シレンがフミを竜のアギトから助け出し月影村に戻って来たのは、既に夕日も西の空へ落ちかけようとしている頃であった。  
 先程まで荒れ狂っていた峠の空が突然静まったことに驚き、何が起こったのかと各々の家から出てきた村人達の眼に映ったのは、フミを怖がらせないよう手をしっかりと繋いで森から出てくる二人と一匹の姿だった。  
 村の中に入ったことを確認し、ゆっくりとフミの背中を押してやるシレン。それを振り返りつつも、村の出口で待ち構える母親の許へ駆け出すフミ。お互いに相手を呼び合い、泣きながら抱擁する母子。  
 次の瞬間、周りから沸き起こる歓声。村の女と子供達は親子を囲み、男達は勇敢な風来人を囲む。もう誰も彼に余所者への眼差しを向けるものは居なかった。  
 「とうとう…とうとうやってくれたなぁ、アンタ!!えぇおい!」  
 余りの嬉しさに一杯の力を籠めて背中を叩く大工のマサ。それを受けて力なくその場に倒れこむシレン。先刻村人が見た力強い足取りとは裏腹に、シレンの身体は一連の戦いで満身創痍になっていた。  
 「いかん!直ぐに手当ての用意を!」  
 慌てて村人に指示をだす村長。場の空気が張り詰める。シレンは村人達を心配させぬよう愛想笑いを返す。  
  ぐうぅぅぅ〜。  
  突然大きな音が響く。誰かの腹がなる音だった。コッパがすかさず何事も無かったかのように笑いながら答える。  
 「ナンだよ、腹が減ってぶっ倒れただけか…気合入れろよ、相棒!」  
 「…お前だよ」  
 彼らのやりとりで、周りから笑いが巻き起こる。一瞬張り詰めた空気は一気に解かれ、そして笑い声は、今まで村に立ち込め、黒い影を落としていたモヤを吹き飛ばすほどの大きな笑いとなって村中に伝染し、暫く収まることは無かった。  
 
 その後、シレン達はととやにて手当てを受けた。意識はあるが身体に力が入らず、村の男達にととやまで運んでもらい、女将に血で紅く染まった服を脱がしてもらう。  
 動けない所為で何もかも周りに世話してもらう自分が少し気恥ずかしかったが。  
 女将に傷付いた身体を拭いてもらっていると、ふと、いつもの姿が見えないことに気付く。シレンは珍しく女将に尋ねた。  
 「あの…ケヤキちゃんは…未だ?」  
 「気になるかい?やっぱりこんなオバサンより若い女の子に面倒見てもらった方が良いよネェ」  
 「どついちゃっていいですよコイツ調子に乗ってるだけなんで!スミマセンねぇ、助平な相棒で」  
 「…おぃ」  
 「ハハハ、それは冗談として…ねぇ。まだ戻って来ないのよ。どうしちゃったんだろ」  
 「もしかして、まだあの事を気にして…。…てやんでぃ!オイラ達がそんなこと気にするもんかい!」  
 シレンは口にこそ出さなかったが、全く同じ心境だった。と同時に、一抹の不安がよぎる。風来人である自分達の前なら兎も角、村人の前にも姿を現さない。一体何処へ行ってしまったのだろう?  
 「あんた達はそう言ってくれるだろうけど…やっぱり、年頃の女の子にはね、一寸きつかったかも知れないね」  
 ため息混じりに語る女将。  
 「戻ってきてよぅ、ケヤキちゃぁーん!帰ってきてオイラに膝枕してついでに毛繕r」  
 額の濡れ布巾をコッパに投げ付けて黙らせた。  
 「性根は明るいコだから、心配は要らないと思うけど…。ま、こんな目出度いコトになったんだし、兎も角、あのコきっと戻ってくるわよ。何事も無かったように、カラリと笑ってさ。」  
 
 手当てが終わってからは、村人が波のようにととやへ押し寄せた。  
 フミ親子や村長のように感謝の意を伝える者もあれば、村の子供達は旅の顛末を聞きたがり、気の早い男達は祭の前夜祭だといって酒を持って見舞いに訪れた。最も、動けないシレンの代わりにコッパが殆どの村人の相手をしたのだが。  
 こういう賑やかな場面では、どちらかと言うと無口なシレンの代わりに、語りイタチの見せ場とばかりコッパが代弁する。旅を始めてから知らぬ間に、この互いに相棒を補い合う役割分担が出来上がっていた。  
 怪我人のいる部屋とは思えないばかりに賑やかなととやだったが、月の光が村中を照らす前に、村人達は口惜しそうに引き上げていった。二十六夜の月でも未だ子供達には光が強すぎるのだと、村長は言った。  
 明後日は月が隠れ始め、光の力が一番弱まる晦(つきこもり)の日。生け贄のしきたりが絶たれた今となっては、村人達にとって何年ぶりかの祭りの日だ。だから、明後日までにゆっくり身体を治しときなよと、ととやを去る村人達から労われた。  
 
