「リュイ!シャラ!湯殿の用意はできてるの?」
ハディは長い栗色の艶やかな髪を古くなった皮紐でキュっと縛り直して、
パタパタと中庭に面した宮殿の廊下を走る。
春になったとはいえ、ハットゥサはまだ寒い日が続いていた。
長い廊下を小走りしながら、ハディは横目に中庭から覗く夕焼け空を見やった。
思わず足が止まる。
(綺麗だわ・・・。色んな事があり過ぎて、ゆっくり空を見る時間もなかったもの。)
静かな広い廊下でふぅと息を吐きながら、まだ冷たい春の風に細い前髪を揺らしながら
空をゆっくり見上げた。
(これからは本当に平和の時代が来るんだわ。あのお2人がこの国を統治して下さっている限り。)
廊下と中庭を区切る腰の高さの赤煉瓦に手をつき、もう一度息を吐いた。
突き当たりの湯殿に、パッを灯かりがともるのが目の端に入ったが、そのまま遠くの雲に目を遣る。
「だいじょうぶ〜!湯殿の用意今やってるわ〜!」
灯かりのともった湯殿の奥からリュイとシャラの声が交互に聞こえた。
その声に生返事を返しながら細い腕を頭の後ろへあげ、一つに結んだ皮紐をほどく。
春風は中庭の花の香を乗せながら、ハディの栗色の長い艶髪をなびかせた。
見上げていた顔を降ろし自分の手元に目を遣る。
(この皮紐も古くなったわ。でも愛着沸くのよね。)
短いが整った綺麗な爪で皮紐をいじりながら、夕焼けに頬を染めた。
「ねえさーん!香油の置き場所変えた〜?ちょっと来て〜!」
遠くからのリュイの声にふと現実に戻され、急いで湯殿の方へ足を向かわせる。
するりと指から抜け落ちた皮紐に気づかずパタパタと走るハディの背中を、
沈みかける夕日が赤く染めた。
皮紐をゆっくり拾い上げながら、もうすっかり暗くなった中庭の横で、男は赤煉瓦の上にワイングラスを置く。
肌寒くはあるが、空気が澄んでいて月が一段と綺麗に自分を見下ろしていた。
(夕焼けは一瞬だな。さっきまで西の空が明るいと思っていたのに、すぐに暮れる。)
バンクスの公務を終え、久しぶりの酒だった。部屋で飲むのも気が進まず、中庭の見えるこの廊下へ来た。
ふと皮紐に目を落とし、擦り切れた古い紐を手のひらに乗せた。
(遠くに見た女の姿。夕焼けに染まった女の横顔を、あれほど美しいと思ったことがあるだろうか。)
皮紐の乗った手のひらをぐっと握ると、皮紐は音もなく手の中に包み込まれる。
手のひらで皮紐が擦れる感触を感じながら、邪まな感情が胸を黒く染めているのに気づき、自嘲気味な笑いが込み上げる。
(私は何を考えている・・・?国家に対しても国民に対しても、理性を保ち感情的にならず常に冷静沈着に物事を思考するべきだろう・・・?)
