いつしか空は白み始めていた。
この腕の中の温もりを手放したくない、しかし――。
「私、行かなくては・・・」
分かっていた、今宵のことは一刻の夢、あの蛍の如く儚きもの・・・。
「お師匠様・・・・・ありがとうございました」
いっぱいの涙が湛えられた瞳が、蓮を見つめていた。
「お師匠様は、私にこの先の何もかもを乗り越え
られる程の幸せを与えて下さいました。
今宵の美しい月、あの蛍、お師匠様のお声もお姿も
温もりも、ずっとずっと私の胸の中で生き続けるでしょう」
「私も、生きている限り忘れません」蓮が答える。
本当はこのまま、さらってしまいたい――しかし、それは叶わぬ夢だった。
引き裂かれる様な痛みに耐えながら、彼女を立たせ
「さあ、人目につかないうちに・・・」と、背中を押してやる。
これでいいのだ、これで――。
京子は蓮に押し出されるまま、数歩進んだ所で立ち止まる。
華奢な肩が震えたかと思った一瞬のち、京子は振り返り蓮の胸に飛び込んできた。
蓮は万感の想いを込めて、彼女を強く抱き締め、言った。
「愛しています・・・」
「私も・・・」
名残を惜しむ様に唇を重ねる。
やがて、身体を離した京子は大切にしている琴の爪を懐から取り出した。
「これを・・・・私だと思って――」
そう言うと溢れ出しそうな涙を隠し、今度は振り返らずに走り去る。
蓮の手の中の琴の爪だけが、夏の夜の夢の名残りだった――。