼎の意識は今、別の所にあった。  
どうする? 彼女に頼むチャンスだ。 けれど。  
でも今を逃したら話しかける機会すら…  
 
「鴻池キララも呼んで次の休みにで」「あのっ! 支倉さんっ!!」  
「支倉さん、あなたにお願いがあるの。もし暇なら、今から私の家に来ない?」  
 
――そうして、鼎はとうとう彼女に話を切り出すことができたのだった。  
 
夕暮れの教室から一時間とちょっとの後。  
鼎は彼女を連れ、なんとか自分の家までたどり着いていた。  
 
鼎の突然の頼みに対し、彼女は  
「…構わない」  
とだけ言い、一緒について来てくれた。  
合鍵を使い、鼎は留守を守る者の居ない自分の家に上がり込む。  
 
金曜日でさえ、鼎の父は日付が変わらないと帰ってこない。  
おまけに、今日も母は懇親会だとかで家を空けている。恐らく帰ってくるのは深夜になるだろう。  
あの一件以降から鼎を見る母目は変わったようだったが、あれで案外ずぼらな人である。  
自分の生活パターンを変えることは難しいようだった。  
 
そう、つまり今日は鼎が自分の願いを果たす絶好の機会なのだ。  
 
「おまたせ、支倉さん」  
お盆にコップ2杯のジュースを載せた鼎が、ドアを開け自分の部屋で座る彼女に声をかける。  
彼女を待たせたまま、鼎は制服から普段着へと着替えていた。  
プリントの入った長袖トレーナーと、サイドにフリルの入ったミニスカート。  
…あの時と、同じ格好だった。  
対して志乃は制服のまま。もちろん鼎の家に彼女の私服がある訳も無く、仕方の無いことなのだが。  
 
「支倉さん、ジュース飲むよね? オレンジしか無いけど…」  
「飲む。 …ありがとう」  
彼女と一緒に絨毯の床に座る。  
ジュースの入ったコップを手に、二人で向かい合う。  
そこまでは良いのだが…  
「……」  
…さて、何と切り出したものか。  
 
そもそも鼎自身、あまりお喋りが得意な方ではない。  
どちらかと言えばクラスで浮いている方だろう。  
幾人かの友達に言わせれば、「鼎ちゃんって大人びてる」らしいが…  
そうした理由で、鼎が自分の部屋に友達を上げるのも、彼女が初めてだったりする。  
 
そんな鼎が、普段から口数の少ない彼女と二人っきりで居れば、どうなるかは分かりきったもので。  
「……」  
「………」  
なんだろう、空気が重かった。  
(ええと…)  
鼎と向き合ったままの彼女は、真っ黒な瞳で躊躇するでもなく自分を見つめてくる。  
彼女の方から話を振ってくれる様子は… いや、ありもしない可能性に期待するのは止めよう。  
 
――たっぷり1分半ほどの沈黙。  
あれこれ悩んだあげく、鼎は結局自分から攻めてかかる覚悟を決めた。  
「あっ、あのね支倉さん! この前の事件の事なんだけど」  
「この前の…」  
…まるで「この前の」以外にも事件があると言わんばかりの口ぶりだった。  
「うん、ウチの学校で起こったあの事件だよ」  
「ええ。それが何か?」  
「あの時の支倉さん、アリスの人形に変装してたよね? 暗い中だったから私、本当に騙されちゃった」  
「そう。それは何より」  
相変わらず彼女は動作が少ない。両手にコップを抱えて鼎に目を向けたまま、口だけが動く。  
 
「けど… ありがとう。 あれからお母さんも私のこと、ちゃんと見てくれるようになった気がするんだ」  
そう、確かに変わった。母が自分を見る目に優しげな何かが戻ったように思える。  
そして鼎自身も変わった。暗く沈んで見えた周りの世界に、光が射した。  
ああすることでキララおねーさんや高屋敷先生や「彼」、そして支倉志乃が自分を救ってくれたのだと、鼎は感謝することにしていた。  
 
「それに、事件もちゃんと解決したんだよね?」  
鼎の問いに志乃はコップの中身を少しだけ口に運び、ふう、とため息をついて。  
「…あの学校で今回起こったのは事件の余韻と呼ぶに等しい現象。  
かつて起きた出来事がその場所に染み付き、それを覚えていた数人が幻を見た。それだけのこと。  
 …本当の事件は、ずっと昔に終わってしまっていた」  
静かに答える。  
きっと彼女は全容を知っているのだろう。そして、きっとキララおねーさん達と一緒に事件を解決したのだ。  
 
