穏やかな、水曜日の放課後――
遠くで聞こえる吹奏楽部の演奏に耳を傾けながら、俺は部室のソファーに寝そべっていた。
「タッタララ〜♪って、知らん曲のリズムに乗れるか!どうせならポップマンのOPを演奏してくれよな。」
と、天井に向かって一人喋ってみても返答はない。
スイッチは小田倉くんと一緒に視聴覚室でDVD鑑賞。
スイッチお勧めのアニメの批評会をするだとか。
スイッチが抱えていたDVDが入ってた箱の大きさを考えると、今日は部室に戻って来ないだろう。
ヒメコは買いたいものがあるってのに、金がないとか叫んでどっかいっちまった。ぺロキャン買わなきゃいいのによ。
そういって、ヒメコの机に置いてあるぺロキャンの箱を一瞥した。
目に付いたのは、たこわさび味のぺロキャン。
「あんなのがうまいんかね〜…」
もちろん返答はない。
その寂しさを少し表情に宿しながら、ソファーから立ち上がる。
おもむろに、ぺロキャンの箱から一本取り出してみた。
沖縄そば味のそれを、じっくり眺めてみる。
ぺロキャンも一応、沖縄ブームに乗っかってるんだな。
そういえば、さっきキャプテンに何個かもらった飴の中にもシークワーサー味があったような。
そんな事を考えていると、部室のドアが開く音がした。
その音の方向に目を向けると、ヒメコが居た。
よかった、これでロンリーの寂しさから脱出だ。
「おぉ!おかえり!!お前ひとりでどこ行ってたんだよ?こっちは一人で天井と喋ってたってのにさ〜。」
「そう…なんや。」
そう呟やくと、ヒメコはのろのろと畳の方に歩いていった。
「お、おぅ…。」
あれ?いつものヒメコにしては冷たくないですか?
ヒメコからいつもと違う雰囲気を感じ、その姿をじっと見てみる。
畳にちょこんと腰掛けたヒメコは何か喋る様子でもなく、じっと座って床を見つめている。
いつもの騒々しさからは微塵も感じることの出来ないオーラを纏っている。
長く見すぎたのか、ヒメコの顔がゆっくりこっちを向いた。
「なんや?」
そう言った声も元気がない。
「い、いや…何にもないけど。」
―――やっぱり、いつもと違う。
「お、おぃ、どうしたんだ?なんかあったのか?部長に隠し事なんかするなよ?」
「ん、なんもない。それより、ぺロキャン頂戴や。」
「あ、おぉ。沖縄そばでいいか?」
俺はヒメコに近づいて、持っていたぺロキャン沖縄そば味を差し出す。
「ありがと。」
そういってヒメコは左手で、俺からぺロキャンを受け取った。
…ん?左手?
勢い良く振り返り、アレを確認する。
もしかして、でもまさか…。
「おい!ヒメコ!」
俺の声に反応して、ヒメコはビクッと肩を揺らした。
そんなヒメコの肩を掴み、制服の右袖を捲り上げる。
「な!なにすん!!」
ヒメコの声を無視して、右腕の確認を続ける。
「…っ!!」
白い腕には、はっきりとした赤い手形があった。
おそらく、相手に強い力に掴まれて出来たのだろう。
一部は変色して紫色になってしまっている。
「やっぱり、お前…」
さっき、壁のほうを向いて確認したもの。
ヒメコの愛刀。といってもホッケーのスティック。
――――薫風丸。ヒメコが喧嘩で負けるはずはない。
でも、こいつがなかったら…可能性はなくはない。
「喧嘩か?誰とだ?骨いっちゃってるかもしれないから、保健室行くぞ。」
「…大した事あらへん。」
確かに、右腕以外に外傷はないが、ぺロキャンを受け取る時にわざわざ左手を使ったんだから相当痛むんじゃないのか?
「部長命令だ。とりあえず保健室に…って、おい。何があった?」
一瞬、泣いているのかと思った。
思わずあの公園を思い出す。
今、ヒメコは泣いていない。
目に涙を浮かべ、それでも泣かないように必死に耐えている。
切なげに眉を寄せて、唇をかみ締めて。
「…バイト。」
ヒメコは、ポツリと言葉を漏らした。
「あんなぁ…、バイトを紹介してもらったんやけど、教えてもらった店に行っても誰も居らんくてな、変やとは思ったん。」
ヒメコの震える声を、黙って聞くしか出来なかった。
「…でな、少ししたら柄の悪い男がいっぱい入ってきてもうてな…。普通バイと行くのに、薫風丸は持ってかんやろ…?」
――――――ヒメコは、それからも振り絞るような声で話を続けた。
何があったのか聞いたのは俺なのに、その話はとても痛々しかった。
ヒメコはその店で、男数人にレイプされそうになったらしい。
薫風丸を持っていなかったヒメコは、やり返す事も出来ず―――それでも必死で逃げてきたようだ。
話の途中、ヒメコは何回か悔しそうな表情をしていた。
「でもな、全然…平気や。最後までやられやんだし、怪我したんも右腕だけや。さすが鬼姫やろ?」
あんな人数の男から、右腕の痣だけで逃げてきたんやで?
そうやって、目に涙を浮かべながら無理して笑おうとするヒメコを直視することが、俺には出来なくて。
「…!」
気づけば、ヒメコの口から残り少しとなったぺロキャンの棒を引き抜き、自分の唇を重ねていた。