コンコンと窓ガラスを叩く音。
振り向いたのはただの条件反射だった。そこに何かを求めたわけではない。
だがそこにいたのは。
今は一番会いたくなかった、誰より俺を揺るがす少女。けれどその姿を見た
途端、俺の心は柔らかに震えた。
こんなどん底の気分の中で、どうしてこんなにも胸が高鳴るのか。
その顔を見ただけで。
「…どうした…?こんなところで……」
その声に名前を呼ばれただけで、どうしてこんなに嬉しいと思わなければならないんだ。
俺は果ての見えない暗いトンネルの中で、ついさっきまでどうしようもなくもがいていた。
自分で出口の見つけられない闇を、持て余して立ち竦むしかなかった。
なのにどうして彼女の笑顔は、まるで暗黒で見つけた灯のように、俺に希望を齎すのだろう。
それはほのかな輝きで、けれど強い太陽のように俺の胸を刺す。
「敦賀さんのマンションに伺うところだったんです」
彼女は優しげに微笑んで、まるで内緒話を告げるように囁いた。
「俺の…?」
確かに俺のマンションは、この場所から目と鼻の先だ。それならばここに彼女が
いても、別に不思議はない。
だが意外といえば意外な言葉に、俺はその言葉を繰り返す。
「はい。もしお夕飯がまだなら、ご一緒にいかがですか」
そう言われて始めて、自分がここ数日まともに食事を摂っていないことに気がついた。
普段からあまり食事に対しては欲求が湧かないせいか、さほど空腹も感じない。
だが───。
少し不安そうに俺を覗き込んでくる、彼女の必死さが伝わってきて。
俺は知らず知らずのうちに微笑んで、そうだね、と彼女に頷いていた。
「和食でいいかな。この近くに狭いけど落ち着いた、いい店があるんだ」
ドアロックを外して、彼女に助手席を勧めようとした時。
「敦賀さん」
少し言いづらそうに───照れくさそうに、彼女が下げていた右腕をかざした。そこには
何か買物をして来たと思しき、ナイロンの袋がぶらさがっている。
「もし、ご迷惑でなければ」
彼女の囁くような言葉に、胸の奥で何かが「とくん」と小さく鳴った。
「敦賀さんのお部屋で、私が作ってもいいですか?なにかお腹にやさしいものを作ります」
とくんとくんと胸の響きは徐々に大きく、けれど決して不快でなく俺の内側を
侵食していく。温かで確かな、何かを追い求めるように高鳴っていく鼓動。
そうだ───これは鼓動だ。その優しい響きは、どうしようもなく俺を堰き立てる。
「しばらくまともにお食事なさってないんじゃないですか?………顔色、あんまり
良くないですよ」
気遣わしげなその言葉に、身体の内側から何かが不意に零れ出しそうになって。
俺は思わずシャツの胸元を抑えていた。
それは意味不明な言葉かもしれないし、正体不明の感情なのかもしれない。
自分でも何が何だか解らなくて、こんなことは初めてで、俺は言葉もなくただ彼女を
見つめた。
ただそこにいるだけで、俺を揺るがす一人の少女。
俺は多分彼女の申し出を断れない。いや、断らないだろう。必死に踏み固めた地面が
崩れて行くのはこんな気分なのだろうか。
彼女を連れて部屋に帰って、そこにあるのは。───恐らく致命的なほどの、歓びと苦しみの始まり。