 その夜、先程とはうってかわった静けさの中、一人シレンは寝付けなかった。胸が疼くのだ。  
 女将から丁寧に手当てを受けたとはいえ、それだけで癒えるほど旅の傷は生半可なものではなかった。  
 オロチの炎撃で負った火傷が身体を熱く焦がし続ける。タウロスやクロムアーマーから受けた傷の痛みが身体中に走る。  
 アギトからの下り路で、フミへの攻撃を庇い無防備に喰らった一撃。胸に深い爪痕が残る。下手に動くと傷にさわる所為で、ろくに寝返りも打てない。  
 それに加え頭が響くように痛い。やっぱりあの時コッパと村の男達に乗せられて呑むべきではなかった。ほんの一杯だけだったのだが、今の身体には毒だったろう。  
 昔から酒を断わるのは苦手であったが、今回ばかりは己の不器用さを呪った。  
 横ではコッパがシレンの分も酒を呑み、すっかり酔い潰れて眠りこけている。まあコイツがいなければ、さらに大変なことになっていたのだろうが。  
 だが、それだけだろうか。この胸の疼きは。身体を走るのとは違う、別の痛み。何かが腑に落ちない、モヤモヤが心に巣食う。  
 何か大事なモノを忘れている気がする。では何を?オロチを倒し、フミを助け出して尚残る、この心許無さは一体何だというのか…こんな気分になるのも、酒の呑み過ぎだろうか。  
 気持ちが落ち着かない中、疼きはますます激しくなっていく。まずい。頭が朦朧としてきた。視界が定まらない。せめて意識を失うことだけは…。シレンは如何ともし難い疼きに抗うべく、呻き続けることしかできなかった。  
 
 それから一刻程経った。シレンは相も変わらずうなされている。額には大粒の汗が浮かぶ。熱も引くどころか、時間が経つにつれ熱さを増していく。  
 このままだと冗談抜きに、熱で身体が燃え尽くされてしまいそうだ。  
 意識の糸が今にも切れんとしたその時、外の涼しい風が部屋に入り込み、シレンの魂を呼び戻した。助かった。  
 隙間風だろうかと、ふと横をみると、さっきまで閉まっていた筈の襖が少し開いていた。それとも最初から空いていただろうか。その記憶すら曖昧になっている。  
 どちらにせよ、川の向う岸に渡らずに済んだことは確かだ。シレンは安堵した。  
 暫くして、足音が聞こえた。辛うじて、部屋の中で何かが動く気配が感じられる。襖の方を見ても、人影はない。  
 コッパが寝惚けて厠にでも行ったのかと思ったが、相変わらず隣で寝ているのが見える。   
 さては月の光で化けた子供たちか?今襲われてしまえば、相手が子供とはいえひとたまりも無い。だが足音に殺気は感じられなかった。  
 では足音の正体は何か。モンスターであることは間違い無いようだが、確かめようにも頭が働かない。ぼやけた視界に茶色い影が段々迫ってくる。  
 
 影はある距離までシレンに近づくと、動きを止めた。シレンの視界にも徐々に、影がハッキリと見えてくる。最初に確認できたのは、つぶらな二つの赤い瞳。  
 茶色い影はかすかな声で鳴き始める。何処かで聴いたことのある、憎らしくも愛らしい鳴き声。ネコか。  
 いや、ウサギだ。ぼやけた輪郭が鋭くなり、確信に変わる。部屋に入ってきたのは癒しウサギだった。  
 癒しウサギは警戒しているのか、シレンが動かないことを確認ながらそろりそろりと近づいてくる。どうやら敵意は無いようだ。  
 しかし何故?女将さんが心配して来てくれたのか。いや女将さんは違うモンスターだったはず。では誰が?やはり子供達だろうか?それとも腹を空かせて山からはぐれ降りてきたのか…。  
 兎も角、今の状態ではどうすることも出来ない。力無い瞳で、癒しウサギをただ見つめ続ける。  
 
