ノロージョ…シレンは、涙を両手の甲で拭いながら、不意に訪れた恐怖で身震いした。  
 もし、渓谷の宿場に戻されるより早く衰弱してしまったら―― 落命してしまったら。  
 そうなれば宿場に戻されることもなく、ここで朽ち果て、骨も風化するだろう。  
 
 コッパを連れてこなかったのは正解だった。けれど、  
『今回は待っててやるからよ、早くしろよな!』  
 拗ねたように言い放つ白い姿が脳裏をよぎる。  
 シレンは強く歯噛みした。このままで良い筈がない。  
 
 風来人とは、最後まで諦めることなく、突破口を見出してピンチを切り抜けるものだ。  
 そして命あってこその人生だ。死んでは矜持も意地もない。こだわるだけ無駄だ。  
 なによりも…旅ができなくなる、胸躍る冒険ができなくなる。それは絶対に嫌だった。  
 
 シレンはノロージョの姿で甲高く声を張り上げる。  
「ナオキ、ナオキ! 頼む、手を貸してくれ、助けてくれ!」  
 アイアンヘッドの手の甲に爪を立てて離させると、思い切り股間を蹴り上げた!  
 ナオキも、遠巻きに眺めていた吸引虫らも、突然の行為で驚愕し、目を瞠る。  
 アイアンヘッドは股間を覆って蹲り、ゲイズの触手がシレンの片腕を縛り上げた。  
「ナオキィ!!」  
 我に返ったナオキは素早く二丁の包丁を取り出し地を駆けると、あっという間に、  
 ゲイズの触手を・蹲るアイアンヘッドを・吸引虫を・ゲイズ本体をも切り伏せてしまった。  
 
 見事な包丁さばきに微笑して、シレンは膝をつく。うつ伏せに倒れる。  
「おい、大丈夫か!?」  
 包丁を仕舞ったナオキが駆け寄り、シレンを抱き起こす。  
 触れた肢体はモンスターの体液でぬめり、その気色悪さにナオキは眉をしかめた。  
「…すまねぇ、ナオキ…。」  
 抱き起こされ、ぐったりと見上げるノロージョの姿が、ナオキには一瞬、普段のシレンの姿とぶれて見えた。  
「アンタ…もしかして、シレンさんかい?」  
 瞠目したシレンは唇の端をクッと噛んで、俯いた。それだけでナオキは察することができた。  
「話は後だ、シレンさんは聖域の巻物から一歩も出ないでくれよ?」  
 言うや否や、巻物を広げてシレンを優しく寝かせる。  
「ナオキ…。」  
 三体を倒したとはいえ、モンスターハウスである。いまいる部屋が大部屋でないことは救いだったが、モンスターは残り二十体余り。事は終わっていないのだ。  
 
 ナオキは再び、両手に包丁を構える。  
「すぐに片して、手当てするからさ。」  
 からっと笑んで、シレンを庇うように両足を踏ん張る。群れなかへ駆け出す。  
 姿を見送るシレンの意識は朦朧として、一瞬で張り詰める空気さえ心地よく、眠るように気を失った。  
 
 丁寧に身体を拭われる感触に、シレンは睫毛を振るわせた。  
「目ェ、覚めたかい?」  
 ナオキの優しい顔を視界に映り、シレンは勢い上体を起こした。  
「い、てて…。」  
「まだ起きちゃダメだ、シレンさん。」  
 横たわるシレンはまずナオキを見、自身を見下ろす。  
 姿はノロージョのままだったが、身体は濡れ布巾で拭われたようで、微風をひんやりと感じる。  
 素肌に大布を巻かれ、口なかも苦くない。  
「ナオキ、その…すまねえ、こんな…。」  
 申し訳なさと、羞恥に頬を染め、顔を背ける。  
 
 ナオキの目前で、…自分を慰めてしまった。  
 それさえ無かったならば、せめて、拙くとも笑顔で礼を述べられたのに。  
 
 ナオキは無言で手を伸ばしてきて、シレンは知らず身を硬くする。  
 ナオキの手ひらは、シレンの―― 今はノロージョの―― 頭髪を撫でた。  
 動作は優しく、労わるように、シレンの心を癒す…。  
「……ふ、ぅ…、…く……ちくしょう…!」  
 シレンの目尻や目頭から、止め処なく涙が溢れ零れる。  
 ナオキは何も言わず、問うこともせずに、シレンが泣き止むまで抱きしめていたのだった。  
 
 ようやく泣き止んだシレンの頬を、ナオキは苦笑して布で拭う。  
「ほら、懐紙だよ。鼻かみな。」  
「ありがとうな、ナオキ、」  
 懐紙で盛大に鼻をかむと、丸めて塵袋に入れ口を縛る。  
 ほぅ…一息ついて、二人の間に沈黙がおりる。  
 微かな風の遠い唸り、二人の呼吸する音。  
 
 沈黙を先に破るはシレンだった。  
「口ン中がさっぱりしてるけどよ、漱いでくれたのかい?」  
「ああ、」 ナオキは道具袋から竹筒と薬草を取り出した。  
「湧き水と毒消し、それと薬草を使ったんだ。」  
「何から何まで、本当にすまねぇな…。」  
「いいってことよ。シレンさんだからな。」  
 からからと笑うナオキに心救われる思いで、シレンも笑った。  
「よし、」  
 立ち上がると、くらり眩暈がしたものの、モンスターの体液による効果も収まったようで心持ち、身体が軽く感じた。  
「少し待っていてくれねぇか? すぐ元の姿に戻るからさ。」  
「了解だ。」  
 ナオキの返答に一つ頷き、シレンは俯き、瞑目する。  
 
 ノロージョの周囲を風が鋭く吹き抜けた後に―― 風来人、シレンの姿があった。  
 腰には刀、腕に使い捨ての盾を構え、トレードマークの三度笠と、縞合羽の裾が揺れる。  
「これでひと安心…うん?」  
「どうかしたかい? シレンさん。」  
 首を傾げるナオキから姿隠すように背を向けて、シレンは自身の姿を見下ろす。  
 胸には小振りながらも形よい膨らみがある…。更に下を、そっと見る。触れる。  
「ない…。」  
「は?」  
 シレンは涙目で振り向いた。  
「体が女になっていやがる! 信じらんねェ!」  
「ええっ!?」  
 困難は続く…。  
 
 

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