「よう!日奈森あむ…」
「うわッ!!」
いくら聞き慣れているイクトの声でも、それが路地の暗がりからいきなり聞こえてきたものだから、くたびれきっていたあむは驚いた。
「イクトなの!?何よ、いきなり!ビックリするじゃない!!」
「ボケーッと歩いてるお前が間抜けなのさ」
さっきまでバツたまと追いかけっこを繰り広げていたあむにとって、イクトの言葉は意地悪だ。
「ふん!何よ!!この頃毎日、学園の廻りにバツたまやナゾたまが現われてるけど、あんたたちの仕業なの?」
「知らねーよ。そんなもん…」
塀の影からそのスレンダーな姿をゆっくりと現したイクトは、襟元に巻いていたお洒落なデザインの暖かそうなマフラーを外すと、
それをあむの首にふわりと掛けた。
「何よこれ!」
「良さ気なデザインだと思って買ったけど、飽きた。お前にやるよ」
胸元に垂れているその片方の端を引っ張って手繰り寄せたあむは、好奇心を抑え切れずにそれをよく観察してしまった。
「(なかなかイケてるじゃん!)」
なるほど、イクトが選んだだけあってそれはなかなか恰好良く、あむの趣味にも合っている。
いきなりだが、ちょっと嬉しいプレゼントだ。
しかし…
「気に入ったのか?」
「な、なんでそうなるの!?」
「だって、お前、ジーッと見てるから…」
図星を指されたあむは、何時もの調子で咄嗟にツンケンした返答をしてしまう。
「飽きたから、私に押し付けるわけ?」
「(あーん!私のバカバカバカ!!)」
後悔先に立たずとはこのことだろうか、「(ああ、またやっちゃった…)」と内心で激しく悄気るあむを、イクトが煽りにかかる。
「お前が要らねーってんなら、どうしようかな…」
「ふ、ふん!あんたのなんだから、好きにすればいいじゃん!」
強がってプイ!と横を向くあむの手から静かにマフラーを引き取ったイクトは、それを摘んでふらふらと振りながら、
からかうような表情でニヤニヤし始めた。
「他の誰かにやろうか…」
「えっ!?」
「買取かネットで売っ払うか…」
「うう…」
「(べ…、別に欲しいって訳じゃないし。でも…、その…)」
ふっくらとした頬を不満げにプッと膨らませながら細くて可愛い眉を八の字にするという複雑な表情でもじもじするあむに、
イクトが、「捨てるぞ〜」と言わぬばかりの手つきでマフラーをくしゃりと握りながら止めの一言を放つ。
「それとも、捨てちまおうか…」
「それは!」
思わず大慌てでイクトを制止したあむは自分の声の大きさに驚いたが、それも束の間、
今度は、その言葉の続きを追及されてしまう。
「『それは』、何?」
「そ、それは…、って言うか…、その…」
ええい!こうなったからには、もう仕方ない。あむは、ポッと熱く火照る頬をなるべく意識しないようにしながら反撃に転じる。
「ま…、まだ使える物を飽きたってだけで捨てちゃうなんて、全然エコじゃないじゃん!」
「ククッ…。『エコ』って…」
あむの狼狽振りにイクトは小さく苦笑したけれど、しかし、本来とても優しいイクトは、余り苛め過ぎても可愛そうだと思い直して、
あむにちょっと意地悪な助け舟を出してやった。
「『エコ』とか何とか、面倒っちいんだよ。これ、お前が要らないんなら、捨てちまうに決定な」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
相手の反応を予想して予め指を緩めていたイクトの手から、あむは大慌てでマフラーを引っ手繰ると、
それをそのまま自分の胸元にきゅっと大切そうに抱き締めながら、恥ずかしげな表情でイクトを睨み付ける。
「わ、分かったよ。私が貰ってあげれば、まだ使えるものがゴミにならずに済むし、
私、これを、あんたなんかより大事に使うんだから!」
「そうかよ」
「そうだよ!」
絵に描いたような売り言葉に買い言葉の応酬に身構えるあむの胸元にそっと伸びてきたイクトの手が優しくそのマフラーを摘むと、
一瞬、それを取られまいとして握っている手に力を込めたあむだったが、微かに頬を緩めたイクトの柔らかい表情に釣られるように、
その手を慎重にほんの少しだけ緩める。
「巻いてやるよ」
イクトの言葉に、自分では全く意識しないまま、あむは細い首をすっと伸ばして少し顎を上げてしまったが、
イクトは、そんなあむから引き取ったマフラーを慣れた手つきで縦に二つに折って、
それをふんわりと形よくあむの首元に巻き付けてやった。
「似合うぜ」
「あ…、有り難う…」
思わずお礼を言ってしまったあむが、その小さな身体をイクトの胸元に抱き締められていることに気が付いたのは、
イクトから、チュッと軽い口付けをつむじに受けた後のことだった。
「暖かいか?」
「うん…」
あむは、背中や肩をゆっくりゆっくり摩るように撫でては時々きゅっと抱き締めてくれるイクトの腕の優しさとその胸元の暖かさに、
身体と心の全てを任せ切っていた。
「あむ…」
「イクト…」
甘い声での呼び掛け合うあむのつむじに、イクトは再びチュッと口付けると、
そのまま、その艶やかな髪の絹地のような感触を楽しみながら、そこにそっと鼻先を埋める。
「お前さ…」
「何?」
「頭…、いい匂いがする」
「ええっ!?」
年頃の少女にとって、身体の匂いを云々されるのは余り気分のいいものではない。
まして、バツたまとの追いかけっこで滴るほど汗をかいた地肌の匂いを確かめられるなど、死ぬほど恥ずかしいことだった。
「やだ〜!離してよ〜〜!」
あむは、反射的にイクトの胸元から離れようとモゾモゾもがくが、
イクトは、しっかりと、だがとても優しくその腕であむの身体を抱えたまま、決して離そうとしない。
「だめだね」
「バカ!離せ!!」
「ほんとにいい匂いなんだから、仕方ねえだろ」
「そんなところの匂いが良いなんて、変態じゃん!」
イクトの腕があむの身体をギリギリと締め付けていたなら、必死になってそれを振り解こうという気も起きるだろうが、
しかし、イクトの腕は飽くまでも優しくて、あむに出来る抵抗といえば、軽く握った拳でイクトの胸をポコポコと叩くくらいだ。
「本当に、いい匂いなんだって…」
「イクト、凄いバカじゃん…」
イクトの鼻先からの呼吸をつむじにスースーと感じてすっかり身体の力が抜けてしまったあむは、
ふうっと熱い溜め息をついて、自分を抱き締めている少年の胸元に只々一生懸命に縋り付く他無かった。
END