そっとその小柄な身体をベッドに下ろし額に口付けると、彼女はきゅっと唇を噛みしめ睫毛を伏せた。  
恋人という関係においては当然たどり着くはずのこれからの行為。  
しかしここに至るまでに今までになく長い時間をかけていた俺はその晩、柄にもなくひどく緊張していた。  
とはいえそれを気付かれると、ただでさえ俺以上に緊張しているはずの彼女はますます不安になってしまうはず。  
そう思い、微かに震える自分の手をキョーコの指に絡め、強く握ってシーツに押さえ込んだ。  
 
カラカラに乾いた喉を潤すように唇を奪う。  
あとから思えばこのキスが始まりの合図になったのだろう、俺は我を忘れてしまった。  
激しく舌を絡められ苦しそうに吸った彼女の息に昂ぶり、俺は首すじへと吸い付いた。  
「あっ…」  
驚き戸惑うキョーコの声を遠くで聞きながら、彼女がシャワーのあとに羽織った俺のシャツへと手を伸ばす。  
そんな声じゃない、もっと甘く啼かせたい――  
自分の中に、こんな獣のように荒々しい感情と欲望が存在したのかと、頭の隅で冷静に見ている自分がいる。  
頬を染め、恥ずかしそうに涙ぐむキョーコ。  
耳の中を舐めるとびくんと身体を跳ね上げ、初めての感覚に驚いたのか俺の胸を手のひらで押し返す。  
「つ、敦賀さんっ」  
彼女に『初めて』を教えるのが自分だということ、それが俺をますます奮い立たせていた。  
 
これからも、誰にも渡すつもりはない。  
いや…本当は指一本だって、誰にも触れさせたくはないんだ。  
 
着ている俺のシャツのボタンを全て外し、柔らかな腹部に手を這わせる。  
――心だけじゃなく、この身体も…  
完全に理性を失いかけたその時、彼女の小さな囁き声が耳に届いた。  
 
「い、いや…」  
 
空耳かと思うくらいの小さな声だったが、その一言は俺をフリーズさせた。  
キスしようとしただけで固まっていた純粋なキョーコ。  
その日の彼女からは拒絶の意思は伝わってこなかったものの、今までのことを考えると、それが本音かと思って怯んでしまった。  
そして、我に返った。  
キョーコを自分のモノにしたいと焦るあまり、初めての彼女を労わることも忘れて夢中になっていた。  
危うく理性を吹っ飛ばして荒々しく欲望をぶつけるところだった。  
 
「つるが、さん?」  
「ごめん…何か温かい飲み物でも持ってくるから」  
涙ぐんでいるキョーコの髪を落ち着かせるようにそっと撫で、身を起こす。  
――まったく情けない……  
気付かれないようにそっとため息をつき背を向けた瞬間、手首をぎゅっとつかまれた。  
驚き振り返ると、上半身を起こした彼女はもう片方の手でシャツの前を片手で寄せて握りしめ、真っ赤になって俯いていた。  
「どうした?」  
「あっ、あのっ」  
何か言いたいらしく、ぱくぱくと口を動かしながら、キョーコはますます顔を紅く染めていく。  
「驚かせたね、ごめん。大丈夫だよ、無理強いするつもりはないから」  
「あのっ、違うんです、そうじゃなくてっ…!」  
俺は再び身体を向け、彼女の頬をさすりながら覗き込んだ。  
考えがまとまらないのだろうかと、言葉を待つ。  
責められるのだろうか、あるいはもっと時間が欲しいのだと釘をさされるのか…  
 
キョーコはしばらく逡巡していたが、やがて俯いていた顔をゆっくりと上げ、瞳を潤ませながら呟いた。  
 
「もう…やめちゃうんですか…?」  
 
 
 
