「まったく、どうしたっていうのよ」
LME事務所近くのカラオケ屋まで呼び出された奏江は、キョーコの半泣きの表情に呆れたように肩を竦めた。
「留守電に『モー子さーん、私LMEにいられなくなる、どうしようどうしよう』ってだけで
ぷっつり切れたら、あんたが何か馬鹿なことでもしないかと心配するでしょうがっ! 一体何なのよっ」
しょんぼりとしながらも、キョーコはうるうると奏江を見つめる。
「モー子さん。心配、してくれたの?」
「なっ」
奏江の赤面に、キョーコはぱぁぁぁっと微笑んだ。
「な、何かあったら、ね、寝覚めが悪いからよっ」
再び沈み込むキョーコに、奏江は咳払いをする。
「一体どうしたのよ、言ってみなさいよ。い、一応親友でしょ」
『親友』の一言にキョーコはにこにことなったが、すぐにまた顔を曇らせた。
「……この前私、敦賀さんとCM共演することになったって報告したでしょ」
「ああ、エステの。あんた喜んでたじゃない。綺麗に撮ってもらえて、向こう二年無料でエステ通える
特典がついているって。何、駄目になったの?」
「い、いえ。順調に進められているのよ。しかも昨日打ち合わせが終わって明後日から、撮影に入るわ」
「今回のCMってまた黒崎監督なんでしょ。また無理難題でもふっかけられたわけ?」
キョーコは青ざめ、手にしようとしたオレンジジュースの入りのグラスを取り落としそうになった。
「い、いやぁああああ、も、モー子さーん! 怖いよー!
私の代わりにCMに出てー! 無理、絶対無理! 助けて! 敦賀さんに殺されるー!!」
一通り話を聞いた奏江は、キョーコの取り乱しように納得がいった。
「でも、あんた新人とはいえプロでしょ。一旦引き受けた仕事を投げ出すなんて、敦賀さんもいい気はしないんじゃない」
「それは……」
キョーコは口ごもる。わかっている。CMとはいえ、はじめは蓮と再び共演できてとてもはしゃいでいた。
少しでも敦賀蓮の演技を盗み、吸収しようと意気込んでいた。
それが昨日の打ち合わせで、一変した。
「エステだものねー、そんな演出もあるわよねー」
はじめは深刻そうにしていた奏江も、半ば面白そうに笑っている。
「モー子さん! ひどいぃ、私たち親友でしょ! DMのロケバスで膝枕させて頂いただけでも、気を失いかけたのに、
今回は、は、裸になるのよ!? 信じられない! なんでいきなり!!」
「裸っていっても全裸じゃないんでしょ。際どいところは敦賀さんが隠してくれるんでしょ」
「そ、そこが一番問題なのよ! む、胸を触られるなんてっ。黒崎監督は何を考えているのよっ」
「……完璧で最高なCMを作ろうとしているに決まっているじゃない。監督だもの。
あの監督は妥協を許さない。だからあんたを見込んでオファーしたんだと思うわ」
「う」
「まあ、頑張りなさい。相手が敦賀さんで良かったじゃない。他の下心ある男優だったら大変だったわよ」
多分敦賀さんのご機嫌がねと呟いた奏江の声を、キョーコは聞き逃していた。
「そ、そうよね。敦賀さんは……」
ふと『夜の帝王』を思い出したキョーコは真っ赤になって、再びあいぃいいと悲鳴を上げた。
撮影当日。
ピッタリとしたジーンズを穿き、上半身裸のキョーコはガウンを羽織った身体をカチンコチンにさせて、
スタジオの隅で背を丸めていた。
「きょ、キョーコちゃん。だ、大丈夫?」
隣に社に立たれただけで、キョーコはびくりと肩をすくめる。
「は、はい。只今冥界をさまよっておりますが、大丈夫であります」
青くなったり赤くなったりを繰り返すキョーコは、蓮の登場で更に卒倒しそうになる。
キョーコと同じようにジーンズに、上半身裸、ガウンを身に着けている。
ただ自分とは違い、ひどく艶かしく見える。
「最上さん。具合でも悪い?」
接近されて、逃げ出しそうになる自分を抑えつけた。
「ぐ、具合は……っ」