細いが骨ばった男らしい手でグラスを掴み、こみ上げる思いを押し潰すかのようにグラスの中のワインを一気に喉へ押しやった。
「ワインのおかわりは如何ですか?イル・バーニ様。」
通りかかったワイン壷を抱えた女官が、緊張した面持ちで恭しく勧めてくる。
「そうだな、貰おうか。」
女官の方にグラスを差し出し、注ぐように促した。
女官は緊張が解けない様子で、注ぎ口が震えカチカチと音をさせていた。
イル・バーニはそんな女官を見て、口の端を上げた。
「お前は今年から宮殿に入った女官か?私はそんなに怖いと思われているのか。」
女官は注ぎ終えた壷を抱えなおし、びっくりした様子で答えた。
「い・・・いいえ。は・・・初めて身分の高い方に注いだので緊張しておりました。
冷静沈着で頭脳明晰、お歌もお上手と聞いております。
この国になくてはならない陛下の一番の側近のイル・バーニ様へワインが注げたのですから、
私は将来、子供にも孫にもそのまた子供にも自慢ができます。」
女官の言葉を聞きながら、イル・バーニは注がれたワインを一口でぐっと飲み干すと、また女官へ差し出した。
「それは大そうな人間のようだな。私はただの男なのに。」
女官は注ぎながら言葉を続ける、
「わ・・・わたくしはイル・バーニ様を尊敬申し上げております。
やはり宮殿におられる殿方はわたくし供がお知り合いになれるような器量の方ではございません。
お酒の飲み方も心得ていらっしゃるし、何より女性にお優しいです。」
息をつかず一気に言葉を出したあと、女官は少し話しすぎたことを無礼と思ったのか、
注いだ壷を持ち直しさっと一歩下がった。
今度は女官の言葉には何も答えず、イル・バーニは中庭に向き直り、ワイングラスを指で掴んでくるくると回した。
女官は一礼すると、頬を紅潮させ足早に奥へ消えていった。
(今夜は飲みすぎたな・・・)
女官が去って静かになった廊下で、ぼぅっとする頭をゆっくり横に振りながら、
赤煉瓦の横にある籐の椅子に腰掛けた。
(頭脳明晰、冷静沈着。じゃあなぜ私はあの女を見ると冷静ではなくなる・・・?あの細い腕を、細い腰を、長い髪を、
鼻筋の通った綺麗な横顔を、ほっそりとした顎を、よくしゃべる小さな唇を、形のよい耳を、小さな細い指先を・・・。
思い出すだけで全てが私を狂わせる。)
ワイングラスの中に目をやり、しばらく見入る。ワインの表面に自分の瞳が映った。
血の色の中に映し出される瞳の中に、黒い妖しい獣の炎が宿るのを自覚していたが、
その炎を胸の中に飲み込むように、イル・バーニは最後のワインを飲み干した。
(会いたくない。来るな。・・・・いや、違うな。来る方が悪いのだ。こんな古い擦り切れた皮紐を捜すために・・・。)
手の中で皮紐は音もなくくしゃっと握られる。
片方の手で、空になったワイングラスを赤煉瓦の上へ置こうとし、手が滑った。
陶器の鈍くはじける音がして足元で割れた。
イル・バーニは割れたグラスの破片を見ながら、艶やかな髪を揺らしながら皮紐を探しに来る女の姿を思い浮かべ、
自嘲気味な、そして不敵な笑みをかみしめた。
皮紐の擦れる感触に、背筋にがぞくりとする。彼女は来るだろう。何も知らず何も気づかず、大人ぶった無邪気な笑顔で。
そして大事な皮紐を持っている者の正体が野獣だとも知らずに・・・。
「ねえさん、明日は何時に起きればいい?」
遅くまでかかった仕事がやっと終わった夜半すぎ、3人で寝室に向かう途中リュイが眠そうに聞いてきた。
「明日は2人ともゆっくりしてていいわよ。久々にお休みを頂いたの。最近ずっとこの時間だもの、陛下が許してくださったわ。」
ハディは姉らしく双子達を労わりながら言った。自分も疲れていたが、まだやらなくてはいけない事があった。
リュイとシャラはそれを聞いて嬉しそうに笑いながら、そしてふとシャラがハディの髪を見て驚いて言った。
「ねえさん皮紐じゃないわね、今日。それさっき湯殿にあった香油の箱についてた紐じゃない?まとまらないでしょ、そんなんじゃ。」
リュイが続く、
「そうよ。ねえさんただでさえ細くてさらさらなんだから。綺麗な髪よね〜。羨ましい。」
ハディは細い腕をあげ髪の紐を触りながら、ペロっと舌を出して双子達に言った。
「今日中庭の廊下で落としたみたい。だいぶ古くなってたんだけど、気に入ってたのよね。先部屋に行ってて。私中庭に行ってみるわ。」
