「敦賀さん、また具合が悪くなったって本当ですか?!」
LME事務所内で、ラブミー部員のピンクつなぎを着たキョーコが、蓮の前に立ちはだかった。
蓮は、DM以来久しぶりに彼女と会えたことが嬉しく、一生懸命に自分の元に駆けつけてくれた少女の姿に優しく微笑む。
「またって、心外だな。俺はそんなに柔じゃないよ。大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
抱きしめたくなる衝動を抑えるために、腕組みをして肩を竦める。
「差し出がましいのはわかりますが、看病させてくださいっ! 絶対敦賀さんは無理をするに決まっているんです」
ドピンクつなぎ姿だろうが、自分のことをうるうると心配げに見上げる彼女の表情は、
蓮の心臓を跳ね上がらせるには充分だった。
「い、いや、そこまでしてもらわなくてもいいんだよ。今度はちゃんと薬を飲んだし。以前君に用意してもらった
氷嚢もある。社さんにも食べやすいものも調達してきてもらったし」
とレトルトのお粥や、レトルトの野菜スープの入った袋を見せた。
キョーコは隣に立つ社に膨れてみせる。
「社さん。今日の敦賀さんのご予定を聞いてもよろしいですか?」
「あ、ああ。もう今日はこれでオフになるけど……キョーコちゃん?」
「ご迷惑でしょうが、敦賀さんの食事状況が気になります。せめて今日の夕飯をつくらせてくれませんか」
気合十分のキョーコに、二人の男はあっけにとられて頷いた。
蓮のポルシェの後部座席で、スーパーの袋の中身を再点検しているキョーコに社はちょっとした疑問をぶつけた。
「蓮の具合が悪いって、キョーコちゃんはどこで聞いたの?」
「は? あ、ええ。松島主任に。私なら以前に敦賀さんの看病をしていて事情もわかるし、泊り込んでも、
ラブミー部員の私と敦賀さんの場合は問題はないだろうって言われまして」
「と、泊まる? お泊りするの?」
社がぽっと頬を染めた。
「はい。敦賀さんの具合が悪化しているようなら徹夜でもしろと……って敦賀さん! く、車が側溝に落ちます!」
蓮は慌ててハンドルを切った。
「私もDMが終わって、次のドラマのオーディションをしてたりしてますが、時間ありますし。……敦賀さん?
何だか目がうつろです。やっぱり私、今日は泊ま」
「あのね、最上さん。俺も一応男だから、それはやめたほうがいいね」
「何言っているんですか! 敦賀さんは紳士で……前、無言で私の裸なんて嫌がらせでも見やしないってな感じで
嘲笑ってくれたじゃないですかっ。忘れたとは言わせませんよ。また『嘉月』の時のように私をからかうつもりなんですね」
ぷりぷりと怒るキョーコを前に、蓮は過去の己の言動を呪った。
(今は事情が違う……とは言えるわけがないか)
「とりあえず、ご飯だけは頂こうかな。君の作るものは本当に美味しいから」
蓮の微笑みに、キョーコを一人置いてけぼりにして、社が乙女のようにきゃーきゃーと騒いでいた。
キョーコと二人きりになるのはまずいと、蓮は、遠慮しなくていいのにとにやにやする社もマンションに招いた。
温かい鍋を三人でつついて、片付け終わると、社はタクシーで自宅に帰ると立ち上がった。
「じゃあ、キョーコちゃん。蓮をよろしくね」
「え。ちょっと待ってください、社さん。彼女も送ってくれるんじゃ」
「だってお前。まだ顔色が良くないぞ。ちゃんと面倒見てもらえ」
「だから眠っていれば治りますし」
「どうせまた明日は朝食抜きになるだろう。朝御飯をきちんと食べてから、二人で仲良く俺を迎えにきてくれよな」
「朝飯は食べますから、最上さんをどうか」
玄関先で攻防を繰り広げる男たちの間に、キョーコが声を掛ける。