ぐらぐらと倒れかけ、蓮の胸板に手をついて、飛び上がる。
「やっ、ご、ごめんなさいっ」
「撮影が始まるまで、そこの椅子に座っていた方がいい」
「い、いえ。大丈夫です。今日の私は『強気の女』ですから」
クライアントから提示されたCMのテーマは『世の男たちに挑戦状を叩きつける』であった。
監督の黒崎はすぐに『京子』が思い浮かび、出演依頼をしたらしい。
「今日は敦賀さんにも負けるつもりはありません。覚悟してください」
睨みつけてくる少女に、蓮は微笑み、表情を引き締めた。
「わかった。受けて立つよ」
冷静な態度を貫こうとする蓮であったが、一昨日の打ち合わせ後から、精神的にかなり消耗していた。
パッド越しとはいえ背後からキョーコの胸を鷲づかみにする演出を聞いた時には、黒崎の悪い冗談だと
思い込まなければならないほどだった。
目の前で口をぱくぱくさせている少女を見なければ、自分が『敦賀蓮』であることも忘れて
監督に向かって怒鳴り出していたかもしれない。
『俺が言うことではないかもしれません。でもそれは、最上さんの、これからの京子さんにとって、マイナスになるのでは』
自制して、ゆっくりと息を吐き出すように疑念をぶつけると、黒崎はぽりぽりと頭を掻いた。
『そうだなー、裸ってだけで飛びつくマスコミは当然いやがるし、すぐに話題になる。やり方を一歩間違えれば
色物のイメージだって拭いきれなくなる可能性もあるだろうな』
『だったら』
『いや、俺はこの子だったら、そいつを跳ね除けてくれる何かがあると思うんだよな』
にやりと笑う黒崎の目の色は、真剣そのものだった。
『今回のCMは格好いい、クールにするのが俺の中でのテーマなんだ。芸能界一イイ男という呼び名は気に入らないが、
あんたの演技は気に入っている。男の俺でも感心する色気がある。京子の演技も俺はあんたにも負けないと踏んでいる』
言いくるめられ、何より自分が降りれば、他の男が代わりにキョーコの肌に触れることになるのだろうと危ぶみ、
蓮は黒崎の演出を了承した。
「じゃあ、始めるぞー」
蓮がガウンを脱ぎ、逞しく美しい肉体を晒すと、女性スタッフから感嘆のため息がこぼれた。
キョーコはというとカメラの前に立ったもののガウンを脱いだ下に、大きなバスタオルでくるまっていた。
撮影直前まで華奢な身体をなるべく、周囲から隠すようにと黒崎が気遣ったのだろうか。
しかしいずれ男性スタッフの前で、彼女の半裸を晒すかと思うと気が気ではなかった。
少女もそれを意識してか、カタカタと震えているのを側にしてわかった。
「最上さん、深呼吸」
己の自制心も危ういというのに、蓮は心の中でそっと自嘲する。
キョーコは大きく息を吸って吐いて、蓮を見上げた。
うっすらと上気した頬に、瞳は涙で濡れている。桜色の唇からは、舌が覗いて見えた。
(まずい。君はどうしてこう俺を刺激しようとするんだ、その気もないのに)
「……どうした。今日は強気で行くんじゃなかったのか。ほら、カメラをしっかり睨みつけて」
無表情でキョーコを叱咤するが、すでに焦りまくる自分のことで手一杯だった。
「……でください」
「え?」
「わ、笑わないでください。私胸が……小さいので」
真っ赤になる少女は、小さな身体をさらに縮めた。
「最上、さ?」
「おいそこ。ぺちゃくちゃしねぇで、撮るぞ。敦賀蓮。その子の胸、『しっかり』掴まえとけよな」
「は?」
問いかけをする前に、黒崎の指示で、キョーコのバスタオルに隠れている胸元に手を差し入れ、蓮は愕然とした。
(これは……)
柔らかい胸の感触に、蓮は目を見開いた。
手の平に当たるのは、布切れではない弾力のあるしっとりとした素肌。打ち合わせでは、蓮の手からはみ出ないほどの小さな
パッドを貼り付けて、その上から蓮がキョーコの胸を手で覆う設定だったはずだ。それが。
(直に触るだなんて聞いていない!)
