部室の戸を開いてすぐに、今日は男2人は居ないのだとわかり、改めて出直そうと思った。
戸を潜ることも無く、若干の落胆の表情を見せた彼の名は、内田。
今度もまた、この部室の連中に助力を得ようとやって来たのだが。もう一人の部員に相談できないのには訳がある。
入り口の正面に位置する部員用の机、その席には、お化粧用の鏡を覗き込んで、
日課である新しいリップを試している少女が座っている。
鏡を前に薄目を開け唇を飾る、その女性らしい仕草には、聞きしに及ぶ彼女の武勇伝とは到底結びつかない印象を受ける。
とても愛らしい。意中の相手で無いにも関わらず今の内田には、それだけでも必要以上に意識せずにはいられない。
当然彼女もとうに来客に気付いており、慣れた手つきで手早く自分事を済ませる。
振り向いて確認したわけではないが、尋ねてきたのが内田だということもわかる。
簡単に化粧道具を仕舞うと、椅子に腰掛けたまま入り口の方に向き直り、そして彼と目が合う…いや合ってはいない。
どうも視線が定まっていないようだ。自分の事を見ているのは間違いないのだが。
今日のメイクには自信がある、いつもあるのだが。
昨日初めて行ったショップで見つけたリップ。偶然自分が欲しかった色だった。とても自分にあった色。
ちょっとお気に入りだ。そのリップで彩られた自慢の唇を見ているようだが、違う。それだけではない、また別の何か。
定まらない彼の視線の先には何があるのか。心当たりがある。と言うよりも、これはよくある事。
彼に限った事ではない。
男が女を見ているのである。
ほんの一瞬ではあるが、文字通り舐める様に全身を見られた。
それで嫌な気分にはならない、こんなことは茶飯事なのだ。ただ、それが内田だったのが少し意外だっただけで。
挨拶に軽く声を掛ける。すると今度は、その言葉を発する唇の動きに併せて、彼の視線が動いているのがよくわかる。
一瞬、自分を見て唾を飲み込む内田の喉元を見逃さなかった。間違いない。
「お、内田やん、何や依頼か?」
き込んでくる大きな瞳、仕度を終えたばかりの初めて他人に見せる鮮やかな色の唇、
挑発するように結びを解かれたリボン、そのせいで余計に豊かに見える胸、
周りの女子よりも短くしてあるスカートから伸びる白く瑞々しい綺麗な二本の脚。
その年相応より少しだけ過分に醸し出される色香のある体付きを間近にして、同じく年相応の反応をしてしまった。
さっきの視線は気付かれてしまっただだろうか。唾を飲み込む音は洩れなかっただろうか。
もし気付かれていたなら、なんて恥ずかしい事だろうか。やはり今回の依頼は彼女が相手では無理だろう。
引き返そう。
「う、うん…ちょっと。…2人は居ないみたいだね。…また…今度にするよ。」
視線を逸らし俯き加減にそう言う内田は耳まで赤くなっている。
その理由はともかくとして、依頼がある事は確かなようだ。部室の留守を預かる者として、
これは見過ごすわけには行かない。
「ま、ま、まー、とにかく、ちょうこっち来て座り、おいでっ。
勉強の事とかは皆目わからへんねんけど、それ以外の事やったらアタシ一人ででも何でも力なったんで。」
戻ろうとする内田を強引に引きとめ、部室のソファに座らせる。
凄い力で無理やり袖を引っ張られ戸惑う内田だったが、依頼人を座らせて置いて
隅で来客用のコーヒーの仕度を始める彼女を見て観念する。
こうなってしまってはどうにも断れない。性格だ。
ブラックで良いと答えてしまう。
以前来たときよりもそこはかとなく良い香りのするこの部室。ああ、自分の他に野郎が居ないせいか。
嫌味の無い程度の女物の化粧の香り。こんなに心地好いものなんだな。
そんな事を考えていると、少しは落ち着いてきたのだと自分でもわかった。
暖かいコーヒーの注がれたティーカップを手に取り、一口いただく。いつも飲んでいる苦い味だが、酷く懐かしく感じる。
恥ずかしいのだが、真面目に言えば相談に乗ってもらえるだろう。ここに居るのはそういう人たちだ。
だから来たんじゃないか。
穏やかに目を細める内田…
彼が平静を取り戻したのも束の間。
内田の隣に彼女が腰を下ろした。
ならば、本来ならば対面して座るのが普通ではないのか。
「あのっ、おにっ…おっ鬼塚さん…??」
少女の名を呼ぶ。
平静を装い尋ねてみてはみたものの緊張で声は上擦っている。
「かかっ、か、肩っが…ふれっ…触れって…る。」
初めて触れる女性の柔肌、互いに制服を着ていても、女の肉の感触が肩から諸に伝わってくる。
想像だにしていなかった突然のスキンシップにどうしていいのかわからない。
ひょっとしたら、彼女の方は別段意識していないのかもしれない。
自分一人で勝手に舞い上がって仕舞っているのだろうか。
自意識過剰で失礼なことを言ってしまったんじゃないか。
……。
こんな些細な事で、こんなに取り乱してしまっていいのだろうか、これから相談しようと思っている内容は、
さらに難題だと言うのに。
今までにまともに女性と接した事が無い。
親しく付き合うなんてもっての外だ。
会話をする事はできる、相手の目は見ていないが、どんな内容の会話でも適当に相槌を打つだけだが。
今まではそれで良かった、しかし、もうそれではダメなのだ。
女の子に、慣れなければ。
しかし。
カップを持つ右の手が震えている。
この振動は、確実に肩を通して彼女にも伝わっているのだろう。
醜態を晒しているのかと思うと、動悸が激しくなってくる、心臓の音が大きい、呼吸が上手くできない、
何もしていないのに息が上がり肩が上がってしまう。
それが彼女の二の腕を擦り上げている、このままでは変な誤解をされ兼ねない。
そうなっては、もう依頼処ではなくなってしまう。
鬼塚と呼ばれた少女、あだ名は『ヒメコ』で通っている。
内田の視線の意味を察知した時、ある事を思いついた。
それは彼女のいつもの悪い癖であるのだが。
内田側にやや身体を寄せたまま、自分で注いだコーヒーを飲む。
彼が固まっているのがわかる。
伝わる緊張に思わず鼻が鳴ってしまうが、内田は気付きもしない、彼は今それどころではいのだから。
ちらと隣の少年に目をやり、それを確認する。
隣に座ったのは、ほんのからかい半分だったのだが、少々早まったかなと反省した。
あわよくば、とんとんと…とも考えたが、やはり内田は内田なのだ。
彼に対して悪いことをしたかな。
思った以上の初心な反応に、改めてそう思った。
これ以上は依頼処ではなくなってしまうだろう。
相変わらず何を考えているんだか、心で自分に苦笑する。
とりあえずは、まず依頼の内容を聞こう。
もし、それから先の話があるのなら、それはまたその時の話でいいわけだし。
そうして内田の言葉には直接は答えず、ヒメコはほんの少しだけ身体を離した。
「…で。依頼て?」
─劇終─