寒いから、と白い薄い羽織をリュイから渡され、細い華奢な肩にかけると、双子達と別れ中庭の廊下へ向かった。
中庭の廊下へ出ようとした時、ガシャン、という鈍い何かが割れる音がしてハディは驚いた。
物陰から様子をうかがうと、籐の椅子にイル・バーニが座っているのが分かる。
(イル・バーニ様?こんな夜中に・・・。)
彼の足元を、赤いワインが鋭い陶器の破片と共に血の色に染めている。
高級そうな翡翠の飾りのついた履物が、ワインで汚れているのが分かった。
月が怖いほどに明るく、2人の間を照らし出す。
ハディは汚れた履物を見て、羽織っていた白い薄絹を無意識に取りながら、イル・バーニの元へ走ろうとした。
しかしふと足が止まった。
(なんて瞳をしているの・・・。)
月の光に照らし出されたイル・バーニの瞳は、何かいつもと違う輝きを放っていた。輝き・・・いや、何か違う・・・。
一瞬躊躇したハディの足元で、女官が落としていったのか小さな金の指輪が弾かれて、カランと金属の転がる音を出した。
椅子にもたれていたイル・バーニは、何か金属の当たる音を耳にし、はっと前を見た。
薄絹を手に持ち、不安そうに見ている女。2人の視線が一瞬交差した。
ハディは交差した視線にはじかれたように、言葉を紡いだ。
「イ・・・イル・バーニさ・・・ま?こんな夜中にどうされました?今お足元のワインお拭きします。」
パタパタと駆けて来て、手に持った薄絹で足元のワインを拭く。白い薄絹がどんどん朱色に染まっていく。
(これリュイのだった・・。でもいっか、あたしのあげれば済むことだわ。)
妹の絹で拭き終わり、割れたグラスの破片を片付けていく。イル・バーニは黙ったまま片付けるハディを見ていた。
(イル・バーニ様、酔われているのね。珍しいこともあるものだわ。お水持ってきた方がいいのかしら。)
ハディは続けて割れた破片を重ねていった。
「・・っ・・」
指先に乾いた痛みが走る。破片で切ったのだ。小さい切り傷なのに、血が次から次へと出てくる。
「・・・どうかしたのか?」
落ち着いた声で問われる。その声があまりに低く、男じみていたので、ハディは一瞬ビクっとしたが、
切った指をピンとイル・バーニの方へ見せて、笑った。
「切っちゃいました、あはは。そそっかしくて恥ずかしいですわ。あ、イル・バーニ様、お水お持ちし・・・・」
「・・っ・・・」
突然熱い粘膜の感触を指先に感じた。一瞬何が起こっているのか分からず、ハディは慌てた。
「イル・バーニ様!!!おやめ下さい、汚れます。どうか・・」
彼の口に含まれている指を急いで離すと、いきなり手首を掴まれた。
「ハディ、水はいらぬ。お前の血で潤ったからな。」
その答えにハディは困惑し、掴まれた手首が軋むのを感じた。
「イル・バーニ様、そんなに掴まれずともわたしは逃げませんわ、それより皮紐を見ませんでしたでしょうか。」
イル・バーニは掴んだ手首を少し緩め、椅子から立ち上がった。そして片方の手の平を広げた。
「拾ったよ。これだろう。」
ハディは少し安心して、手の平のものをみて、自分よりかなり背の高くなった男を見つめ笑った。
「それですわ!ありがとうございます。今日落としてしまったので見つかってよかった・・・。」
無邪気に笑う女の顔を、イル・バーニは黙って見ていた。心の奥でふつふつと黒い炎が沸き立つ。
(なぜこの女はこんなにも狂わせる・・・。ただ笑っているだけなのに。)
「そうだ、新しい皮紐をやろう。この間陛下から翡翠を貰ったのだ。前に私の部屋付女官が、皮紐に飾りをつけて髪を結っていたぞ。
お前もそうすればいい。」
ハディは畏れ多そうに首を振った。
「そんな・・・嬉しいですけど恐れ多いですわ。今まで散々やんちゃに動いてきた私ですもの、飾り気を出したらユーリ様に笑われます。」
ペロっと舌を出したハディを見て、イル・バーニは再度背中がぞくりとするのを感じた。
(何も分かっていない。この女は何も・・・。)
何かに弾かれたように、イル・バーニは掴んだ手首に力を入れ、そのまま中庭を通り、向かい側にある自室に向かった。
ハディは驚き、とっさに手を離そうとしたが、力が強くて到底引き離せない。
「イル・バーニ様!!」
パタン、と厚い扉が閉まる。
イル・バーニの自室は広く、殺風景だ。ハディは初めて入る部屋に驚いた。そして得体の知れない不安の裏返しで急に強がった。