「敦賀さん。熱は下がりきりましたか? お風呂はどうします?」
「ほら、お風呂にします? だって。次はお背中流します? かな」
「社さんっ!」
あははははと笑いながら帰っていく社を引き止められないまま、蓮は玄関先で一人途方に暮れた。
「最上さん、お風呂はいいから。帰る支度をして。送っていくから」
キョーコはきょとんとして、蓮を仰ぎ見る。ぴょんぴょんと飛び跳ねて彼の頬を両手で挟みこむと、
キッと顔つきを変えた。鍛えられた腕をしっかりと掴みベッドルームへと連れ込んだ。
「信じられませんっ。何が送っていくんですか。具合悪化していますね? 顔が熱いですよ。
やっぱり無理してたんですね。私のことはいいですから、あとは眠っててください!」
キョーコは氷嚢やら氷枕をテキパキと用意し始め、蓮をベッドに寝かしつけた。
布団をしっかり肩まで掛けて、ぽんぽんとその肩口を叩いた。
「今日はご飯を食べてくれましたから、前ほどではないと思いますよ。でも社さんに任された以上
手抜かりはないよう、様子を見に来ますからね」
「社さんや松島主任に頼まれたから、俺を看病してくれるの?」
子供のように少し声を尖らせる蓮に、キョーコはおろおろとエプロンの裾を握った。
「頼まれたこともありますけど、心配しているんです。私の心配なんてご迷惑かと思いますが」
自分の不機嫌さに戸惑う少女に、蓮は苦笑する。
「いや、ありがとう。可愛い後輩にそんなに慕われて俺も、幸せな男だね」
『後輩』と自ら口にのせた言葉に、ぎゅっと眉根を寄せる。
「苦しいんですか? 呼吸がしづらいですか?」
キョーコは蓮のパジャマの首もとのボタンに手を掛けた。
「も、がみ、さん」
何気ない彼女の行動一つに、自分の想いを吐き出してしまいそうになる。
「大丈夫ですか? 病院へ行きましょうか?」
潤んだ瞳に、くらりときて蓮は目を閉じた。
「いや、何でもない。もう眠るよ」
「わかりました。何かあったらすぐに呼んで下さいね、遠慮なんてしちゃ駄目ですよ」
キョーコが、ゲストルームに消えていくのを蓮は寂しい気持ちで見送った。
(多分、……いや、きっと熱のせいだ)
以前は風邪をこじらせて意識が朦朧としていて、また、まだキョーコを女の子として意識していなかった時期でもあり、
同じ屋根の下で過ごしたとしても何とも感じてはいなかった。
ところが今は、思春期の少年のようにどきまぎしている。
「ちゃんと部屋に鍵を掛けているよな、最上さん。頼むから俺の前で無防備にならないでくれ」
自分の言動の危うさを恐れながら、蓮はまどろみ始めた。
深い深い眠りについて、少女の夢を見ていた。
幼いキョーコが、自分の周りを楽しそうに回って、河原を駆けている。
鬼ごっこなのだろう、追いかけて捕まえようとすると、するりとかわされて、目付きの悪い小さな男の子の
もとへ走っていった。ショーちゃんと嬉しそうに笑って。
次には成長した今現在のキョーコが、不破尚と対峙しているのを遠くから自分は眺めていた。
ありありと敵意をむき出しにしていて好意など微塵にも感じられないというのに、
しかし二人とも視線を少しも逸らさない、その様子に息が出来なくなる。
多分、自分が声を掛けてもどうにもならないのではないのかという不安を抱えつつ、キョーコの元へ
歩み寄ろうとした途端、彼女の身体が一陣の風とともにかき消された。
ふと真夜中に目が覚める。夢の中の生々しい感覚が残っているせいか、身体が強張っていた。
(夢だ。彼女は消えていない。今、ゲストルームにいるんだ。何を怯える)
水分補給をして気分を落ち着けようと身体を傾け、蓮は目を眇めた。
(重い?)