 癒しウサギはそこから動かず、シレンに呼びかける様に鳴き続ける。暫く見つめていると、心なしかウサギの眼が潤んでいるように見える。眼からぽとり、と零れ落ちる滴。  
 「…寂しい…のか?」  
 独りごちる様に呟く。言葉が分からないのか、ウサギはきょとんとした顔で、首を僅かに傾ける。  
 やがてシレンに心を許したのか、ウサギはシレンに近づくと、顔に頬擦りをする。突然の行為に面食らうシレンだが、ウサギのふわふわした毛が火照った頬を優しく撫でる。心地よい。仄かに甘い山茶花の香りが漂う。  
 ふと、頬に生暖かい感触。ウサギが顔の傷を舐め始めた。くすぐったいのと、ウサギの人懐っこい仕草に、シレンの顔が自然と緩む。  
 そっと、癒しウサギに手を近づけてみる。ウサギは気付かない内に体を触られてびくっと驚いたが、程なくして手に受けた傷にもそっと舌を近づけていった。  
 相変わらずシレンの意識は朦朧としたままだが、癒しウサギの愛らしい様子を見ていると、先程までシレンを悩ませていた身体の疼きを、暫しの間忘れることが出来た。  
 無意識に、ウサギの首下を撫で始める。猫のようにゴロゴロと喉を鳴らす。ウサギもまんざらではないようだ。  
 
 暫くすると厭きたのだろうか、癒しウサギはすっくと立ち上がり、横たわるシレンの上にそっと乗り上がると、今度は胸の傷にちろちろと舌を這わせていく。胸の傷は一番深く、唾液が傷に染みる。  
 「…っつ…」  
 少し痛みを感じ思わず声を上げる。ウサギはシレンの声に敏感に、舌の動きを止めたりするが、それでもそおっと傷を舐めていく。  
 何故ウサギがこんな行為をするのか、その理由を理解するのに時間は掛からなかった。胸の傷が、何か柔らかく温かいものに包まれていくのを感じた。  
 時間が経つうちに不思議と、傷の痛みが引いていくのが分かった。癒しウサギがシレンの傷を癒してくれているのだ。  
 先程舐められた頬や手にあった傷も癒えているようだ。自然と痛みも消えていく。ウサギに触れられた場所が、仄かに光で包まれている。  
 なおもウサギは健気に、小さい口で、少しずつ、シレンの傷を癒していく。  
 小さい身体で、ひたむきに自分を看病する癒しウサギがいとおしく、ウサギを優しく撫でるシレン。するとウサギも鈴のような鳴き声で答える。  
 徐々に温かく柔かい光がシレンを包み始める。心地よさに浸り、先程までの身体の疼きも忘れ、シレンはいつしか深い眠りに誘われていった。  
 
----束の間、夢を見た。  
いつも通り旅の支度をする。村を出ようとすると、後ろから自分達を呼び止める声。息を弾ませ、風に乱れる髪を気にもせず、村の出口まで駆けてくる。  
「ハア、ハア、ハア…良かった、間に合って…。…ナギ君、助けに行くんでしょ?はい、これ!」  
薬草を渡され、思わず相手の顔を見上げる。彼女は息も絶え絶えに喋り続ける。  
「裏山まで行って、取って来たの。結構時間が、かかっちゃって…頑張ってね!」  
そういって自分に微笑みかける。彼女の笑顔がまぶしい。控えめだが、芯の通った眼差し。何時も旅を後ろ押ししてくれる、そんな彼女の笑顔が自分は好きだった。  
彼女の名はケヤキ。  
この村に滞在している間、神社で出会って以来、ずっと自分を看病してくれた子だ。  
あの夜以来、久しく彼女の笑顔を見ていない――  
 
 いつの間にか眠ってしまったようだ。まだ昨夜の温もりが残っている。柔かく、温かいモノに身体中を包まれている感覚。  
 身体の傷はすっかり癒えたようだ。一晩中苦しめられた胸の疼きも、今は感じない。あの癒しウサギのお陰だ。  
 昨夜のウサギはまだいるだろうか。身体の上に感じる重みに手を当ててみる。すべすべとした、滑らかな感触。昨夜とは違う。  
 目を開けてみる。段々と、ぼやけた視界が鮮明になってくる。昨夜と同じ匂いに包まれている自分。  
 自分の上にいるはずの癒しウサギは…いなかった。代わりにあるのは、見覚えのある顔。ついさっきまで笑っていた彼女の、いとおしく安らかな寝顔。  
 温もりを伝えるのは、透き通るようで、雪のように柔かく白い肌。しなやかな肢体が、昨晩まで傷付いていたシレンの身体をしっとりと優しく包み込む。  
 相手の鼓動が伝わってくる。一糸纏わぬ姿で、重なり合う身体と身体。  
 「ケヤキ!?」-----  
 