 
「敦賀さん大変っ、鼻血!鼻血出てます、ティッシュティッシュ!!」  
「え?あー…あ、うん、ごめん」  
 
敦賀さんの顔にティッシュを押し付ける。  
拭いてください、って意味だったのに、敦賀さんはなんだかぼんやりしたままで。  
仕方がないから血を拭きとって、新しいティッシュでぎゅっと鼻ごと押さえてあげた。  
「大丈夫ですか?なんで鼻血なんか…」  
「なんでって、君が誘惑したからだろう?」  
「ゆゆゆ誘惑なんてしてませんっ!!」  
な、なにを言うのこの人!  
私なんてさっきまで、敦賀さんのいつもと違うキスに頭がぐらぐら揺れて、  
首に吸い付かれた時なんて思わず変な声で叫びそうになったのをなんとか堪えて、  
なんとかやり過ごしたと思ったら、み、み、耳の中なんて舐められて!!  
もう頭の中が完全パニック状態のところで敦賀さんの手が胸に伸びてきて。  
――どうしよう私、胸ないのに、きっとがっかりされちゃう……  
色気なくて、それで愛想尽かされて…あ、でも敦賀さんは優しいから、きっと自分からそんなこと言えないはず。  
だったら私から、別れを切り出したりしなくちゃいけない?  
そんなのイヤ…っ、こんなに好きなのに…こんな風に頭がぐちゃぐちゃになっちゃうくらい好きになっちゃったのに…  
…なんてぐるぐる考えていたら、突然敦賀さんが固まった。  
「敦賀さん?」  
「ごめん…何か温かい飲み物でも持ってくるから」  
 
ごめん、って、なに?  
私じゃそういう気になれないってこと?  
 
優しく頭を撫でる大きな手に、子供扱いされてることを痛感する。  
悲しくて、悔しくて…不甲斐なくて。  
ずっと敦賀さんが私と関係を深めることに迷ってるってことは、わかってた。  
さっきみたいにキスが深くなり始めると慌てて離れたり、泊まるというと少し困った顔をしたり。  
私に色気があって、それで敦賀さんが思わず襲っちゃうような大人の女だったら、そんな風に困らずに済むはずなのに。  
でも……初めて、離したくないと、離れたくないと思った人。  
気付いたら私は、ベッドから去ろうとする敦賀さんの手を掴んで引っ張っていた――。  
 
 
誘惑した、なんていう敦賀さんの意地悪は無視して、とりあえず血が止まるまで押さえてあげることにした。  
この部屋、暑いのかしら?  
「氷かなにかで冷やしたほうがいいのかな。…って敦賀さん?なんでさっきから目をそらしてるんですか?」  
「君って本当に…無意識なんだろうけど、いや無意識だからこそ罪じゃないかと最近思うんだけど」  
「おっしゃってる意味がわかりません」  
「だから、正面を向くと開いたシャツから胸が見えて目に毒なんだよ」  
「なっっ!!!」  
 
言われて気付いて、慌ててシャツをかきよせてうずくまった。  
「か、からかわないでくださいっ!」  
「だから…からかってるんじゃなくて、本気なんだよ」  
拗ねてるみたいな敦賀さんの顔は少し赤くなっていて、なんだか可愛い、なんてその時思ってしまった。  
「あのー。私、胸ないですよ?」  
「そんなこと気にしてたの?」  
「それに、そういう経験も、ないですし」  
「嬉しいよ?」  
「そ、それにそういう知識だって、全然」  
「教えてあげるから」  
再び敦賀さんが迫ってきて、あっさりベッドに押し倒される。  
「鼻血を出した敦賀蓮、って、なんだか笑っちゃいますね」  
このまま彼の思うままってのもなんだか癪で、仕返し気分で言ったそんな私の言葉に、敦賀さんは楽しそうに吹き出した。  
私もつられて可笑しくなって、ふたりでくすくす笑い合う。  
「ね、敦賀さん」  
「ん?」  
さっきまでの緊張が嘘みたいに解けて、私は敦賀さんの首に両手を回してそっと引き寄せた。  
「もう…やめないでくださいね?」  
了解、と答える敦賀さんの表情はいつもどおり優しくて、私は幸せな気分でその夜を過ごしたのだった。  
 

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