この半年の俺の日常における密かな楽しみ、それは敦賀蓮を観察すること。
約半年前、ようやく、やっと、蓮の一途な想いをキョーコちゃんは受け入れてくれた。
というより、ようやく信じてくれたと言うべきか。
傍らで見ていた俺にとってはそれはもう奇跡を見ているかのような感激だったわけで、
自称蓮のお兄ちゃんである俺は、もう嬉しくて嬉しくて歓喜の涙を流したんだけど。
それまで毎日キョーコちゃんの言動に一喜一憂していた蓮の落ち着かない日々もこれで終止符、かと思いきや
むしろそれはこの半年でますますひどくなったような気がする。
つまり付き合い始めてからも、蓮は一層キョーコちゃんに夢中になってるんだな。
若いねえ。青春だねえ。
とはいえ俳優・敦賀蓮がそんなにヘタレているとは周囲は全く気付いていない。
ポーカーフェイスだしな。
そしてプロ意識が強いせいか、仕事に影響することはほとんどない。
そんな蓮が俺やキョーコちゃんだけに見せる、歳相応の素の表情。
はっきり言ってそんな蓮を見るのは面白い。大変興味深い。
思い返してみて一番面白かったのは…そうそう、あの時だな、2ヶ月ほど前だ。
そのときにはすでに蓮の「キョーコちゃん病」は悪化していて、
俺とふたりきりになって気が緩むと急に思い出し笑いをしたり頬が綻んでいたり、どう見ても怪しいヤツになり始めていた。
が、その日はまた一段と変だった。
朝、俺を迎えに来て運転しているときからすでに上の空で、事故でも起こすんじゃないかとヒヤヒヤだった。
「おい蓮、起きてんのか?おーい?」
呼びかけにも全く応じない。怖い、はっきり言って怖い。
しかも有り得ないことに、仕事の打ち合わせ中もその状態で、これは使い物にならないと焦った俺は、楽屋で呆けている蓮に詰め寄った。
「蓮、何があった?お兄ちゃんに話しなさい」
「…え?何もないですよ」
「何もないわけがないだろう!お前としたことが仕事中にまでぼんやりして!仕事に影響するとあっては俺の責任問題だ、白状しなさい!」
「す、すみません…気をつけますから…」
「ハーン言わないつもりか?だったらお前のこの携帯電話を」
俺は素手のままで蓮のケータイを取り上げた。
「1…2…」
「や、やめてください社さんっ!!それには隠れて撮影したありとあらゆるキョーコの写真が!!」
「だったら言うんだ。…3…4…」
「わ、わかりました、言いますから!」
「そうか、じゃあ聞かせてもらおうか」
とりあえず携帯電話は脇に置く。
さて今日の原因はなんでしょうねえ。初の喧嘩とか?キョーコちゃん泣かせちゃったとか?
「で?何があったのかな、蓮くん?」
「いや…あの、やはりこういうことは…あまり…」
「フーン、じゃあやっぱりケータイを。それに加えて隠し撮りの件もキョーコちゃんに報告っと」
「……そんなたいしたことじゃないんですよ。いや、俺にはたいしたことなんですけど…」
「なんだよ歯切れが悪いなあ、さっさとお兄ちゃんに言っちゃいなさい!」
「昨日キョーコが来て、それで…」
「それで?」
「朝まで一緒に…いたんです」
「ふーん。で?」
「…それだけ、です」
そういうと蓮は、顔を背けて乙女のように頬を染めた。
「なっ、て、て、照れるな!こっちまで恥ずかしいっ!!」
「社さんが言えって言ったんじゃないですか」
恥ずかしさに身悶えする俺を見て、蓮は拗ねたように怒った。
「だから言いたくなかったんですよ…」
「まあいいじゃないか。良かったなあ、蓮」
誰に対しても温厚で完璧で、同時に誰に対しても一線を置いていた蓮が、ごく身近な人間に対してだけとはいえ、変わっていくのを見るのは嬉しいことだ。
たとえその結果がヘタれて情けない青二才でも、俺は完璧な蓮よりいいと思う。
