「逃げてっ! ――――っ!!」  
 
志乃が発した彼への警告はしかし、途中から銃声で掻き消された。  
 
瞬間、駆け出す志乃。  
けれど間に合わない。  
全てがゆっくりと動く世界の中で、彼女の瞳は胸から血を吹く彼の姿を鮮やかに捉えていた。  
 
ドサリ。  
成人男性がコンクリートに倒れる音は、存外に大きく響いた。  
 
「が…っ ぐ、ぁ」  
「傷口に触らないで。すぐに―――っ!」  
 
駆け寄った志乃の言葉が詰まる。  
彼は左胸から血を流し、倒れていた。  
出血量が半端ではない。動脈を傷つけているに違いなかった。  
流れ落ちた液体は傾きの無い地面の上で、ゆっくりとその面積を広げていく。  
 
志乃は彼のすぐ横に膝をつく。血が紺色のスカートを黒く染めたが、構う事では無い。  
彼女の支配する全ての神経が彼に、彼を救うことに集約されていた。  
 
少女はその比類無い知性で彼の容態を観察し、分析し、そして―――絶望した。  
 
彼の左胸には、穴が開いていた。そう、穴だ。  
その穴からとめどなく溢れ出る鮮血。鮮やかな赤ばかりが視界を覆っている。  
――血を止めなくては。  
しかし、志乃はそれを行動に移せない。  
移さない、のではなく、移せないのだ。  
 
大動脈からの出血を止める方法など、この場のどこにも存在していないのだから。  
 
常に10手先を読むことの出来る少女にとって、それは簡単な答えだ。  
敗北。この状況は既に“詰んで”いる。  
それでも尚、思考を続けようとする彼女の頭脳に、急なブレーキがかかる。  
 
 
 
彼が見ていた。  
 
 
 
酷く、残酷な位に優しい瞳で。  
それはいつか狸寝入りしていた志乃が薄目に見た、彼女を隣で見守る目と同じだった。  
その瞳に一瞬、志乃の思考力は全て吸い込まれる。  
あの大きな、温かい手で頭を撫でられた気がしたのだ。  
 
「志乃ちゃ、げほっ…! ん――」  
 
無論、それは束の間の幻。  
彼自身の声に、志乃の意識はすぐさま取り戻される。  
彼が喀血したのだろう、飛び跳ねた赤が彼女の白い頬を汚した。  
 
「僕は、…っぐ、もう」  
「喋らないで。傷に響く」  
「も、う… 負けたくな、い。もう――」  
 
――喋らないで。  
少女の嘆願に、彼は耳を貸してくれない。  
普段あれほど志乃の願いに従順な彼は、こんな時に限って強情だった。  
 
「お願いだから、喋っては駄目。すぐに助けが」  
 
「――もう、何連敗目だったっけ?」  
 
「え…………?」  
 
苦しそうに喋る彼が、何故か其処だけ滑らかに言う事が出来た言葉。  
彼の言葉の意味。志乃はそれを即座に理解してしまった。  
そして、諦めた。  
 
迫る破滅を前に戦うのは、もう無理だった。  
彼の一言が、彼女から抗う力を奪い去ってしまった。  
ならば、せめて良い終末を。  
彼のため、少女は選んだ。  
 
「昨日の時点で七百二十一連敗目」  
「そう、か… とんだ、連敗、王だ」  
 
それは、いつからか彼が志乃と始めた勝負。  
『志乃ちゃんを笑わせてやろう大作戦』と自身が銘打ったそれに、彼はことごとく敗北を続けた。  
それはいつしか日常の一部となり、今日も、明日もまた続いていく筈だった。  
 
「どう、かな。最後に一回くらい、がっ…は、僕に、ズルして… 勝たせて、よ」  
「……ずるは無い。最後も、無い。これからも貴方は負け続ける」  
 
受け入れると決めたはずなのに、志乃は彼の言葉を否定する。  
それ許してしまった途端、彼がここを離れてしまう気がしたのだ。  
だが――彼は志乃を待ってはくれない。  
 
「じゃあ… 僕が目を…閉じて、せーの、で開けた瞬間が、っ…勝負、にしよう」  
「――っ 何を、勝手な……!」  
「僕の… 命を賭けた、勝負――だよ」  
 
そう言って彼は目蓋を閉じてしまう。  
残酷に優しい顔をしながら、彼は志乃から一歩ずつ遠ざかって行く。  
彼を引きとめたくて、とうとう志乃は叫ぶ。  
 
「命を賭けるなら、他にもっと願うことがあるでしょう!? どうして、どうしてこんな――!」  
 
本当は分かっていた。彼は志乃の笑顔を願い、その為だけに彼女と一緒に居たのだ。  
たった一人の少女を笑わせる、それだけのために。――それなのに。  
今まで自分がどれだけ残酷に彼を裏切り続けて来たか。  
自分は七百二十一回、彼を悲しませたのだ。  
重ねた勝利の回数を志乃は呪った。  
 