具合が悪くて、だるいせいかと思いきや、細い腕が自分の腰に巻きついていた。
蓮のおろし立てのパジャマを恐縮しながら借りて着たキョーコが、今目の前で気持ち良さそうに眠っている。
まだ夢の中かと額に手を当てるが、眠りに入ったときよりも、調子はずっといい。
(本物だ)
蓮は、ベッドの上でわずかに後ずさりした。
(どうして俺のベッドへ)
夜這いという言葉が過ぎったが、キョーコに限ってそれはないだろうと、頭を振る。
蓮が後退したためだろう、ウエストの合わないズボンがずり落ち、白い下着が覗いて見えた。
寝ぼけているのか、蓮を抱き枕と勘違いしているようでぎゅうっとさらに抱きついてくる。
甘い香りと柔らかい感触に、突然湧き上がった自分の中の欲望と闘う。
「最上、さん。ほら、起きて」
小声で告げるが、寝息が返ってくるばかりだ。抱き上げてゲストルームに運ぼうと脇に手を差し入れたが、
パジャマ越しに胸に触れてしまって、思わず手を離した。ブラを着けていない。
ぶかぶかのパジャマの下の裸を意識したら、どうにも身動きが取れなくなった。
「だから、やめた方がいいと……」
蓮は虚ろな目でキョーコの寝姿を眺めていたが、彼女が漏らす吐息に、シーツを握り締める。
その細い首筋に、鎖骨に吸い寄せられるようにして唇を寄せた。
肌に触れるだけのキス。
(だめだ。何馬鹿なことをしている)
理性の声が引き止めるが、止めがたい気持ちの方が勝っていた。
そして、パジャマのボタンを一つ外しかけ――キョーコがえへへと笑いながら、頬擦りしてきたため動きが止まる。
「……敦賀さーん、どうですかぁ、私、妖精さんに……なれてますかぁー? 敦賀さーん?」
不破でもなく他の誰でもない、自分の名を呼ばれて我に返る。
「……も、がみさん?」
呼びかけるが、目は瞑ったままだ。幼い頃と変わらない面影に胸が苦しくなる。
「本当に、最低な奴だな、俺は……」
毛布を引き上げて、少女の肩まで掛けてやる。
キョーコは、寝返りを打ちながらも蓮に抱きついたままだ。
無理矢理起こしてでもゲストルームへ戻せばいいのだろうが、彼女が立ち去った後の自分の部屋の
空虚さを思い、キョーコを側から離したくはなかった。
「はー。明日、俺寝不足になるんだろうな……でも、悪夢は見ないですみそうだよ。おやすみ、最上さん」
優しく頬に口づけ、少女の温かい身体を笑顔で抱きしめてそっと目を閉じた。
「あ、あれ?」
目覚まし時計よりもいち早く、キョーコの素っ頓狂な声が、蓮の部屋に響きわたった。
「な、つ、敦賀さん?! ごごご、ごめんなさいっ、まさか私寝ぼけて?」
蓮に抱きしめられ、パジャマのズボンは床に落ちたままの少女は、自分のはしたない格好に、彼の腕の中で飛び上がった。
「信じられない! 私?!」
枕に頬を埋めたままで蓮は、腕の中の挙動不審の少女を見つめ、くすくすと笑ってみせる。
「俺以外の人間に、こんな真似をしちゃ誤解をされて襲われるよ?」
ごめんなさいと消え入りそうな声に、首を振る。
「昨日は熱のせいで怖い夢を見てたから、添い寝をしてくれて助かったよ」
キョーコは、蓮なりの気遣いと優しさであろうと、彼の言葉に恐縮する。
それでもいつまでも絡みつく蓮の長い腕に、困惑し、焦り始める。
「あ、あの、敦賀さん、う、腕を、その?」
「ああ。ごめん。つい」
「つ、つい?」
惜しいという思いを隠して、蓮はキョーコの瞳を寝転んだまま覗き込んだ。
「先日駄目にしてしまった抱き枕の柔らかさに、君が似てたから」
「私、抱き枕みたいに平べったいですか」
ずもももんと沈み込むキョーコに、吹き出してしまう。
「あ。笑いましたね。でも元気でました? 顔色もいいですし、もう大丈夫ですね。じゃあ、
さっそくキッチンをお借りして朝食と一緒に、今日の晩御飯を作り置きしておきます、栄養つけなくちゃ」
(ああ、今夜は一人でこの部屋に戻ってくることになるのか)
突きつけられた寂しさを、胸の中に押し込んだ。
「じゃあ、ご飯を食べて、社さんを迎えにいこうか」
「はい!」
パジャマの上着だけのキョーコの姿はさすがに朝から刺激的だったが、小さいながらも幸福なひと時を
失いたくはないと、彼女のぬくもりの残った毛布を抱き寄せた。