「そうですね…幸せです、すごく」
「お前変わったよなー、キョーコちゃんのおかげだな」
「そうですか?」
自覚がないのか首をひねる蓮。こういうところは天然だよな。
ププっと吹き出した俺を見て、蓮は呆れたようにため息をついた。
で。
今日の蓮はというと――朝からすこぶる機嫌が悪い。
正確にはここ一週間ほどずっとこの調子だ。
そしてこういう場合の原因はもちろんキョーコちゃんなわけで。
…この様子だとキョーコちゃんが忙しくて会えていないんだな。
ちょくちょくキョーコちゃんとのことを聞き出しているせいか、最近の俺は蓮の表情で前日に何があったか恥ずかしいほどわかるようになってきた。
たとえば前日会えていない時は物足りない顔。
それでも電話で話したという時は、たまに頬が緩むからまだいいが、それすら叶わなかったときはため息の連続。
昨夜は泊まっていったな、って時が一番わかりやすい。
朝から爽やかに満たされたオーラが出まくりで、一日オフだった翌日なんかは肌までツヤツヤしてこっちがため息だ。
(一度その日に遭遇したキョーコちゃんは、蓮とは違ってげっそりしていたけれど)
「最近は忙しいみたいだなーキョーコちゃんも」
「喜ばしいことじゃないですか、評価されてるってことですし」
「お前…言ってることと表情が違いすぎだぞ」
事務所の廊下を二人話しながら歩いていると、前から救世主が現れた。
「あっ!キョーコちゃぁああん!!」
「あ、社さんに敦賀さ、ぶあっ!」
早っ!!
横のデカイ影が動いたかと思ったら、次の瞬間にはもうキョーコちゃんに抱きついていた。
「キョーコ、会いたかった…会えなくて死ぬかと思った」
「あ、あの、敦賀さん、苦しいですぅ」
俺は慌てて横のドアを開けて、中の会議室に誰もいないことを確かめると、しがみついたままの蓮を突き飛ばしてキョーコちゃんごと放り込んだ。
「痛いじゃないですか社さん」
「誰か来たらどうすんだよ、ったく…時間がないんだ、5分だけだからな」
「せめて10分」
「…7分だ」
バタンとドアを閉めて時計を見る。
壁にもたれて、最大譲歩の8分が経過したところで会議室のドアをノックした。
「れーん、時間だぞ」
少し間を置いて、唇を親指で拭き取りながら出てきた蓮の顔は、さっきまでとは違って生き返っていた。
…蓮、おまえいつからそんなわかりやすい奴に。
「お待たせしました」
「キョーコちゃんも一緒に出る?」
ひょいっと覗き込んだ先のキョーコちゃんは、椅子に座ってひらひらと手を振った。
「いえ、私はもうちょっとしてから…」
「あれ?もう帰るところじゃなかったの?」
不思議そうな顔をした俺に、蓮は爽やかに言い放った。
「彼女、腰が立たなくなったみたいで」
「もう敦賀さんっ!!」
「そ、そう…じゃあ行くね…」
蓮は今にもスキップでもしそうな足取りで一歩先を歩いていく。
「お前さあ…」
「なんですか?」
「いや…少しは手加減してやれよ…」
「一応これでもいろいろセーブしてるつもりなんですけど」
どこがだよ!
大声で突っ込んでやりたい気分だったが蓮があまりにご機嫌で。
まあこれ以上のお説教はまたの機会に…ゴメンねキョーコちゃん…
心の中で謝りながら、担当俳優の背中を追いかける。
「キョーコちゃんが哀れだよ」
うぅ、と泣き真似をしながらエレベーターの前で追いつくと、
蓮は「俺のほうが哀れです」とぼそりと呟いた。
「こんなにキョーコにやられちゃって」
「あんまりヘタれるなよ。『敦賀蓮』が崩れちゃ困る」
チン、と音がしてエレベーターが開く。
乗り込みながらそう言った俺に蓮はちょっと情けない顔をしながら、「気をつけます」と小さくため息をついた。