「もう、やめて…! 最後の一回は私の負けでいいから… だから…っ!」  
 
最後の一回は彼に勝たせてあげなくてはいけない。  
おそらく不戦勝を譲るのでは利かないのだろう。  
 
 
それでも、志乃は笑うことができない。  
彼女は最初から、この勝負に負ける事が不可能だった。  
 
神様は自分を笑う事ができないように作ったのか?  
いや、違う。きっと自分は生まれたその時に、笑うことを捨てたのだ。  
時の流れを遡れば、いつか道端に打ち棄てられた自分の笑顔を取り戻せるのだろうか?  
 
だが、今となっては全てが遅すぎた。  
 
 
「準備は…いい? それじゃ、そろそろいくよ。…最後の、勝負だ」  
「嫌…! 止めて… お願いだから……!」  
 
それは終わりの合図だ。  
その合図と共に、彼は走り去ってしまう。  
しかし最後に彼へ贈る笑顔すら、志乃は用意する事ができない。  
 
 
 
「じゃあ… せーのっ」  
 
 
 
彼は、目を開かなかった。  
 
目蓋を閉じたまま、口許からは血の筋を流し、  
しかし、とても満足げな表情を浮かべていた。  
 
「やっと、笑ってくれたね」  
「え………?」  
 
「凄く… 素敵な笑顔だ」  
 
志乃は気付いた。彼は幻想を見ている。  
彼自身が作り上げた志乃と向き合い、その笑顔に満足しているのだろう。  
きっと幻に見る自分は満面の笑みを浮かべていて。  
――だが、それは本当の自分では無い。  
そんなのは嫌だった。目の前の自分を見て欲しかった。  
 
結局、それは彼女自身の我侭でしかない。  
それでも志乃は願う。  
 
最後にもう一度、目を開けて欲しいと。  
 
 
志乃は彼の手を取る。  
既に力の抜けた腕は酷く重く感じられた。  
それでも血に濡れた彼の手を小さな両手で握り締め、少女は叫ぶ。たった一つの願いを込めて。  
 
「私は…っ 私はここに居る! だから、だから目を開いて…っ! もう一度、お願い!」  
 
だが、彼は無言のまま。  
とても安らかな寝顔で彼女の言葉を聞き流す。  
 
しかし志乃は諦めなった。  
今まで彼に物をねだったことは滅多に無い。最後くらい、我侭を聞いてくれてもいい筈だ。  
 
「お願い… どうか、目を開けて…! 私を見て! それだけで、私は――」  
 
その瞬間。  
願いが、通じたのだろうか。  
 
彼女が握る手に、僅かな力が込められた。  
 
「っあ―――――」  
 
 
彼が見ていた。  
 
 
優しい優しい、この世界の中で彼にしか出来ない目で。  
その目はどこまでも、志乃だけを見つめていた。  
優しい彼の瞳に、志乃は抱かれていた。  
彼の温かさが彼女の全身を包み込んでくれる。  
 
「あ…… あ………」  
 
「素敵な笑顔だよ、志乃ちゃん。…ずっと気付かなかった。  
 君は今まで一体何処に、こんなに素敵な君を隠していたんだい?」  
 
彼の手が、志乃の頬を撫でる。  
血糊がべっとりと頬を汚す。だが、そんなことは気にも留めない。  
 
 
志乃は笑っていた。  
 
 
彼の瞳が、笑顔にしてくれた。  
二人、笑い合っていた。  
 
 
「最後に、一勝だね」  
「…けど、これは貴方がくれた笑顔だから」  
 
「駄目だよ志乃ちゃん。それでも勝ちは勝ちだ。  
 その笑顔は今、君だけの物なんだから」  
 
「………うん」  
 
頬を撫でる優しい手。  
温かなその手から、少しずつ力が抜けていくのが分かる。  
志乃はそっと、自分の手で彼の腕を支えてあげた。  
 
「僕は、勝負に勝てて… 今、とても幸せだ。志乃ちゃんは… どう?」  
「うん。私は… 私も、幸せ」  
 
「なら、良かった。これからも、ずっと――」  
 
 
――君の笑顔を。  
 
 
彼の言葉は続かない。だが、志乃にはその先を読む事ができた。  
それが、彼の望んだものだったから。  
再び目蓋を閉じた彼に、志乃はそれを贈り続けていた。  
 
別れに言葉は必要なかった。  
百万の言葉に勝る宝石を、志乃は彼に贈ったのだから。  
 
 
「おやすみなさい」  
 
ただ一言だけ。それは自らに向けられた言葉。  
 
 
音の無い世界で、二人はそっと、冷たくなった唇を重ね合わせた。  
 
 

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