「イル・バーニ様らしくないわ。そんなに酔われて、今夜はもう眠った方がよろしくなくて?」
イル・バーニは掴んでいた手首を離し、着ていた上着だけを机に置きにいくと、ハディの背後で声を立てず笑った。
そして、机の小箱から小さな翡翠の塊を取り出し、背後から彼女に近づきながら項を見つめる。
「結ってやろう。翡翠を今持ってきたから。」
そう言って、ハディの柔らかな細い髪を結っていた紐の結び目を解く。
ハラリと細い滑らかな栗色の髪がハディの肩にかかる。
ベッドの脇にある椅子に座るように促すと、彼女は諦めたように従った。
髪をかき上げてやると、ビクっと華奢な肩が動いた。
「くすぐったいか?」
ハディは恥ずかしそう笑う。
「殿方に結ってもらうなんて初めてなんです。恋愛は年相応にはしましたけど、みんな女の扱いがなっていませんでしたわ。」
イル・バーニはそんな彼女の様子を、背後から見ながら、低い声でつぶやいた。
「では私が女の扱いをしてやろうか。」
ハディが驚き振り返ろうとする。イル・バーニはそれを許さず背後から椅子越しに抱きしめた。
「イ・・イル・バーニ様酔ってらっしゃるわ!!私もう帰らないと。リュイとシャラが待っ・・・」
背後から抱きしめながら、イル・バーニは左手でハディの顎をくぃっと横に向ける。
有無を言わせず唇を奪った。最初は下唇をついばむようにしながら、徐々に深くなっていく。
抱かれた華奢な肩が緊張で固くなっている。
舌で歯列をなぞってやると、その肩がビクンと震えた。
「・・・っ・・ふ・・ぁ・・」
くぐもった甘い声が漏れる。イル・バーニはくすりと笑い、口を離した。
「恋愛は年相応にしたんじゃないのか?随分初々しい反応だな。」
からかうように言うと、ハディは濡れた唇をきゅっと噛み締めた。
そして、漂っていたねっとりとした空気を断ち切るように椅子から立ち上がる。
「か・・・帰ります。イル・バーニ様今日はおかしいわ。私はあなたに見合う女ではありません。でも娼婦のつもりもありません。」
そう言って足早に部屋の出口へ向かおうと体ごと振り向いたハディを、イル・バーニは抱きしめた。
そして胸の苦しさをどう表現していいのか分からず、耳元で低く声を押し殺すように囁いた。
「お前の容姿ならすぐに店一番の人気者だな。一晩でいくらほしい?毎晩通ってやるぞ。」
「!!!」
ハディは目を見開き、それと同時に乾いた音が広い部屋に響いた。
振り上げた手をそのままにして、ハディは目に薄く涙を溜めながらイル・バーニを睨んでいた。
イル・バーニは、痛い様子もなく振り上げられたままのハディの右手を掴み、そのまま壁に押し付けた。
片方の手で抗おうとするハディを押さえつけ、左手も右手と一緒に頭の上でひとまとめに押さえ込む。
そしてイル・バーニはそのまま首筋に唇を這わせた。耳の裏から鎖骨にかけてゆっくりと舌でなぞっていく。
「・・・っ・・」
ハディの桜色の唇から吐息が漏れる。しかし先程と違ってすぐ下唇を噛み、声を出さないようにしていた。
「おい。唇が切れるぞ・・・。」
そんなハディの様子を上目で見ながらイル・バーニは骨ばった鎖骨をこりこりと舌でなぞった。
「・・・ぁっ・・っ・・」
小さく甘い声だった。瞳からは涙が一筋流れ、少し開いた唇は濡れて男を誘っている。
そんなハディを見て、イル・バーニは黒い炎が心を支配していくのを悟った。
「泣くほど私が嫌いか?優しくなどしてやるものか。私がお前に狂っているように、お前も私に狂え。」
首の後ろで軽く縛ってある結び目を解くと、くくっただけのハディのワンピースは、はらりと足元に落ちた。
ハディの白くしなやかな身体が、窓からの月の光に照らされて、美しく浮き立っていた。
涙で潤んだ瞳でイル・バーニを睨みながら、ハディはくだけた口調で言った。
「こんなの間違いだわ。あなたは酔ってる。だから酷いことも言えるのね。女が傷つくことなんかなんとも思ってないのよ。」
ハディの素の表情を見て、イル・バーニは満足する。いつも恭しく接してくるこの女の本性が見たい。もっとむき出しにさせたい。
すがりついて女の声を出すハディを・・・。
イルバーニは、片手で自分の腰に巻かれた飾り紐を外すとハディの両手を縛り、壁の出張っている部分にくくりつけてしまう。
そしてまた鎖骨に口づけ、ゆっくりと言った。
「帰さない。もう止まらない・・・。声を出せ。誰もいない。私はお前の声が聞きたい・・・。」