 シレンは思わず飛び起きる。  
 
 ----目の前に居たのは、名前を呼んだ相手ではなく、茶色い小さな癒しウサギ。今の大声で飛び起きる。  
 癒しウサギは何を思ったのか、起きたシレンを見ると突然焦ったようにぴょんぴょん跳ねて、一目散に襖の向こうへ逃げるように去って行ってしまった。  
 一瞬何が起こったのか、目覚めの頭で理解出来るはずもなかった。暫くして聞こえてきた小鳥の鳴き声で、ようやく朝を迎えたことに気付いた。  
 さっきのケヤキの姿は…未だ夢を見ているのか?それとも幻だったのか?昨日の傷が癒えていること等すっかり忘れて、呆気に取られるシレン。  
 微かに残っているのは、自分を包むあの温もりと、山茶花の甘い匂い。  
 「ふぁ〜ぃ、朝っぱらからどうしたんだよ…」  
 先程の大声で目を覚ましたコッパが寝惚け眼で尋ねる。が、そんなコッパの問いに答えることなど出来る筈もなく、シレンはただ襖の向こうを暫く見つめることしか出来なかった。  
 
 祭りの翌朝、シレンとコッパは出立を村の者たちに告げた。  
 「何も昨日の今日出て行かなくても…もう少しゆっくりしていったら?」  
 「オイラも二日酔いだからそうしたいところなんだけど、相棒がさあ…」  
 別れの時はいつも、シレンは足早にその地を発つ。風来人は同じ場所に長くは留まらない者。別れが名残惜しくなる前に、早々旅立ってしまわなくては。  
 「けどシレンさあ、…ケヤキちゃんのこと…本当に良いのかい?」  
 コッパの呼びかけにも、シレンは答えなかった。  
 村人達が別れ際、感謝の言葉をシレン達に伝える。  
 何だかんだいって、この村の人達も自分達を受け入れてくれた事が、無宿者の自分には嬉しいことだった。  
 ただ一つ、心残りがあるとすれば…  
 それでは、と別れを告げようとしたとき、足元に何かが居るのに気がついた。  
 「野良猫?」  
 初めて村に来たとき、神社に居た野良猫だ。暫く見なかったが…。  
 「シレン!もしかしたら!」  
 野良猫は村人達の間を駆け抜けていく。  
 そしてその先には…ケヤキの姿があった。  
 「やっぱり…もう一度、逢いたくて…。もう行っちゃうんでしょ?」  
 まるで何事も無かったかのように、ケヤキは真っ直ぐシレンのもとに近づいてくる。  
 「…シレンさんは風来人だもンね。次の冒険が待っているンだものね。」  
 寂しそうな素振り等微塵も感じさせず、元気に振舞うケヤキ。  
 「だから…あの、これあげる!」  
 シレンの手の中に包を手渡す。薬草だった。  
 
 「確か、最初にあげたのも薬草だったよね。新しい旅立ちだから、これが良いと思って・・・」  
 ケヤキはそう言いながら、屈託なくシレンに笑いかける。久しぶりの笑顔を見て、シレンは何よりも、再び彼女の笑顔を見れたことが、ただ嬉しかった。  
 ふと、この間の出来事が頭をよぎる。生死の境から自分を救ってくれた一匹の癒しウサギ。一瞬だけ見えた、ケヤキの幻。  
 「…ケヤキちゃん、あの…」  
 「?」  
 ケヤキはきょとんとした顔で、首を僅かに傾ける。  
 …いや、この場所でわざわざ聞くことも無いだろう。そう自分に言い聞かせ、出掛かった言葉を飲み込む。  
 「いや…有難う」  
 シレンも微笑み返す。  
 「…どういたしまして!」  
 そう。どんな真実よりも、彼女がたった今見せてくれた笑顔で十分だ。  
 
 「そろそろ行こうぜ! シレン!」  
 コッパが切り出した。シレンはトレードマークの三度笠を軽くぬいで、  
 「…じゃ」  
 と一言だけ残し、月影村を後にする。  
 背中から聞こえて来る村人達の言葉。  
 
 「体ァ、大事にするんだよ!」       「じゃな!」           「色々と、有難うよ」  
                  「道中、くれぐれも気を付けてな」  
 「助けてくれて、ありがとー!」                   「兄ちゃーん、元気でねー!」  
 
                   「…次の冒険も、頑張ってね!」  
 
 彼らの背中が見えなくなるまで、村人達は見送り続けた。結局最後まで、ケヤキの笑顔をうっすらと伝う一筋の光に誰も気付くことは無かった。  
   
 終わりも当ても無い風来人の旅は続く。  
 
 

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