「…ただ」  
彼女は続ける。  
「先程も言ったけれど、貴女はこの事件に無関係ではない。  
 事件の残した幻影に運悪く巻き込まれた被害者。それに――」  
「それに?」  
彼女の言葉が途切れた。今度は鼎の方から促してみる。  
しばしの間を空け、  
「それに、やり過ぎだと怒られた、彼に」  
とだけ、彼女はぽつりと言った。  
「ええと…」  
さすがに説明が足りず、鼎には彼女の言うところが理解できない。  
やり過ぎ? 何が?  
鼎が想いを巡らせていると、志乃は再度、躊躇うように口を開く。  
 
「彼に、咎められた。貴女の首を絞める力が強すぎたと」  
――ドクン。  
『首を絞める』という言葉に、鼎の心臓が再度跳ねた。  
そうだ。彼女に首を絞められて、私は。  
「彼はそう言った。でも、あれは演技だった。どの程度まで貴女の首を絞めればいいか、いつ貴女の母親が飛び出してくるか、  
 全て計算のうち。それに鴻池キララも言っていたけれど、全ては成功裏に終わった。問題はなにも無かった」  
普段より少しだけ、ほんの少しだけ憮然とした口調で彼女は喋る。  
「けれど、もし… もし貴女が苦しんだならば、申し訳なかった。謝罪する」  
そこまでを語り、彼女は言葉を切った。どうにも“彼”に言われたことに納得できていないようだ。  
しかし納得しないながらも律儀に言われたことを喋るのは、彼女なりの素直さだろうか。  
 
 
志乃がそれだけを喋り終え、部屋の中を元通りの沈黙が支配する。  
二人とも、自分から口を開こうとはしなかった。  
「……」  
「……」  
いや、元通りではなかった。特に鼎は。  
 
『首を、絞める』  
彼女の発した一言。その言葉が今、鼎の全身を巡り、その全てを支配していた。  
――首を絞める。そう、そのために、今。わたしは。  
心臓の鼓動が、少しずつ早くなる。部屋の空気が妙に暑苦しいのは最初からだっただろうか?  
――お願いしなきゃ。今、ここで。  
そう、鼎は それ を頼むために、わざわざ彼女を自分の部屋まで上げたのだ。  
彼女にお願いしなくてはならない。  
 
けれど鼎の願望とは裏腹に、その口は思うようには動いてくれなかった。  
――本当に言っていいの?  
――変に思われない? 嫌われない?  
幼い少女はしかし、自分の望みが正常なものではないことを理解していた。  
そしてソレを言うことで、彼女に嫌われたくなかった。  
――なんで、嫌われたくないの?  
それは、鼎自身にも分からなかった。彼女に救ってもらった恩義からなのか、それとも…  
 
想いと疑問が交錯し、絡み合い、堂々巡りを繰り返す。  
ともかく今は、きっかけが欲しかった。  
 
部屋の中で二人、黙りこくったまま向き合う少女たち。  
第三者が見たら、何か気まずいことでもあったのかと勘違いしそうな光景だった。  
(どうしよう、どうしよう…)  
いちど泥沼に嵌ると、なかなか抜け出せないもので。  
口にするべき言葉が思い浮かばない。会話のない気まずさも手伝って、鼎の頭の中は千々に乱れるばかりだった。  
 
「…あなたは」  
そんな鼎の様子を察したのだろうか?  
彼女が口を開いた。  
 
「あなたは私に頼みがあると言った。実りの無い話は止めて、そろそろ本題に移りましょう?  
 まさか部屋で二人、談笑をするのが貴女の目的だと言うのなら別だけど」  
あなたと談“笑”できるアテは元より無いけれど、というツッコミはさておき。  
会話の糸口さえ掴めなくなっていた鼎にとって、彼女の言葉はまさしく渡りに船だった。  
なにせ、彼女の方から頼みを口にするきっかけを与えてくれたのだから。  
 
――言わなきゃ。  
ともすれば飲み込みそうになるのを堪え、言葉を押し出す。  
「その、支倉さん。お願いっていうのは…」  
「……」  
「あなたに… 頼みたいことが…」  
鼎の言葉は尻すぼみに小さくなってしまう。  
あの瞳に見つめられると、ダメだ。胸が竦み上がり、萎縮してしまう。  
 
しかし、そんな鼎に構うことなく志乃は言う。  
「私にできることなら協力してもいい。 貴女には、貸しがあるようだから」  
彼女の、その一言が引き金になった。  
――言うんだ。  
 
「あ、あのね支倉さんっ! あなたに…、あなたにもう一度、私の首を絞めて欲しいのっ!」  
 
…言ってしまった。それも一気に。  
 
もう、後戻りはできなかった。  
彼女に自分の願いを叶えてもらうために。  
彼女に自分を満たしてもらうために。  
 
鼎は、一歩を踏み出した。  
 

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