指の付け根に、キョーコの胸の尖りが直接伝わってくる。寒いせいだろうか、
それがだんだんと固くしこって立ち上がってくる。キョーコは涙をこらえて、カメラを睨みつけている。
「……敦賀さん、お願い、ですから、…その、ちゃんと握っ……隠してくれませんか?」
蓮の手が離れそうになるのを、キョーコは不安げにしている。
バスタオルが取り払われ、胸を覆うのは蓮の手の平ばかりとなり、当然の発言だ。
しかしキョーコ自ら胸を触れと言っているようで、蓮は眩い照明の中で、立ちくらみしそうになる。
「……ぁっ、敦賀、さん?」
「あ、ごめん」
力の加減がわからなくなり、胸に指を食い込ませてしまう。
蓮は、これはキョーコの胸ではないと効果のなさげな自己暗示を掛け、カメラに目線を合わせる。
「よし、二人ともお互いの視線を絡めて、同時にカメラに向き直れ。それで後ろ、風」
黒崎はにやにやしながらも、その目は生き生きと輝いていた。
蓮は、キョーコと見つめ合い、半ば理性を失っていた。
彼女の頬やその身体はますます色づき、あまりに美味しそうで思わず抱き寄せていた。
可愛らしい胸を、自分の腹筋で押し潰すようにして隠し、頬を傾けていた。
キョーコに口づけをする直前、ガゴンという金属音。
二人ははっと正面のカメラへと振り向き、バケツと木の棒を手にした黒崎を見た。
風が起こり、背後の赤い布が大きく舞い上がる。
蓮とキョーコを包むように、布が纏わりつき。
「はい、カット!」
黒崎が楽しげにメガホンを上げたのを、二人は潤んだ瞳で見ていた。
撮影終了後。キョーコをだるまやまで送り届ける約束をしていた蓮は、着替えを終えてはーっとため息をついた。
社が、黒崎監督と話があるからキョーコちゃんを先に迎えにいってくれと言って、スタジオへと戻って行った。
キョーコの楽屋のドアをノックする。
「最上さん。入ってもいい?」
「……は、はい」
いつもは元気な返事が返ってくるのに弱々しい声。
「大丈夫か?」
私服に着替えて、椅子の上でぼんやりとしている少女。蓮が近付くと、キョーコは後ずさった。
「最上さん?」
「あ、あの。私、おか、おかしいんです」
「……恥ずかしくてCM降りたくなった?」
「恥ずかしいですけど、そう、じゃなくて……」
ごにょごにょとキョーコは、目を伏せた。
「自分のことなんですけど、わからないんです、身体がその……」
吐息するキョーコに、蓮は胸の鼓動が高鳴った。キョーコの元に膝をつく。
「どうか、した?」
「お、男の人の敦賀さんに、い、言え」
「笑わないよ?」
「……あの、その、私私、病気なんでしょうか、そのぼーっとして、した、した……下着、濡れてて……どうしよう、また、
熱くなって……わ、私に近付かないでくださいっ、移っちゃいます! こんなの知らないっ、
変な病気なんだわっ、病院に行かなくちゃ、やだ怖い……」
あまりに純真で、真っ直ぐな答えに、蓮は彼女をそのまま襲いたくなってしまいそうになり、立ち上がる。
「大丈夫、それは病気じゃない。ただ君は」
キョーコの濡れた瞳に、口づけの続きをしてしまいたくなった。
生理的反応だろうが、感じてくれた想い人を前に、平静ではいられなくなる。
「社さんを、待たせているから行こう?」
最後の理性を頼りに、蓮は立ち上がった。
蓮の楽屋に戻ると、社がにっこりと手を上げた。
「あ。蓮。俺タクシーで事務所に戻ることにしたから。お前ももうオフだろう。キョーコちゃんよろしくな」
「ちょっ、社さん?!」
帰りの理性を保つための綱に見離されそうになり、蓮は社の腕をしっかりと掴んだ。
「れ〜ん。今夜ならお前のテクで彼女を瞬殺できるぞ〜」
含み笑いに続き、社が囁いた言葉に、蓮は呆然と手の力を抜いた。
「どうかしたんですか」
君もタクシーで帰ってくれとキョーコには言えなかった。
廊下ですれ違うたび、キョーコを見る制作スタッフの目の色が違った。帰り道には何があるかわからない。
(君に嫌われたくないんだ。でも)
「最上さん。君が病気だと思ってる原因を、俺が今夜じっくり教えてあげようか」
首を傾げる少女に手を差し出す。おずおずと差しのべたキョーコの手を、蓮は愛おしそうに絡めとった。