「キョーコ、ただいま」
しっかりと声に出して言ったのに、キョーコは手鏡を唸りながら覗き込んでいて気付かない。
集中するとこの調子で周りが全然見えなくなるんだから困った子だ。
俺は呆れながら、ソファに座っているキョーコの両肩に後ろからポンっと手を置いた。
「ただいま」
「わわっ!!おかえりな…んんっ…」
振り向いた瞬間に唇を塞ぐ。
もう数え切れないほどこうしてただいまのキスをしているのに、キョーコはそのたびに頬をふわりと赤く染める。
まあそれがかわいくてやっているわけだが。
深く貪ろうとしたのを察したのか、キョーコは焦ったように俺を引きはがす。
「ん…おかえりなさい、すぐごはんの支度しますから」
「急がなくていいよ。それより何か悩んでたみたいだけど。今日は監督と会ったんだろう?」
回り込んで隣りに腰を下ろした俺の言葉に、キョーコはこくりと頷いた。
明日から撮影が始まるドラマの打ち合わせ。
共演するはずの俺は別の仕事で抜けられず行けなかったが、
キョーコは顔合わせも兼ねて監督や共演者と軽く打ち合わせがあったはずだ。
「私、どうしても小悪魔の演技、ってのがわからなくて…
それで、打ち合わせのあとで新開監督を捕まえて相談したんです」
「監督はなんて?」
「深く考えるな、むしろ何も考えずに台詞を言えばいい、蓮と君を選んだのはそういう理由だ、って」
あの人俺たちの関係に気付いて――いやそうか、社長が言ったんだな、まったく…
「そんなのますますわかりません、って言ったんです。そしたら一応教えてはくれたんですけど、やっぱりわからなくて」
「監督はどう説明した?」
「明日撮るシーンを例にあげて。敦賀さんが思わず私を押し倒しちゃうシーンです」
そうか…初日からそのシーンだったな。
キョーコが演じる小悪魔の子が気分が悪いと言い出して、ホテルまで送った男が彼女を押し倒す。
真面目でつまらなそうな女だと興味はなかったはずなのに――
「監督がおっしゃるには、相手の男は、彼女の気だるい様子やなにげないしぐさになぜか目が離せなくなって、」
キョーコは困った表情で口元に手をやり、指でゆっくりとかすかに開いた唇を縁取るようにたどっている。
「それから彼女の華奢な身体に妙にドキドキしはじめちゃって、」
いつも咥えるとビクンと跳ねる柔らかい耳たぶ、首筋、細い肩、うなじ…
「最後に彼女の潤んだ瞳に正面から見つめられて、男は理性が吹っ飛んじゃって思わず押し倒しちゃうんだ、って」
キョーコは俺のほうに向き直り、とどめを刺すかのようにうるうると涙ぐんだ瞳で見上げ…
「敦賀さんどうしよう…そんな演技わたしでき…ちょっと敦賀さんっ!?」
「ごめん、話はあとで聞くから…っ」
「な、なに言って…!ちょっともうっ、だ、だめ…っ、あ、だめ、ですってば!敦賀さんお食事だってまだ…」
「先にキョーコを食べてから」
まずいな…この調子だと明日は本気で押し倒してしまいそうだ。
くそっ、結局社長と監督の思い通りじゃないか、と一瞬頭の隅で考えたが、それも理性と共に吹っ飛んで…
抑えの効かなくなった俺は、そのまま欲望の波に流されてしまった。